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チューダー王朝の国王たちの直筆サイン [チューダー王朝の国王たち]

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え、恋愛って何?あの2人 [歴史エッセイ]

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 アンとヘンリーは、出会ってから秘密結婚をするまで、肉体関係がなかった
という。いったいなぜだったのだろう。

 アンの姉妹メアリーは、以前ヘンリー8世の愛人だった。ブーリン家の家族
たちは、メアリーが美貌だったので「あわよくば」とかなり期待していたのに、
短時間で捨てられてしまって、出世や財産など、大した見返りもなかったことが
ショックだった。

 普通なら2度とチャンスが回ってこないところを、なんと!もう1人の娘アンが、
ヘンリー8世の浮気心をくすぐった。今度こそ失敗できない。ブーリン家は一家を
挙げて気を引き締める。アンの母エリザベス・ハワードは、娘にこう言い聞かせた
かもしれない。

「国王は体を許してしまうと、すぐに飽きてしまう方なんですよ。メアリーをごらん
なさい。なんと惨めで可哀想なのでしょう。ああならないよう、注意なさい」

 母エリザベス自身もヘンリー8世のお手つきとなって捨てられた過去があった。
 あまりにも短時間だったし体面が悪いせいか、ヘンリーは8世は「手などつけてい
ない」と言い張っていたが、とうてい信じられない。

 アンにしてみれば、母も姉妹ももてあそんで捨てたヘンリー8世には、内心憤懣が
あったのだろう。できれば、ひっぱたいてやりたかったかもしれない。
 もちろん国王に手などあげたら、命が幾つあってもたりないので、丁重に拒否した。

 それからのヘンリー8世の醜態ぶりは多すぎて書き切れない。
 ラブレターは書く、プレゼントする、歌は唄う、すがりつく、まあ、いろいろと
ムキになっていく。やがて時間が経つにつれ、ヘンリーはアンを口説くのに、別の
理由を付け加えるようになった。結婚して、正統な後継者を作ることだ。
「アンよ、結婚しておくれ!(ヘンリー8世)」
 アンは、「それならお付き合いぐらいはいたします」という態度で接した。

 ラブレターの内容もだんだん激しくなっていく。「そなたの乳房にキスしたい」
なんて書いているので、アンはキスや体を触らせるぐらいは、許したのかもしれない。
 相変わらず肉体関係は許さなかったが。

 石井美樹子という研究家は、アンはヘンリーを愛していて、恋愛関係にあった、
という。アンの本心など後世の人間が断定などできないかもしれないが、仮にアンが
愛人として強い自負があったとしたら、あるいは愛されることで満足するような真の
恋愛関係があったとしたら、当時の開放的な性風俗からすると、肉体関係がある方が
自然だろう。

 けれどアンは、王妃になれるまで、ヘンリーが心変わりする可能性を避けるよう
行動した。ヘンリーにとっても、困難きわまる本妻との離婚と再婚の過程で、肉体
関係は最後のごほうびと化していた。
 私はやはりアンにとっては王妃の座という、野心が優先だったと思う。
 ヘンリーにとっても肉体関係を求めることから始まり、跡継ぎをもうけることへと
目的が変わった。
 これだけ強烈な目的意識がある2人が、まっとうな恋愛関係だったと、とうてい思えない。


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英国史の年表(古代からスチュアート王朝まで) [チューダー王朝の国王たち]


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               ◆英国史の総合年表◆
             古代からスチュアート王朝まで


BC5年 ジュリアス・シーザー、ブリトン侵攻

AD43年クラウディアヌス帝 ブリトン侵攻

61年 女王ボアディケアの乱

122年 ハドリアヌス帝の長城建設始まる

500年 ブリトン軍、アングロ.サクソン人を破る

871年年 アルフレッド大王即位

980年年 バイキング(デーン人)侵攻始まる

1016年 カヌート王即位でデーン王朝始まる

1042年 デーン王朝滅亡 サクソン王朝復活 エドワード1世即位

1066年 サクソン王朝滅亡 ノルマン王朝始まる ウィリアム征服王即位 

1152年 エレオノール・ダキテーヌ、英国皇太子ヘンリー(2世)と結婚。

1154年 プランタジュネット王朝始まる/ヘンリー2世即位

1170年 トマス・べケット司教、暗殺

1199年 ジョン失地王即位

1215年 マグナ・カルタ(大憲章)成立 

1337年 100年戦争始まる(1453年終了)

1356年 ポワティエの戦い
1387年 ヘンリー五世即位

1415年 アジャンクールの戦い 

1420年 トロワ条約締結キャサリン・オブ・ヴァロワ英国王妃となる/
    (後のチューダー王朝ヘンリー7世祖母) 

1422年 ヘンリー5世崩御、生後半年のヘンリー6世即位

1429年 ジャンヌ・ダルク登場 

1430年 エドマンド・チューダー(ヘンリー7世父)生まれる

1431年 ジャンヌ火刑

1437年 後のエドワード4世王妃/エリザベス・ウッドビル生まれる
    (ヘンリー7世王妃の母/ヘンリー8世祖母)
1455年    薔薇戦争始まる

1457年   リッチモンド伯ヘンリー誕生(後のヘンリー7世)

1461年    ヨーク王朝始まる /エドワード4世即位
    (ヘンリー8世の母方の祖父)
1464年    エリザベス、ウッドヴィル王妃となる

1466年    後のヘンリー7世王妃エリザベス・オブ・ヨーク王女誕生
    (後のヘンリー8世母)

1483年   ボズワースの戦いでヨーク王朝滅亡 /ヘンリー7世即位/
     
チューダー王朝始まる

1485年  後のヘンリー8世王妃キャサリン・オブ・アラゴン誕生
    (後のメアリー1世母)


1486年  エリザベス・オブ・ヨーク王妃となる/ ヘンリー7世にアーサー王子誕生

1489年  ヘンリー8世誕生/エリザベス・ウッドビル死去

1491年  マーガレット王女誕生(後のメアリー・スチュアートの祖母)

1596年  メアリー王女(後のメアリー1世)誕生/(後のジェーン・グレイの祖母)

1509年  ヘンリー7世崩御/ヘンリー8世即位 /エリザベス・オブ・ヨーク死去

1503年  マーガレット王女スコットランドへ嫁ぐ

1507年??後のヘンリー8世王妃アン・ブーリン誕生/(後のエリザベス1世母)

1509年   キャサリン・オブ・アラゴン、ヘンリー8世王妃となる

1513年    マーガレット王女の夫ジェームス4世、戦死

1514年    メアリー王女フランス王妃となり、半年後サフォーク公と再婚

1533年    ヘンリー8世、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚、
     アン・ブーリン王妃となる
     エリザベス1世誕生/メアリー王女(ヘンリー7世娘)死去

1534年    国王至上法公布 英国国教会成立

1536年   修道院解体 /恩寵の乱 /キャサリン・オブ・アラゴン死去/
     アン・ブーリン処刑/
     ジェーン・シーモア王妃となる(後のエドワード6世母)

1537年   エドワード6世誕生 /ジェーン、エドワード王子を出産して死亡 /
     ジェーン・グレイ誕生

1539年   アン・オブ・クレーフェ王妃となり即離婚 /
     キャサリン・ハワード王妃となり、処刑

1541年 ヘンリー7世長女マーガレット王女死去/
     スコットランド女王メアリー・スチュアート誕生

1543年 キャサリン・パー王妃となる

1547年  ヘンリー8世崩御 /エドワード6世即位 /キャサリン・パー出産のため死去

1553年  エドワード6世崩御 /ジェーン・グレイ即位と退位/メアリー1世即位

1554年  ワイアットの乱 /僭主ジェーン・グレイ処刑

1558年 メアリー1世崩御/エリザベス1世即位 

1566年 ジェームズ1世誕生(後のスチュアート開祖/母はメアリー・スチュアート)

1569年  北部諸候の乱

1574年 後のジェームス1世王妃デンマークのアン王女誕生(後のチャールス1世母)

1584年  一致団結の同盟 メアリー・スチュアート処刑

1588年  無敵艦隊の戦い

1589年  アイルランドのオニールの乱/ デンマークのアン、スコットランド王妃となる

1596年     エリザベス・スチュアート王女誕生
    (後のハノーバー王朝開祖ジョージ1世の祖母)


1601年  エセックス伯処刑 「黄金演説」

1603年  エリザベス1世崩御 /チューダ-朝滅亡
     英国王としてジェームス1世即位、スチュアート王朝成立

1609年     後のチャールズ1世王妃アンリエット・マリー誕生
     後のチャールス2世ジェームズ2世の母)

1613年 ジェームズ1世王女エリザベス、ドイツへ嫁ぐ

1619年 エリザベス、ボヘミア王妃となる

1625年 ジェームス1世崩御 /チャールス1世即位 /
     ジェームズ1世王妃デンマークのアン死去
     アンリエット・マリー、チャールス1世王妃となる

1628年  権利の請願

1642年  議会対国王の内乱(ピューリタン革命)始まる /
     アンリエット,軍資金調達のためオランダへ

1645年    ネイズビーの戦い 革命軍大勝

1649年  チャールス1世処刑/ 共和制始まる

1660年 共和制終了 /スチュアート王朝復活 /チャールス2世即位

1662年 エリザベス・スチュアート死去

1669年 アンリエット・マリー死去

1685年  チャールス2世崩御/ ジェームス2世即位

1688年  名誉革命 ジェームス2世追放 /メアリー2世&ウィリアム3世共同統治

1689年  権利章典


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歴代国王(ノルマン王朝からスチュアート王朝まで) [チューダー王朝の国王たち]


 

 ◆ノルマン王朝 ◆

  ウイリアム1世  
(生没年)1027ー1087
(在位)1066ー1087
ノルマン王朝の開祖。
父の従兄弟にあたるエドワード懺悔王の跡を継ぎ、英国を統一する。
封建制度の開始
王妃マチルダ・オブ・フランドル

ウイリアム2世   
(生没年)1060ー1100
(在位)1087ー2100
兄ロバートを押しのけて王位につく
/王妃なし

ヘンリー1世  
(生没年)1068ー1135
(在位)1100ー1135
読書好きでボークラーク(博識)王と呼ばれる
王妃(1)マチルダ・オブ・ スコットランド
王妃(2)アデレード・オブ ルーア

スティーブン 王 
(生没年)1103ー1154
(在位)1135ー1154
ヘンリー1世の甥。 従姉妹のマチルダ と王位を争う。
王妃マチルダ・オブ・ ブローニュ

 ◆プランタジュネット王朝◆

ヘンリー2世 
(生没年)1133ー1189
(在位)1154ー1189
ランタジュネット王朝開祖ウィリアム1世の曾孫。
フランスと戦いブルゴーニュを取得。
王妃エレオノール・ダキテーヌ

リチャード1世 
(生没年)1157ー1199
(在位)1189ー1199
第3回十字軍に参加し、獅子心王の異名を持つ
王妃ベレンガリア・オブ・ナヴァール

ジョン王 
(生没年)1167ー1216
(在位)1199ー1216 
敗戦でフランス領土を失ったため、「失地王」の異名を持つ
貴族の反乱にあい「大憲章マグナカルタ」を承認する
王妃(1)イザベル・オブ・グロスター
王妃(2)イザベル・オブ・ダングレーム

ヘンリー3世 
(生没年)1207ー1272
(在位)1216ー1272
マグナカルタを無視して国民に重税を課し、反乱を招く。
その結果シモン・ド・モンフォールの議会を開催し、それが英国下院の発祥である。
王妃エリナー・オブ・プロバンス

エドワード1世 
(生没年)1239ー1307
(在位)1272ー1307
ウエールズを征服し、皇太子をプリンス・オブ・ウエールズと命名する
王妃(1)エリナ・オブ・カスティリア
王妃(2)マーガレット・オブ・フランス

エドワード2世  
(生没年)1284ー1327
(在位)1307ー1327
国内に反乱が相次ぎ、最期は王妃イザベル・オブ・フランスに暗殺される
王妃イザベル・オブ・フランス

エドワード3世  
(生没年)1312ー137
(在位)1327ー1377
母親がフランス王女だったことからフランス王位を要求し、100年戦争を起こす。
ガーター勲章を作った
王妃フィリッパ・オブ・エノー

リチャード2世  
(生没年)1367ー1400
 (在位)1377ー1399
エドワード3世皇太子ブラック・プリンスの次男。
後に従兄弟の長男ヘンリー・ボリンブロクによって廃位後に暗殺
王妃(1)アン・オブ・ボヘミア
王妃(2)イザベル・オブ・ヴァロア

 ◆ランカスター王朝◆

ヘンリー4世  
(生没年)1387ー1422
 (在位)1413ー1422
リチャード2世を暗殺して王位につく。議会を重視する
王妃(1)メアリー・オブ・ブン
王妃(2)ジョアン・オブ・ナヴァール

ヘンリー5世 
(生没年)1367ー1413
(在位)1399ー1413
100年戦争でフランスに大勝。フランス王女を妃に迎えるが、35歳の若さで病没
王妃キャサリン・オブ・ヴァロア

ヘンリー6世   
(生没年)1421ー1471
(在位)1422ー1461
在位中に発狂し、薔薇戦争が勃発する

 ◆ヨーク王朝◆

エドワード4世  
(生没年)1442ー1483
(在位)1461ー1470
薔薇戦争でランカスター側を破り、ヨーク王朝を創設
王妃エリザベス・ウッドヴィル

エドワード5
(生没年)1470ー1483
(在位) 1483ー1483?
叔父のリチャード3世 により廃位。ロンドン塔に監禁 され、後に行方不明
王妃なし

リチャード3世   
(生没年)1452ー1474
(在位)1483ー1485
ボズワースの戦いで 戦死。ヨーク朝断絶
王妃アン・オブ・ウォーリック

 ◆チューダー王朝◆
ヘンリー7世   
(生没年) 1457ー1509
(在位)1485ー1509
絶対王制の開始。薔薇戦争を終結させ、前王朝の遺児を次々処刑する
王妃エリザベス・オブ・ヨーク

ヘンリー8世     
(生没年)1491ー1547
(在位)1509ー1547
離婚問題からバチカンと対立し、英国国教会を創設。修道院を解体させる
      王妃(1)キャサリン・オブ・アラゴン
王妃(2)アン・ブーリン
  王妃(3)ジェーン・シーモア
   王妃(4)アン・オブ・クレフェ
   王妃(5)キャサリン・ハワード
 王妃(6)キャサリン・パー

エドワード6世          
  (生没年) 1437ー1553
(在位)1447ー1553
英国国教会とプロテスタントの権力強まる
王妃なし

    メアリー1世               
(生没年)1516ー1558
(在位)1553ー1558
親スペイン政策をとってスペイン皇太子フェリペ2世と結婚。
プロテスタントを迫害する
夫スペイン王子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)

    エリザベス1世     
(生没年)1533ー1603
(在位)1558ー1603
商業を重んじ、経済大国への道を開く。 スペインと戦って破り、インド航路を獲得する。
生涯独身

 ◆ステュアート(スチュアート)王朝◆

    ジェームス1世      
(生没年) 1566ー1625
(在位)1603ー1625
母はスコットランド女王でありながら、長年英国に幽閉され、後に処刑されたメアリー・スチュアート。子供のいないエリザベス女王から後継者に指名され英国王位につく。絶対王制を掲げて議会と対立する
王妃アン・オブ・デンマーク

     チャールス1世      
 (生没年) 1600ー1649
(在位)1625ー1649
王妃アンリエット・マリー・オブ・ブルボン
議会との対立が悪化し、ピューリタン革命となる。議会側に捕らえられて処刑

       チャールス2世      
(生没年) 1630ー1685
(在位)1660ー1685
王妃カテリーナ・オブ・ブラカンザ
王制復古後最初の王。 好色で知られる
      ジェームス2世       
(生没年) 1633ー1701
(在位)1685ー1688
再び議会と対立。カトリックを信仰し、名誉革命が起こった。
英国から追放される

        メアリー2世            
(生没年) 1662ー1694
(在位)1689ー1694
名誉革命によって追放された父ジェームス2世にかわり、嫁ぎ先のオランダから帰国して王位につく。
夫オランニュ(オレンジ)公ウイリアム

      ウィリアム3世        
(生没年) 1650ー1702
(在位)1689ー1702
妻メアリーとともに共同で王位につく。
王妃メアリー2世

          アン女王           
(生没年) 1665ー1714
(在位)1702ー1714
姉の跡を継ぎ、議会と協調する (跡継ぎがいなかったため、断絶)
夫デンマーク王子ジョージ


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メアリー・スチュアートその3(ヘンリー8世の姉の孫娘) [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・スチュアート
1578年制作?ニコラス・ヒリヤード作
ナショナルポートレートギャラリー蔵
 たとえばメアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベスを頼って来たのなら、まだいい。
 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。
 「女は悪魔だ」と男尊女卑をかかげるキリスト教原理主義者に思い知らせ、階級制度と女王という存在の正当性を確立するためにも、メアリーの復活は必要であった。
 生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない、とエリザベスは思う。
 マリ伯の方も負けてはいない。大貴族たちと結束して、もしメアリーの復位を図るなら、フランス側につく、と脅して来た。

 君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。
反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。
 女であるが故に耐えねばならなかった悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。彼女自身も即位したての頃、群臣たちの「女か…」という嘲笑の視線を忘れていない。

 だが、メアリーはここに来て、忘れていた怨みを…メアリーが故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを…思い出したのである。
 そしてスペイン・フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙をばらまいていたのだ。エリザベスの足下で。
 以降20年、メアリーはもはや列挙するのがうざったらしいほど、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込むことになる。

 当然全部筒抜けである。メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しだった。

    
 メアリーがエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。
 メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。
 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。
 1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
 2、ジェームスを次期英国王として、エリザベスに養育させる
 3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと

 しかし、にもかかわらず、どたんばの所でエリザベスはメアリーを裏切った。
 というか、そうせざるおえない苦境に陥ったのである。
 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。
 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。
 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。
 1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。

 そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。
 スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。

 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。

 「メアリーをこの手で、殺さねばならない」

 考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したいう。しかし決断した。
 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。

 メアリーにも希望は残されていた。ただ「待てば」よかったのだ。
 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。
 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。
 だが、メアリーは待てなかった。

 1587年2月1日、エリザベスはついに処刑命令書にサインする。
その一週間後、メアリーは幽閉先のフォザリンゲー城で最期の時を迎えた。
 19年のおよぶ歳月が、メアリーからかつての美貌を奪っていた。中年太りで崩れた体を深紅のドレスで包み、白髪を金髪のカツラで隠していた。処刑台の前には、数百人の見物人が押し掛けていた。
 かれらの前で、メアリーは舞台に立つ女優のように軽やかに足を進めた。

 そして処刑人の斧によって首をめった斬りにされ、呻き声をあげ血まみれになって絶命する。
 首を失った体のスカートの下からは、生前可愛がっていたペットの小犬が飛び出してきたという。

 メアリーとエリザベス。この二人を同一線上に並べて評価を下すのは誤りであろう。なぜなら、二人はまるで役割が異なっていたからである。メアリーは国母であり、象徴君主の立場にいたのに対して、エリザベスは純粋な政治家であった。
 メアリーは子孫を残し、エリザベスは絶大なる政治的功績を残した。
 どちらが欠けていても、その後の大英帝国の発展は無かったであろう。

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              参考資料/
     華麗なる二人の女王の闘い 小西章子 朝日文庫
     ルネサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社
     女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
     スコットランドの歴史 リチャード・キレーン 彩流社 


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メアリー・スチュアートその2(ヘンリー8世の姉の孫娘) [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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           ヘンリー・ダーンリーと弟トーマス
           ハンス・イワース作/王室コレクション
 
 (あのヘンリー・ダーンリーとか?)
 エリザベスはその知らせを聞いて眉をしかめた。ダーンリーは軽薄な青年であったが、メアリーの従兄弟に当たり、英国の王位継承権を持っている。
 (なんと!これでますますあの女がつけあがるではないか!)
 英国王位を窺う敵が、一人から二人に増えてしまったのだ。

 ダーンリ-が「逆玉」狙いでメアリーを誘惑したのは見え見えだったので、議会や国民、側近達ですら、この結婚に反対した。特にマリ伯は、嫉妬もあって口論になるほど激しく反対した。
 エリザベスは、ダーンリーと結婚するなら国境線を侵犯する、と脅迫した。
 それでもメアリーは、この青年のわざとらしい誘惑やわがままが、愛らしくてならなかった。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリーと結婚する。
 そして書類には、「女王メアリー」の名の横に「国王ヘンリー」と署名が並ぶこととなった。
 (してやったり!)
 ほくそ笑むダーンリーとは対照的に、マリ伯の怒りはおさまらず、結婚式にさえ姿を見せなかった。
それどころか、英国からの支援を受け、クーデターを起こしたのである。しかしあっという間に蹴散らされ、マリ伯は英国へと亡命した。

 (目障りだったマリ伯を追い出した。これで俺の天下だ!)
とばかり、ダーンリーのわがままは加速した。気に入らなければ大貴族だって殴る、剣を振り回す、政治を放ったらかしにして遊び回る、泥酔して暴れる。 殴り合い、絶叫、レイプのような夫婦生活。
 二人の関係はわずか半年で破滅を迎えた。にもかかわらず、メアリーは妊娠していた。最悪だった。

 「もう近寄らないで!触らないでちょうだい!」
 「なんでだよ。俺はおまえの亭主だぞ?この国の王なんだぞ?。」
 酒臭い息を吐きながら、ダーンリーはメアリーを押し倒した。
 「私、妊娠しているのよ。」
 メアリーは顔をそむけながら呟いた。
 「どうせ俺の子じゃないんだろ?誰の子なんだよ、おい。」
 アル中でいかれたダーンリーの頭には、メアリーのお腹の子が側近リッチオの子のような気がしてならない、
 いや、真実自分の子だったとしても、息子ならライバルになりうる。
 (みんな殺してやる!)

 妄想は妄想だけでは留まらなかった。ある晩餐会の席上、呼ばれていなかったダーンリーは、側近を引き連れて乱入する。
 マリ伯にそそのかされた大貴族たちに煽られた結果であった。
 ダーンリーはメアリーの目の前でリッチオを惨殺し、ついでに 妻にまで銃口を向けさせたのだ。
 だが、メアリーはもう取り乱さなかった。二人きりになった時、メアリーはそっと夫に手を差しのべる。
 「鎮まってちょうだい、お願い・・・あなたはだまされているのよ。
  私とお腹の子供を殺して、その後あなたも無事で済むと思っているの?」
 実際仲間と称する大貴族たちは、マリ伯とともに権力を奪取するつもりでダーンリーを利用しただけなのだ。
 彼がメアリーを始末すれば、今度は、彼が消されるだろう。

 さっそく勝利にほくそ笑むマリ伯が帰って来た。
 メアリーは異母兄の前で、大げさに苦しんで今にも流産すると騒いだ。
 周囲が混乱する中、メアリーはどさくさに紛れて、ダーンリーともどもホーリールード宮殿を脱出、身重の身で50キロの道を馬で疾走した。

 

 それから三か月後の1566年6月19日、メアリーはエジンバラで出産した。
 「俺の子じゃない」とわめいていたダーンリーそっくりの男の子だった。
 後の英国&スコットランド国王、スチュアート王朝開祖のジェームス1世である。
 メアリーは可愛いわが子に頬ずりしながら、ベッドの傍らに立つダーンリーにむかって言った。
 「あの時あなたが私を撃っていた・・・・・・ 今頃あなたはどうなっていたかしら。」
 ダーンリーは俯いて口ごもった。
 「おまえ・・・・・おまえが俺に冷たくしたからだ、俺は悪くない!。」
 そして彼はメアリーの悪口を書いた手紙を諸国に送りつけ、わが子の洗礼式の出席をも拒んだ。

 子供が産まれたことで、一見平和が訪れたかに見えたが、それは一瞬のことだった。
 やがてメアリーの生涯最大の悲劇が訪れたのだった。「ダーンリーの暗殺」である。

 1567年2月10日の深夜。ダーンリーは、病気療養のため、自分の領地であったグラスゴーにいた。しかし別居中だったメアリーの説得により、その世話を 受けるだめにエジンバラに戻って来ていた。そしてメアリーが宮殿へ帰った直後、ダーンリーの寝起きしていた館が何者かによって爆破されたのだった。

 この事件にメアリーが首謀者として関わっていたかどうか、諸説あってはっきりしない。
 メアリーが暗殺に加担した「証拠」といわれるものも存在したが、でっち上げの偽物だった可能性も高い。

 私は個人的には、メアリーは無実であったと思う。マリ伯を含めた大貴族たちにとって、すでに王子が生まれ、摂政として実権が握れるチャンスが巡って来た以上、メアリー夫妻は用済な上に邪魔者だった。
 二人とも、抹殺しようと考えても不自然ではない。

 その陰謀の中心はおそらくマリ伯とボスウェル伯ジェームス・ヘップバーンであったが、直前になって、ボスウェルはメアリーだけは生かす気になった。密かに知らせを受けたメアリーは、自分だけでも助かりたい一心で逃げ出した。そして哀れにも、ダーンリー1人がテロの犠牲になったのだ。
 実はダーンリーは爆発では死ななかった。ガウン一枚で飛び出した彼は、作戦の失敗を知った暗殺者の手で、改めて絞殺されたのである。

 知らせを受けたエリザベスは、あれほど怒っていたにもかかわらず、メアリーにあてて、「すぐに自分が疑われないよう犯人を検挙して、身の潔白を証明しなさい」という忠告の手紙を送っている。そこで形だけ詮議が行われ、ボスウェル伯が怪しいとなったわけだが、何しろほとんどの大貴族が加担している暗殺事件である。
 事態はうやむやのまま流されてしまった。

 しかも悪いことに、ボスウェルは命を助けてやったことを恩に着せ、メアリーを誘惑し、レイプしてしまった。メアリーは泣く泣く身を任せたが、しばらくしてこの男に本気で惚れてしまったのである。
 ジェームスの誕生から、まだ一年もたっていなかった。

 ボスウェルはメアリーと関係してから、暴走し始めた。
 同じ年の5月13日、彼は陰謀を目論んだ仲間を裏切ってメアリーと結婚する。この行為に、始めは同情的だった諸国も目を白黒させ、次に激しくメアリーを非難した。
 裏切られた大貴族達は、ダーンリー暗殺の責任を全てボスウェル一人に押し付けて、「王殺しの反逆者」として討伐のため挙兵した。

 メアリーも対抗するために軍を収拾したが、呆れ返った人々はメアリーから離れていった。
 状況は圧倒的に不利だった。ボスウェルはいち早く単身北へ落ち延びた。
 メアリーは本拠地のボスウィック城に立て籠ったが包囲され、男装をして脱出し、ボスウェルの後を追った。
 二人が再会した時、破滅が訪れた。

 徹底的な敗北だった。一時はメアリーを抹殺しようとして、ボスウェルの裏切りによって挫折したマリ伯であったが、ふたを開けてみると、自分の手を汚す必要はなかった。
 メアリーは勝手に破滅してくれた。しかも自分も加担したダーンリー暗殺の罪を、ボスウェル一人に押し付けて。そしてメアリーは湖の孤島ロッフレベン城に幽閉された。
 一月後の7月25日、ついに王位を幼いジェームス王子に譲るとの書類と、マリ伯の摂政任命の書類にサインさせられたのである。
 逃走したボスウェルの人生もまた終わっていた。彼は追われてデンマークまで逃げ、そこで幽閉されて、狂死したという。
 メアリーは最後のチャンスに賭けた。
 数カ月かけて脱出作戦を練った後、ついに1568年5月2日、ロッフェレベンの城を脱出し、ニドリー城まで落ち延びた。

 メアリーは復位のために挙兵した。
 意外にも、メアリーを裏切った大貴族達が、続々と馳せ参じて来て、一大大軍となった。

 この一年で形勢は変わっていた。
 マリ伯の権力に嫉妬した大貴族達が、今度はマリ伯を引きずりおろすために集結したのである。
 これが最後のチャンスだったにもかかわらず、またしても裏切り者が出た。主力部隊だったアーガイル伯が、意図的に遅く到着したのだった。主力を欠いた軍 は、マリ伯側の奇襲を受けて、またたく間に敗走した。その上裏切りに怒った他の部隊が、アーガイル伯軍に襲いかかった。メアリーは自ら戦場に飛び込んで呼 びかけても無駄だった。惨めなまでに、メアリー側は戦死者が続出した。
 ここまでは、メアリーを理解できるし、共感することもできる。
 この後の行動が、何とも理解しかねるところである。

 正常な神経なら、メアリーは恥を忍んでフランスへ亡命し、そこでフランス側を説得して(ついでにスペインも味方に率いれて)マリ伯討伐軍を組織していただろうし、それは成功の確率が高かったに違いない。

 しかしメアリーは自分を「エリザベス以下のひどい女」と罵倒したバチカンのことが忘れられなかったし、自分を罵倒したフランス王室への怨みを忘れていなかった。そんな時、エリザベスだけが、メアリーに忠告し励ましてくれた。その上独身のエリザベスは、いずれメアリーか、ジェームスのどちらかを跡継ぎに指名する可能性があった。
 「英国へ行きましょう!」
 メアリーはそう叫んで、英国ースコットランド国境線を越えた。

 しかし、その後の成り行きを見れば、溯ってこの時点でメアリーの人生は終わっていたのである。
 わずか26歳の若さであった。

                 (つづく)


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