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ジェーン・グレイのギャラリー [チューダー王朝の国王たち]

いろいろな時代のジェーン・グレイ

夏目漱石をして「ジェイン・グレイの運命に涙せぬ者はおるまい」と言わしめた
「9日間の女王ジェーン」については、各時代でいろんな女優が、その時の最先端
のファッションに身を包んでジェーンを演じた。
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9日間の女王/ジェーン・グレイ③(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]


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 トマス・ワイアット。この男の気の荒さには定評があった。
 彼はケントの豪族として、父親から広大な領地を相続していたが、故郷でじっとしているような男ではなかった。ロンドンでは暴動鎮圧のおり、上官であるハワードに逆らった廉(とが)で投獄されている。

 その後許されてヨーロッパを周遊し、おそらく1549年頃帰国した。
 時の権力者ノーサンバーランド公に対して、ロンドンの治安維持について提言をしたものの、ノーサンバーランドの失脚でご破算となった。
 ジェーンが即位した時には、ロチェスターでメアリー支持の宣言を出した。
 気性は激しく排他的な愛国者。彼がいつ頃からスペイン人を憎み始めたかは定かではない。一説によれば、スペインを旅した時、地元の教会関係者から恐迫されたからだともいう。

 1554年1月、メアリー女王がスペイン王子フェリペとの結婚を発表すると、愛国者達は一斉に反発した。
 中でもワイアットはケントのロチェスターを本拠に、4000名を率いて挙兵した。
 いわゆる「ワイアットの乱」である。反乱軍は、国民からまったく支持されず、ロンドンへの入場すら阻止される有り様だった。しかし強引にゲートを通過したワイアット勢は、女王のいる聖ジェームス宮殿を目指して挫折。2月7日、捕えられてロンドン塔に送られている。

 悪いことに、この反乱に、ジェーンの父/ヘンリー・グレーが関与していた。
 ヘンリーは藁の下に身を隠しながら必死に逃亡したが、自分の領地に逃げ込む寸前で捕えられた。
夫を熱愛していた妻フランシスは、半狂乱になって女王に泣きついた。

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           苦悩しながら処刑命令書にサインする
           メアリー1世(19世紀の歴史画)
 
 しかし今まで、明らかに反乱を企てた者が許されたためしはない。いくらメアリー女王といえども、見逃すことは難かしかった。だが、メアリーには君主として、ヘンリー・グレイよりも先に倒さねばならない存在がいた。
 裏切られた悲哀と苦渋のうちに、メアリーは「反逆者ギルフォード・ダッドリーと、その妻」の処刑命令書にサインする。ヘンリー・グレイの浅はかな行為が、自身のみならず、娘のジェーンの運命まで決定してしまったのである。

「お父様・・・・お父様、なんて事を」
 ジェーンは両手で顔を覆ってすすり泣いた。グレイ家は女系家族であり、父は唯一の男として一家の心の支えだった。母は娘たちよりも夫を愛していた。
 その父が死ぬ。死んでしまう。そう思う時、ジェーンの全身から潮が引くように生きる力が失せていった。父が獄中で、娘のために嘆き悲しんでいると伝え聞き、ジェーンは手紙を書いた。

「愛するお父様、私はあなたによって死ぬことで、神様を喜ばせました。
 それによって、私の魂は生き延びるのです。神様は私に死をお与えになる
 かわりに、この悲惨な日々を終わらせて下さるのです。私には、あなたの
 お嘆きがわかります。神様の前で、私の血は、きっと無実を叫ぶでしょう。
 あなたの従順な娘ジェーン・ダッドリー」

 ヘンリー・グレイの処刑は2月23日と決まった。ジェーンとギルフォードの処刑はそれよりも早く、2月8日の時点で決まっていたものの、ずるずると延びる可能性が高くなった。メアリー女王は大権をもってジェーンを特赦するつもりでいた。何しろジェーンはずっとロンドン塔にいたのだから、実際反乱に加担することなどできるはずがないのだ。今回も前のように、名前を利用されただけではないのか?
 しかし、反逆罪が決まった人間を特赦するには、それなりの名目が必要だった。女王に絶対服従しているという証拠のようなものを・・・・。
 メアリー女王は必死で頭をめぐらした。
 愛する叔母の孫を、この手で殺したくはなかった

 

(夏になったら、ヒースの花が咲く)
 ジェーンは故郷のブレイドゲートの野原を思い出した。
 原生林を切り開いた野原に生えるヒースは、ツツジ科の花だけあって、初夏から夏にかけて、美しい花が咲く。
 ブレイドゲートの館の前にも、ヒースの野が広がっていた。
  父と母、妹たち。家族で馬に乗り、野原を駆け抜けた頃を思い出した。もう2度と、帰ることはない。

 2月8日、女王の特使フェキンハム博士が訪れて、女王の意志を告げた。
「陛下はあなたを特赦したいとお考えです。そのために、どうかカトリッ
 ク信者になって、服従の証を見せていただきたい。そうすれば、処刑から
 終身刑へ変更なさるおつもりです。」

 ジェーンは静かに考えた。仮にここで許されても、一生塔から出ることはできない。それに、また誰かが知らないところで反乱を起こしたとしたら、また死の淵に立たされるのだ。
 後何回、同じ目にあうのだろう。・・・・・生きている限り、それは続くだろう。
(死にたい。)
 ジェーンは、つくづく思った。死んでしまえば、魂だけでも、あのヒースの野を駆けることができるような気がした。

「どんな宗教が正しいとか、そんな無意味な論争をしている時間はありません。
 女王陛下のお情けには感謝します。でも、もう生きていたくないのです。」
 フェキンハム博士は、3日間だけ待つ、と伝えた。その間に連絡をくれたら、女王陛下は特赦なさるでしょう。3日間だけ待つ、と。
 ジェーンは首をふった。もう無意味な時間などいらない。

 別の獄舎にいたギルフォードが、会いたい、と伝えて来た。
 メアリー女王は、2人がよく話し合うように、と面会を許可した。
 しかしジェーンは会わなかった。会えば、決意が弱まるだけなのだ。
 かわりに手紙を書いた。

「もっとすばらしい世界で再会しましょう、ギルバード。その時には、私たちは永遠に1つになって結ばれるの。」
「永遠に・・・・・。」
 ギルバートが答えた。

 2月12日、10時、ビーチャムタワーの窓から、ジェーンは処刑台に向かうギルバートの最期の姿を見つめていた。
 数十分後、血まみれのギルバートの体が板の上に乗せられて、運ばれてきた。
 切断された頭部は、白い布で包まれていた。
「ギルバート!ギルバート!!」
 ジェーンは泣き叫んだ。
「私、恐い、恐い・・・・恐い。」

 1時間後、ついにジェーンの番が来た。ロンドン塔長官に手をとられて、ロンドン塔内にある、教会前の小さな緑地へ向かった。
 処刑台の周辺には、あのフェキンハム博士の、悲しげな顔もあった。
 ジェーンは賛美歌を歌った。それから世話をしてくれた侍女のエレンに形見として、ハンカチと手袋を渡した。エレンは泣きながらジェーンの頭の飾りとスカーフをはずし、マントを脱ぐのを手伝った。
 処刑人はジェーンの前にひざまづき、許しを乞うた。5分間、静寂が続いた。女王からの、最後の特赦を待つ時間だった。しかし、誰も現れなかった。

 5分後、ジェーンは自分の手で目隠しをしてから、パニックに陥った。
 必死で手探りをしながら、助けを求めた。
「どうすればいいの?どこへ行けばいいの?」
 見るに見かねて、立会人だった神父がジェーンを斬首台まで導いた。
 ジェーンはやっと台をみつけると、小さくつぶやいた。
「神様、あなたを誉め讃えます・・・・。」

 最初の一撃で斧は深く首にめりこみ、ショックで肉体は痙攣する。
 さらにもう一撃で、切り損ねた腱を切断する。行き場のなくなった血は、切断面から激しくほとばしり、足元に敷き詰めた藁を深紅に染めた。

 ジェーンの体はその場に4時間放置された後、正面にある聖ピーター教会に葬られた。
 1554年2月12日、16歳と4か月の生涯だった。

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9日間の女王/ジェーン・グレイ②(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]


        
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19世紀の画家ウィリアム・ホーンの描いたジェーン・グレイ

「それ」はジェーンにとって寝耳に水だった。
 1553年5月、グレイ夫妻は娘を呼びつけ、いきなりノーサンバーランド公の息子/
ギルフォード・ダッドリーとの婚約を告げた。
「私、ハットフォード伯が好きだったのに・・」
 ジェーンは弱々しく抵抗した。
「だいじょうぶ、今までの生活は変わらないわ。勉強だって続けていいのよ。」
 母親はそういって説き伏せた。

 世間知らずのジェーンがろくな抵抗もできないうちに、縁談は瞬く間に決まった。
 3週間後(諸説あり)5月21日、ノーサンバーランドの館、テームズ川岸のダー
ラム・ハウスで結婚式が行われた。

 その日、3姉妹は合同結婚式をあげた。次女キャサリンはヘイスティングス卿と。
(翌年離婚)三女メアリーは従兄弟のアーサー・グレイと(翌年離婚)
 花嫁衣装は、王室のものを使用した。ジェーンは、緑のベルベットのドレスに金欄の
マントを身にまとい、美しかった。新郎ギルフォードは、少年王の騎馬試合に出場する
ために、式の直後に宮中へ行ってしまった。ジェーンは両親が自分をダーラム・ハウス
に残して帰ろうとするので、驚いた。
 「ブレイドゲートに帰ってはいけないの?」
 「何ですって!!」
 姑のノーサンバーランド公妃は、激怒して叱ったという。
 ジェーンは亀の子のように首を縮めて、うなだれた。

 少年王エドワードは元々虚弱な上に、持病の結核が重くなり、日に日に衰弱してい
った。
ノーサンバーランドは、瀕死の少年王に詰めより、異母姉のメアリーから王位継
承権を剥
奪するように説得した。

「カトリック教徒のメアリーが即位したら、かならず新教徒が迫害されます。」
 御前会議で、王位は二人の異母姉ではなく、「フランシス・グレイの子供達」即ち
ジェーンら3姉妹に順番に譲られることが決まった。

 1553年7月6日、少年王は崩御した。二人の貴族がジェーンの前にひざまづき、王
の崩御と、王位継承を告げた。ジェーンはただただ赤面して俯いていた。
 グレイ夫妻は「女王になったのよ、認めなさい」と励ました。
 大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが王冠を差し出すと、ジェーンは狼狽して震えな
がら泣き出した。
「私は・・・私は女王なんかじゃありません。王冠は受け取れません。」
 王の死後4日目には、戴冠式のためにロンドン塔へ移った。群衆に姿を見せるため
に、小柄なジェーンはチョビン(靴の下につける上げ底)をつけて水門から塔内に入
った。チューダー家の印である緑と白のドレスをまとっていた。
 しかし群衆は、困惑するばかりで、歓声をあげる者いなかったという。
 一方王位継承権を剥奪されたメアリー王女は、身の危険を感じてノーフォーク州へ
と逃れた。エリザベス王女は、情勢を静観する構えで、沈黙していた。

 ロンドン塔内のホワイトタワーに入ったジェーンは、夫のギルフォードから、自分を
王にしてくれ、と頼まれたが、頬を赤くして困惑するばかりだった。
「私、女王でないのに、そんな事無理です。かわりにクラレンス公ではダメかしら」
 息子が王になれないと知って、姑ノーサンバーランド公妃は怒り出した。

 同じ頃議会は反ノーサンバーランドで意見が一致した。かれらはジェーンの王位を
否定しメアリー王女こそ正当な女王だと発表した。その知らせに、ジェーンの母フラン
シスとノーサンバーランド公妃は口惜しさにすすり泣いた。
 それから数日間、すなわち7月11~13日の間、ジェーンはストレスのために寝込んで
いたらしく、巷には「姑に毒殺された?」という噂が流れた。

 7月14日、いよいよ反撃のためにメアリー王女が挙兵したとのニュースが流れると、
興奮した群衆が、メアリー支持を叫んでロンドン塔に殺到した。
 ジェーンは塔の入り口を閉めさせて、中に閉じこもった。

 4日後、ついに敗北を悟ったジェーンの父/ヘンリー・グレイは、娘に王位を放棄す
るように手紙を送りつけてきた。ヘンリー・グレイがロンドン塔へ来てみると、ジェ
ーンは一人玉座に座っていた。
「もうおまえは、そこには座れなくなった。こっちへおいで」
「お父様!もう私は家に帰ってもいいんですね!」
 ジェーンは嬉し泣きとも悲しみともつかない涙を流しながら、父親に抱きついた。
 しかし7月20日、ジェーンは女王の滞在するホワイト.タワーから、一転して囚人
として、別の塔へ監禁された。

 そこに残酷にも、王冠を差し出したと同じ大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが現れ、
王冠の返還、ならびに無くした宝石を弁償するように迫った。
 ジェーンは王冠とともに、自分の金貨をすべて渡したという。

 ノーサンバーランド公も反逆者として、ロンドン塔に投獄された。彼はメアリー女王
に助命すべく、新教徒からカトリック信者になると申し出たが、メアリー女王の怒りは
治まらなかった。結局努力は無駄に終わり、8月23日、処刑された。

 ジェーンは女王の使者に向かって語った。
「許して下さいね。ノーサンバーランド公は悲しい災難と悲劇を運んできました。
 でも彼の改心によって他の人が救われたと期待したいのです・・・・」
 メアリー女王がジェーンを憎んでいたとは思えない。何しろグレイ家は、自分に
も同じ名前を与えてくれた最愛の叔母の家族なのだ。叔母はメアリー女王の母/
キャサリン・オブ・アラゴン王妃の親友でもあった。
 国王から離婚を告げられた時も、必死で庇ってくれた。感謝の気持ちはあっても、
憎む気にはなれなかったにちがいない。もし何事も起こらなければ、ジェーンは故
郷ブレイドゲートにもどり、また静かに勉学の日々を送れたかもしれない。

 もし何事もなければ。
           
               (つづく)


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9日間の女王/ジェーン・グレイ①(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]

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         ジェーン・グレイ/作者不詳/1555~1560 
           ナショナル・ポートレートギャラリー蔵   
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 ブレイドゲート(Bradgate)・・・ロンドンの東、レスターから約8キロ、
小高い丘から谷へと傾斜していくあたりに、グレイ家の所有する館があった。
 
赤いレンガ作りのチューダー王朝風の館は、1537年当時は、まだ新築7年目
であった。
周囲は楡やブナの林で囲まれ、館へと続く丘の斜面には、一面ヒース
が風によいでいた。
テラス式の庭園には、ヨーロッパグミの木や薔薇が茂り、睡蓮
の浮かぶ池には金魚が泳いでいた。
その池で、幼いジェーンはあやうく溺れかけたという。


 グレイ家には3人の娘がいた。
 長女ジェーン(1537年生)次女キャサリン(1540生)三女メアリー(1545生)。
 父はドーセット候(後にサフォーク公)ヘンリー・グレイ。
 母は国王ヘンリー8世の妹メアリーの娘/サフォーク公女フランシスだった。
 1551年、フランシスの実家を継いでいた異母兄が亡くなったため、サフォーク公家
の爵位は、ヘンリー・グレイのものとなった(女性が爵位継承権を持っていた
場合、本人ではなく、夫か息子が爵位を継いだ)このグレイ家、先祖を辿れば、
エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルが、前夫との間にもうけた息子であった。 
 エリザベスの、2度目の結婚=英国王妃となってからで生まれたのが、今の国王
ヘンリー8世の母親エリザベス王女である。
 3姉妹の父母、どちらの系統を辿っても王室とは、深いつながりがあった。
 
女のメアリーは、生まれながら背骨が曲がっている障害があったが、上の二人の
娘は健康だった。

 ジェーンは、英国人にしては小柄で、白い肌には淡いソバカスがあった。
 ジェーンの幼年時代は、ヘンリー8世の娘たちより、ずっと王女らしかったといってもよい。
 何よりも、誰におびやかされることなく、父母の愛に包まれて成長したことは、
女王エリザベスより遥かに恵まれていた。だがその反面、あまりに恵まれた環境が、
ジェーンを現実離れした夢見がちな優等生へと変えていった。

 読み書きなどの教育は、3、4歳の頃から始まっていた。早朝6時のお祈りを済
ませ、パンとエール、肉などの朝食をとった後、夕食までギリシャ語とラテン語の
授業があった。
 夕食が済むと、音楽や読書、ダンスにお裁縫、そして9時には就寝。週に一度は
ハンティングに行くか、近郊の町レスタ-まで出かけて行ったという。

 平和で単調な日々が流れて行った。ジェーンは6歳で聖書を読めるようになり、
7歳でフランス語、イタリア語など4ヶ国語の授業が始まっていた。

 考えてみれば、授業はほとんど語学のみ、後はせいぜい宗教哲学か歴史、体育
(ダンス、乗馬)ぐらいである。単語は違えども、文法的には大した違いも無い。
 語学が達者になるのは道理であった。
 というか、混血社会であるヨーロッパでは、上流階級は必然的にバイリンガル
であった。(もっともフランス王室は18世紀まで、頑ななまでに英語を拒んでいた)

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 1545年、ヘンリー8世が死ぬと、ジェーンと同い年の少年王エドワード6世が即位した。

 

 翌年グレイ夫妻は、宮廷デビューのために、ジェーンをヘンリー8世の第6王妃だ
ったキャサリン・パーの元へ預けた。というのも、キャサリンの再婚相手のトーマス・
シーモアがグレイ家に2000ポンドを支払って、面倒を見させて欲しい、と頼み込んだ
ためである。トーマス・シーモアは少年王の叔父でもあった。グレイ夫妻にとっては、
願ってもない申し出だった。

 
 このトーマスなる男、同時にエリザベス王女(後の女王)も引き取っていたが、孤児
同然という環境につけこんで、手を出したという。エリザベスは、トーマスに抱かれて
いるところを見つかったために、館を追い出されるはめになった。
 ジェーンの場合は両親が健在だったために、さすがに手を出すことはできなかった
が、巧みにグレイ夫妻の耳に、ジェーンと少年王との結婚の可能性を囁いた。
「私には、陛下がジェーン姫以外の方とは結婚なさらない、と保証する勇気がありますよ。」

 1548年8月、トーマス・シーモアと再婚したキャサリン・パー(ヘンリー8世6番目
の王妃)が出産のために死ぬと、なぜかジェーン・グレイが喪主を務めたという。
トーマスは兄サマーセット公との権力闘争に夢中で、妻のことなど頭になかったらしい。

 だが、半年後の1549年3月、兄の手で処刑されてしまった。
 ジェーンは、再び実家のブレイドゲートに戻って来た。
 エリザベスはサマーセット公に憎まれ、しつこくトーマスとの中を詮索されたが、
ジェーンは無事だった。
 ジェーンはよく勉強した。実際、エリザベスの教師だったロジャー・アスカムが絶
句するほど優等生だった。

 だが、その知識には大きな偏りがあった。ジェーンは大切に育てられ過ぎたために、
人間そのものを学ぶ機会がなかった。いかに人の心を読むか、いかに危機に際して対処
するか、現実的な方法を知らな過ぎた。天使のように理想世界をふわふわ漂うだけで、
ふと気付いた時には、陰謀の泥沼に足首を取られていた。にっちもさっちもいかなく
なって、ただ泣くばかりだった。
 エリザベスのように、歯を食いしばって生き残る道を模索するような、強さはなかった。
 もっとも、エリザベスのように弱肉強食に馴れた人間が良いのか悪いのかは、判別
できないが…


                 (つづく)

 


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英国史の年表(古代からスチュアート王朝まで) [チューダー王朝の国王たち]


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               ◆英国史の総合年表◆
             古代からスチュアート王朝まで


BC5年 ジュリアス・シーザー、ブリトン侵攻

AD43年クラウディアヌス帝 ブリトン侵攻

61年 女王ボアディケアの乱

122年 ハドリアヌス帝の長城建設始まる

500年 ブリトン軍、アングロ.サクソン人を破る

871年年 アルフレッド大王即位

980年年 バイキング(デーン人)侵攻始まる

1016年 カヌート王即位でデーン王朝始まる

1042年 デーン王朝滅亡 サクソン王朝復活 エドワード1世即位

1066年 サクソン王朝滅亡 ノルマン王朝始まる ウィリアム征服王即位 

1152年 エレオノール・ダキテーヌ、英国皇太子ヘンリー(2世)と結婚。

1154年 プランタジュネット王朝始まる/ヘンリー2世即位

1170年 トマス・べケット司教、暗殺

1199年 ジョン失地王即位

1215年 マグナ・カルタ(大憲章)成立 

1337年 100年戦争始まる(1453年終了)

1356年 ポワティエの戦い
1387年 ヘンリー五世即位

1415年 アジャンクールの戦い 

1420年 トロワ条約締結キャサリン・オブ・ヴァロワ英国王妃となる/
    (後のチューダー王朝ヘンリー7世祖母) 

1422年 ヘンリー5世崩御、生後半年のヘンリー6世即位

1429年 ジャンヌ・ダルク登場 

1430年 エドマンド・チューダー(ヘンリー7世父)生まれる

1431年 ジャンヌ火刑

1437年 後のエドワード4世王妃/エリザベス・ウッドビル生まれる
    (ヘンリー7世王妃の母/ヘンリー8世祖母)
1455年    薔薇戦争始まる

1457年   リッチモンド伯ヘンリー誕生(後のヘンリー7世)

1461年    ヨーク王朝始まる /エドワード4世即位
    (ヘンリー8世の母方の祖父)
1464年    エリザベス、ウッドヴィル王妃となる

1466年    後のヘンリー7世王妃エリザベス・オブ・ヨーク王女誕生
    (後のヘンリー8世母)

1483年   ボズワースの戦いでヨーク王朝滅亡 /ヘンリー7世即位/
     
チューダー王朝始まる

1485年  後のヘンリー8世王妃キャサリン・オブ・アラゴン誕生
    (後のメアリー1世母)


1486年  エリザベス・オブ・ヨーク王妃となる/ ヘンリー7世にアーサー王子誕生

1489年  ヘンリー8世誕生/エリザベス・ウッドビル死去

1491年  マーガレット王女誕生(後のメアリー・スチュアートの祖母)

1596年  メアリー王女(後のメアリー1世)誕生/(後のジェーン・グレイの祖母)

1509年  ヘンリー7世崩御/ヘンリー8世即位 /エリザベス・オブ・ヨーク死去

1503年  マーガレット王女スコットランドへ嫁ぐ

1507年??後のヘンリー8世王妃アン・ブーリン誕生/(後のエリザベス1世母)

1509年   キャサリン・オブ・アラゴン、ヘンリー8世王妃となる

1513年    マーガレット王女の夫ジェームス4世、戦死

1514年    メアリー王女フランス王妃となり、半年後サフォーク公と再婚

1533年    ヘンリー8世、キャサリン・オブ・アラゴンと離婚、
     アン・ブーリン王妃となる
     エリザベス1世誕生/メアリー王女(ヘンリー7世娘)死去

1534年    国王至上法公布 英国国教会成立

1536年   修道院解体 /恩寵の乱 /キャサリン・オブ・アラゴン死去/
     アン・ブーリン処刑/
     ジェーン・シーモア王妃となる(後のエドワード6世母)

1537年   エドワード6世誕生 /ジェーン、エドワード王子を出産して死亡 /
     ジェーン・グレイ誕生

1539年   アン・オブ・クレーフェ王妃となり即離婚 /
     キャサリン・ハワード王妃となり、処刑

1541年 ヘンリー7世長女マーガレット王女死去/
     スコットランド女王メアリー・スチュアート誕生

1543年 キャサリン・パー王妃となる

1547年  ヘンリー8世崩御 /エドワード6世即位 /キャサリン・パー出産のため死去

1553年  エドワード6世崩御 /ジェーン・グレイ即位と退位/メアリー1世即位

1554年  ワイアットの乱 /僭主ジェーン・グレイ処刑

1558年 メアリー1世崩御/エリザベス1世即位 

1566年 ジェームズ1世誕生(後のスチュアート開祖/母はメアリー・スチュアート)

1569年  北部諸候の乱

1574年 後のジェームス1世王妃デンマークのアン王女誕生(後のチャールス1世母)

1584年  一致団結の同盟 メアリー・スチュアート処刑

1588年  無敵艦隊の戦い

1589年  アイルランドのオニールの乱/ デンマークのアン、スコットランド王妃となる

1596年     エリザベス・スチュアート王女誕生
    (後のハノーバー王朝開祖ジョージ1世の祖母)


1601年  エセックス伯処刑 「黄金演説」

1603年  エリザベス1世崩御 /チューダ-朝滅亡
     英国王としてジェームス1世即位、スチュアート王朝成立

1609年     後のチャールズ1世王妃アンリエット・マリー誕生
     後のチャールス2世ジェームズ2世の母)

1613年 ジェームズ1世王女エリザベス、ドイツへ嫁ぐ

1619年 エリザベス、ボヘミア王妃となる

1625年 ジェームス1世崩御 /チャールス1世即位 /
     ジェームズ1世王妃デンマークのアン死去
     アンリエット・マリー、チャールス1世王妃となる

1628年  権利の請願

1642年  議会対国王の内乱(ピューリタン革命)始まる /
     アンリエット,軍資金調達のためオランダへ

1645年    ネイズビーの戦い 革命軍大勝

1649年  チャールス1世処刑/ 共和制始まる

1660年 共和制終了 /スチュアート王朝復活 /チャールス2世即位

1662年 エリザベス・スチュアート死去

1669年 アンリエット・マリー死去

1685年  チャールス2世崩御/ ジェームス2世即位

1688年  名誉革命 ジェームス2世追放 /メアリー2世&ウィリアム3世共同統治

1689年  権利章典


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歴代国王(ノルマン王朝からスチュアート王朝まで) [チューダー王朝の国王たち]


 

 ◆ノルマン王朝 ◆

  ウイリアム1世  
(生没年)1027ー1087
(在位)1066ー1087
ノルマン王朝の開祖。
父の従兄弟にあたるエドワード懺悔王の跡を継ぎ、英国を統一する。
封建制度の開始
王妃マチルダ・オブ・フランドル

ウイリアム2世   
(生没年)1060ー1100
(在位)1087ー2100
兄ロバートを押しのけて王位につく
/王妃なし

ヘンリー1世  
(生没年)1068ー1135
(在位)1100ー1135
読書好きでボークラーク(博識)王と呼ばれる
王妃(1)マチルダ・オブ・ スコットランド
王妃(2)アデレード・オブ ルーア

スティーブン 王 
(生没年)1103ー1154
(在位)1135ー1154
ヘンリー1世の甥。 従姉妹のマチルダ と王位を争う。
王妃マチルダ・オブ・ ブローニュ

 ◆プランタジュネット王朝◆

ヘンリー2世 
(生没年)1133ー1189
(在位)1154ー1189
ランタジュネット王朝開祖ウィリアム1世の曾孫。
フランスと戦いブルゴーニュを取得。
王妃エレオノール・ダキテーヌ

リチャード1世 
(生没年)1157ー1199
(在位)1189ー1199
第3回十字軍に参加し、獅子心王の異名を持つ
王妃ベレンガリア・オブ・ナヴァール

ジョン王 
(生没年)1167ー1216
(在位)1199ー1216 
敗戦でフランス領土を失ったため、「失地王」の異名を持つ
貴族の反乱にあい「大憲章マグナカルタ」を承認する
王妃(1)イザベル・オブ・グロスター
王妃(2)イザベル・オブ・ダングレーム

ヘンリー3世 
(生没年)1207ー1272
(在位)1216ー1272
マグナカルタを無視して国民に重税を課し、反乱を招く。
その結果シモン・ド・モンフォールの議会を開催し、それが英国下院の発祥である。
王妃エリナー・オブ・プロバンス

エドワード1世 
(生没年)1239ー1307
(在位)1272ー1307
ウエールズを征服し、皇太子をプリンス・オブ・ウエールズと命名する
王妃(1)エリナ・オブ・カスティリア
王妃(2)マーガレット・オブ・フランス

エドワード2世  
(生没年)1284ー1327
(在位)1307ー1327
国内に反乱が相次ぎ、最期は王妃イザベル・オブ・フランスに暗殺される
王妃イザベル・オブ・フランス

エドワード3世  
(生没年)1312ー137
(在位)1327ー1377
母親がフランス王女だったことからフランス王位を要求し、100年戦争を起こす。
ガーター勲章を作った
王妃フィリッパ・オブ・エノー

リチャード2世  
(生没年)1367ー1400
 (在位)1377ー1399
エドワード3世皇太子ブラック・プリンスの次男。
後に従兄弟の長男ヘンリー・ボリンブロクによって廃位後に暗殺
王妃(1)アン・オブ・ボヘミア
王妃(2)イザベル・オブ・ヴァロア

 ◆ランカスター王朝◆

ヘンリー4世  
(生没年)1387ー1422
 (在位)1413ー1422
リチャード2世を暗殺して王位につく。議会を重視する
王妃(1)メアリー・オブ・ブン
王妃(2)ジョアン・オブ・ナヴァール

ヘンリー5世 
(生没年)1367ー1413
(在位)1399ー1413
100年戦争でフランスに大勝。フランス王女を妃に迎えるが、35歳の若さで病没
王妃キャサリン・オブ・ヴァロア

ヘンリー6世   
(生没年)1421ー1471
(在位)1422ー1461
在位中に発狂し、薔薇戦争が勃発する

 ◆ヨーク王朝◆

エドワード4世  
(生没年)1442ー1483
(在位)1461ー1470
薔薇戦争でランカスター側を破り、ヨーク王朝を創設
王妃エリザベス・ウッドヴィル

エドワード5
(生没年)1470ー1483
(在位) 1483ー1483?
叔父のリチャード3世 により廃位。ロンドン塔に監禁 され、後に行方不明
王妃なし

リチャード3世   
(生没年)1452ー1474
(在位)1483ー1485
ボズワースの戦いで 戦死。ヨーク朝断絶
王妃アン・オブ・ウォーリック

 ◆チューダー王朝◆
ヘンリー7世   
(生没年) 1457ー1509
(在位)1485ー1509
絶対王制の開始。薔薇戦争を終結させ、前王朝の遺児を次々処刑する
王妃エリザベス・オブ・ヨーク

ヘンリー8世     
(生没年)1491ー1547
(在位)1509ー1547
離婚問題からバチカンと対立し、英国国教会を創設。修道院を解体させる
      王妃(1)キャサリン・オブ・アラゴン
王妃(2)アン・ブーリン
  王妃(3)ジェーン・シーモア
   王妃(4)アン・オブ・クレフェ
   王妃(5)キャサリン・ハワード
 王妃(6)キャサリン・パー

エドワード6世          
  (生没年) 1437ー1553
(在位)1447ー1553
英国国教会とプロテスタントの権力強まる
王妃なし

    メアリー1世               
(生没年)1516ー1558
(在位)1553ー1558
親スペイン政策をとってスペイン皇太子フェリペ2世と結婚。
プロテスタントを迫害する
夫スペイン王子フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)

    エリザベス1世     
(生没年)1533ー1603
(在位)1558ー1603
商業を重んじ、経済大国への道を開く。 スペインと戦って破り、インド航路を獲得する。
生涯独身

 ◆ステュアート(スチュアート)王朝◆

    ジェームス1世      
(生没年) 1566ー1625
(在位)1603ー1625
母はスコットランド女王でありながら、長年英国に幽閉され、後に処刑されたメアリー・スチュアート。子供のいないエリザベス女王から後継者に指名され英国王位につく。絶対王制を掲げて議会と対立する
王妃アン・オブ・デンマーク

     チャールス1世      
 (生没年) 1600ー1649
(在位)1625ー1649
王妃アンリエット・マリー・オブ・ブルボン
議会との対立が悪化し、ピューリタン革命となる。議会側に捕らえられて処刑

       チャールス2世      
(生没年) 1630ー1685
(在位)1660ー1685
王妃カテリーナ・オブ・ブラカンザ
王制復古後最初の王。 好色で知られる
      ジェームス2世       
(生没年) 1633ー1701
(在位)1685ー1688
再び議会と対立。カトリックを信仰し、名誉革命が起こった。
英国から追放される

        メアリー2世            
(生没年) 1662ー1694
(在位)1689ー1694
名誉革命によって追放された父ジェームス2世にかわり、嫁ぎ先のオランダから帰国して王位につく。
夫オランニュ(オレンジ)公ウイリアム

      ウィリアム3世        
(生没年) 1650ー1702
(在位)1689ー1702
妻メアリーとともに共同で王位につく。
王妃メアリー2世

          アン女王           
(生没年) 1665ー1714
(在位)1702ー1714
姉の跡を継ぎ、議会と協調する (跡継ぎがいなかったため、断絶)
夫デンマーク王子ジョージ


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皇太子アーサー・チューダー(ヘンリー8世の兄)Arthur・Tudor [チューダー王朝の国王たち]

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アーサー・チューダー/作者不詳/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
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 アーサーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世と、王妃エリザベスの間の第一子として生まれた。
 もともと敵対していたランカスター系のチューダー家の王と、ヨーク家の王女エリザベスの結婚は薔薇戦争の終結を意味するものとして歓迎されたが、後継者が生まれたことで、平和はより堅固なものとなった。

 アーサーが生まれたウィンチェスターという町は、「アーサー王と円卓の騎士」の円卓があった、とされる町である。長男がアーサー王ゆかりの町で生まれたというので、「アーサー」と名付けたという。
 一説によれば、「生まれてくる後継者を神格化するために」ヘンリー7世が、わざわざ産所をウィンチェスターに選んだ、ともいう。

 アーサーはわずか3歳で、一歳年長のスペイン王女キャサリンと婚約する。
 国を統一したスペイン女王イザベラが「おチビちゃん(ミ・ベケーニャ)」と読んで鍾愛した末娘である。
 スペイン王国もまた、アラゴンとカスティーリアという、2つの国が合併してできたばかりの新興国家だった。

 しかし、両国の利害は最初から対立した。ヘンリー7世は、スペインに対して、予想の四倍もの持参金15万クラウンをふっかけ、スペイン側は英国にフランスへの出兵を要請した。
 両者の欲は外交努力によって曖昧なまま、婚約が先行された。1499年と1500年、二度に渡ってアーサー王子はキャサリンを妻にする、といって代理人を通しての仮結婚を行った。

 1501年10月2日、キャサリン王女がプリマス港に上陸した。
 花嫁行列は長引き、一ヶ月経ってもロンドンにつかなかった。痺れをきらしたヘンリー7世とアーサー王子は、ロンドンから40キロほど離れたドグマースフィールドまでお忍びで出かけていって、未来の花嫁と体面した。

 同年11月12日、ようやくキャサリン、ロンドンに到着。
 花嫁側の華麗なパレードは、ロンドン側の壮麗なページェントで出迎えられた。
 2日後、アーサーとキャサリンは聖ポール大聖堂で挙式をあげた。

 12月2日、アーサーは皇太子として、ウェールズのルドルー城へ向かった。
 新妻キャサリンも同行した。まだ一度も肉体関係のない、形ばかりの夫婦だった。
 翌年の3月、アーサーは急な発熱に取り憑かれる。もともと病弱だったアーサーは、生死の境を彷徨った。
 キャサリンも必死で看病に明け暮れたが、疲労と感染のために、倒れた。
 1502年4月2日、アーサーは高熱のために息を引き取った。
 悲しみの中、キャサリンだけは回復し、ロンドンに帰還した。
 アーサーとキャサリンが性的関係のない夫婦だったことは、その後、スペイン側が「形式的な結婚だった」として、残りの持参金の支払いを渋ったことからも推測できる。

 アーサーの死後は、実弟にあたるヘンリーが「ヘンリー8世」として父の跡を継ぎ、キャサリンはヘンリーに見初められ、恋愛結婚をして王妃に迎えられる。しかしヘンリーが心変わりした時、キャサリンは「兄の妻だったから聖書の教えに反する」として、強制的に離婚されてしまう。
 未来の妻キャサリンが故国にいた頃、ラテン語で送った手紙に見られる優しさ、線の細い顔立ち・・・もし実弟のヘンリーではなく、アーサーが天寿を全うしていたら、王位についていたら、英国の歴史はどうなっていただろうか。


 

                 参考資料/
           The Tudor place  Jorge H. Castelli
           薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
           イサベル女王の栄光と悲劇 小西章子 鎌倉書房


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英国女王メアリー1世Part3(ヘンリー8世第1王女)Queen Mary 1  [チューダー王朝の国王たち]

スクリーンショット 2019-09-23 18.44.31.png
         病人に触れるメアリー/メアリー女王の祈祷書挿絵/
         ウェストミンスター大聖堂図書館蔵

 エリザベスにあってメアリーに決定的に欠けていたのは、自分の本音を巧みに隠す政治的手腕だった。
 メアリーは常に必死であった。まるで努力によって全てが解決するかのように、正面からぶつかって行く以外に術を持たなかった。計算も取引も陰謀も、無縁だった。
 もし一流の政治家であるなら、狂信的プロテスタントとの戦いにおいて、決して相手を安直には殺さなかったに違いない。屈服させ屈辱を与えて、政治的に葬り去るか、反逆者としてタイバーンの処刑場で八つ裂きにしただろう。反逆であれば、かならず民衆はメアリーの側に立つ。なぜならこの時代、王政はまだ、自然現象と同じく絶対的なものだったのだから。
 ヘンリー7世やヘンリー8世が、あれだけ多くの人間を「殺して」おきながら、政治的に安定していたのは、巧みに相手に「反逆」のレッテルを貼ったからである。

 しかしスペイン人を夫に持ったメアリーが、プロテスタントを正面から迫害すれば、あたかも政敵が外国に対する独立性の証であるかのように、愛国心を煽る結果となる。
 本来ならば政敵を殉教者として、神格化させる事だけは避けねばならなかった。現にエリザベスは多くのカトリック信者を迫害したが、虐殺したのは明白な反逆者と庶民であって、その他はわざと生かしておいて、屈辱を与えている。
 アイルランドの反乱が終結したのも、指導者のオニールを「殺した」からではなく、政治的に失脚させたからである。
 また、英国国教会は独立派ピューリタンを激しく迫害したが、その手段は派手な処刑ではなく、公職からの全面的追放と賎民のレッテルという、陰湿かつ効果的な方法だった。

 1555年10月16日、ラティマーとリドリーが火刑に処せられたが、ラティマーは同じ杭に縛り付けられているリドリーに向かって「今日この良き日、我々は英国の燃えるロウソクとなるのです」と言い、絶命するまで神を賛美した。
 一方1556年3月21日、クランマーが火刑にされた時には、いったんはカトリックに転向しておきながら、最終的に死を避けられないと悟った彼は、「転向の書類にサインしたのは、この手が裏切ったからだ」と叫び、迫り来る炎の中に右手を突っ込んだ。
 それらの光景を、民衆は民族的英雄のように、熱狂しながら見守った。
 狂信的プロテスタントのジョン・フォックスは、著書「殉教者列伝」の中で、その時の情景をうれしそうに「After he had stroked his face with his hands, and as it were bathed them a little in the fire, he soon died, as it appeared, with very little pain.

(彼の顔が手で打たれた後、小さな炎に包まれ、微かな苦しみのうちに速攻死んだ)」
と、書き残している。
 メアリーはわざわざ仇敵をヒーローにしてしまった。
 死ぬことで自分の熱狂的信仰心をアピールしたい狂人に、格好の舞台を用意したのだ。

 プロテスタントへの迫害が強まるにつれ、国民は王妹エリザベスの到来を期待した。
 いつしかエリザベスはメアリーのライバルと見なされていた。
 カトリック国樹立の夢はますます遠ざかった。

 エリザベスに対する疑念と愛情は、常にメアリーを苦しめてきた。
 ワイアットの反乱時、ジェーン・グレイはカトリックへの転向を拒否したので、あっさり処刑することができたが、エリザベスは徹底的に関与を拒否した上に、カトリックともプロテスタントともつかない玉虫色の態度を押し通した。これがヘンリー8世なら、「疑問がある」という点だけで処刑に踏み切ったに違いない。
 しかしメアリーは、議会の説得はもとより、自分自身を納得させることさえできなかった。
 1554年3月17日、エリザベスをロンドン塔に収監したものの、同年5月19日には解放して、リッチモンドへ移送せざるをえなかった。

 メアリーは異母妹をヒステリックに責め、詰問しても、周囲の目を無視してまで殺すことはできなかった。それどころか、心細かったのであろう、フェリペが国を去ると、手をさしのべる事さえあった。肉親の少ないメアリーにとって、エリザベスは宿敵の娘であるのと同時に、たった1人の妹でもあったのだ。
目的のために手段を選ばぬ冷徹さと、周囲を納得させるだけの説得力を持たなかったことが、メアリーの悲劇の源でもあった。

 およそチューダー王朝の中で、メアリーほどその人格を否定され、侮辱され続けた存在はいなかったであろう。 それに比べてエリザベスは、幸運にも自己否定を招くような激しい侮辱は受けなかった。それ故に孤立しても、冷静に自分自身の立場を計算するだけの余裕があった。エリザベスにとって、世界は自分を中心に回っていた。しかし世界から否定されたメアリーには、自殺行為に近い頑強さ以外、己の存在を主張する手段を見出せなかったのである。プロテスタントへの宗教的迫害も、いわば政治的な自殺行為に近かった。

 強者の理論がまかり通る中、常にメアリーは弱者の立場に置かれてきた。弱者はその弱さによって同情されることはほとんど無い。むしろ次々利用され、より搾取される対象となるだけである。
 そういった意味で、夫フェリペもまた「強者」であった。

 1555年8月に妻を見捨てて帰国したままだったフェリペは、そのくせ使者を通じて要求ばかりしてきた。

 対フランス戦役に、英国を巻き込むためであった。メアリーはスペイン海軍のために15万ダカートの援助をせざるをえなかった。1557年1月には、さらにスペイン領オランダ防衛のために、6000人の歩兵と600人の騎馬兵の増員を約束した。

 彼女は政治よりむしろボランティアに生き甲斐を見いだしていた。貧民街の家々を訪問しては、行政官がきちんと対応しているか確認した。聖金曜日には伝統として、病人の体に触れ、その回復を祈った。
 そんなメアリーの肉体を、子宮癌が蝕み始めていた。
 1557年3月、フェリペは再びやってきたが、彼の脳裏にはメアリーを利用することしかなかった。

 たった4ヶ月留まっただけで、7月には英国から去っていった。

 スペインの戦争に巻き込まれた英国は、フランスの攻撃目標となった。1558年1月、フランス軍は大陸に残っていた最後の英国領カレー港を攻撃して陥落させた。ここに至り、メアリーは自分が政治家として最悪だったことを悟った。
「私が死んで解剖したら、心臓の上にカレーの字が見えるでしょう」
メアリーはそう呟いたという。

 フェリペは衰弱していく妻を労るどころか、すでに見捨てていた。
 メアリーの先が長くないことを見越して、エリザベスを後妻候補に決め、スペイン大使ファリアを派遣してエリザベスにおべんちゃらを囁いた。
 その一方でメアリーに対して、早急にエリザベスを後継者に指名するよう催促した。メアリーは拒絶した。   たとえ唯一の王位継承候補であったにせよ、自分で指名だけはしたくなかった。

 その年の秋までに癌は悪化し、11月には死期が近づいていた。
 寝たきりとなり、ふと意識を取り戻したメアリーは、ベッドの脇で侍女達が泣いているのに気づいた。
 「泣かなくていいのよ。私は夢の中で、天使みたいな小さな子供たちに取り囲まれて歌ったり踊ったりしているのを見て、安らぎを与えてもらっていたのだから。」
 しかしメアリーは自身も1人涙を流し続けた。事実上夫を失ってしまった事、孤独、何よりも政治家としてカレーを失った事実が最後までメアリーを苦しめた。
 1558年11月16日朝7時、メアリーは静かに息を引き取った。
 その直後、指輪が抜き取られ、姉の死の知らせを期待して待っているエリザベスのもとへ届けられた。

 享年42歳。

 メアリーは政治家として不向きであった。むしろ即位しない方が幸せだったのかもしれない。
 しかしメアリーを見ていると、その弱者としての生涯に、深い悲哀を感じざるをえない。
 「ブラッディ・メアリー」なるあだ名も、ジョン・フォックスらプロテスタントの狂った女性差別主義者達が、勝手に作り上げたイメージに過ぎない。
 なぜなら、チューダー王朝の諸王は、いずれもメアリー同様に多数の政敵を葬ってきたのだから。

 エリザベス朝の英国国教会の主教たちが、自由と平等を訴える独立派ピューリタンに加えた迫害は、20世紀の歴史家をして「マッカーシーの赤狩り如し」と言わしめ、重臣セシルですら、「スペインの異端審問のようだ」と驚かせるほど熾烈を極めた。独立派の側から見れば、かれらもまた「ブラッディ」と呼ばれるべきであろう。

 メアリーは実父からもアン・ブーリンからも、何度も命を狙われた。
 その事実を父親本人から聞かされた時、ショックのあまり気を失った。
 メアリーが生きながらえたのは、単にアンが暗殺に失敗したからであった。
 もしアンが男児を産むことに成功していたら、その時は十中八、九、「王子の安全のため」と称して堂々と処刑したに違いない。事実、アンはキャサリンの死期が迫った時にも娘と対面させなかったばかりか、孤独のうちキャサリンが亡くなった時、ヘンリーと手を取り合って喜び踊っている。

 にもかかわらず、アンが殺されるべくして殺された事実をもって過剰に同情している人々を見る時、人間理解の浅薄さと想像力の貧しさに、強い憤りを感じる。
 英国国教会側が自らの行動を棚に上げ、メアリーを罵倒する様も、恥知らずと言うべきだろう。

 283人もの狂信者たちを焼き滅ぼした炎は、虐げられたメアリーのせめてもの復讐であった。

 メアリーはかれらを政治的に葬り去るのではなく、「その手で」殺したかったのだ。
 罪なくして追放された母のために。そして自分自身のために。

 メアリーは政治家ではなく、迫害され続けた1人の女性だった。

             参考資料/
         The Tudor place  Jorge H. Castelli
         Tuder History Lara E. Eakins
         Mary Tuder by Elisabeth Lee
         Mary Tudor: The Spanish Tudor by H.F.M. Prescott
         幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
         女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
         薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


 


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