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愛欲のルネサンス④露出狂 [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

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ロドヴィコ・カッポ—ニの肖像
ブロンツィ—ノ作/フリッツコレクション/NY
 16世紀特有の、男性のシンボルを強調する「ブラゲッド」は、中世ドイツで生まれたファッションだった。
 ドイツでは「ラッツ」フランスでは「ブラゲッド」、英国では「コッドピース」の名で呼ばれた。
 その前の時代、15世紀半ばではすでに、男性は足に密着するタイツにウエストまでしかない短い上着を着ることで、局所を強調する傾向にあった。

 1444年のチューリング年代記によれば、「男達もこの時代短い上着をつけていたから、陰部は丸見えだった」あまりにもモッコリしていたために、女性とダンスをしている時など、相手は嫌でもその部分に目がいってしまったという。

 やがて自然体でモッコリさせるだけでは飽き足らなくなり、同時に薄いタイツだけでは陰部を保護しきれなくなると、男達は作り物の陰部「ブラゲッド」を下げるようになった。
 目立たせるために、服やタイツと違う色の布で作ったブラゲッドに、色とりどりのリボンやレースを飾る方法もあれば、形は実物に似せているが詰め物をして、相当大きく見せる方法もあった。
 エッジスハイム年代記によれば、タイツはお尻に食い込んで割れ目がはっきりと見え、前に回ればブラゲッドが「鋭く前方に突き出ていて、テーブルの上にのっかったほど」であった。
「そういう姿で人々は皇帝、国王、領主、紳士、淑女の前に行った」
 一方、女性の方も負けずに胸を剥き出しにしていた。

 政府は女性の胸丸出しもブラゲッドも取り締まろうとやっきになっていた。
 ニュールンベルク市議会の布告によれば
「卑しくも当市の市民たる者は、ズボンの袋を隠さず剥き出しにして、大っぴらにこれ見よがしに下げてはならない。陰部とズボンの袋を隠して、剥き出しにならないように作らせて、身につけなければならない。」
 ベルン市では、男が陰部もブラゲッドも露出してはいけない、という法律を、1476年から1487の11年間に6回も改正したが、流行熱が冷めるまで、いっこうに効き目がなかった。

 16世紀に入ると、貴族や国王まで、当たり前のものとしてブラゲッドをつけるようになる。
 シェークスピアの「ヴェローナの2紳士」は、ヴェローナに住む2人の青年がミラノの大公に仕えるうちに、2人一緒に大公の姫君に一目惚れして、置き去りにされた婚約者が、男装をして追いかけてくるという、ドタバタ劇である。
 その第二幕、婚約者ジュリアが男装をしようとするシーンで、こんな会話がある。

 
 英国王ヘンリー8世も、流行に合わせてブラゲッドをつけている。
 膝丈の上着の、下の方から袋というより、折りたたんだ帯に近い形で覗かせている。
 しかし色はそれほどハデなものではなく、白っぽい上着の色とさほど差違はない。
 (下の画像/ブラゲッドをつけたヘンリー8世/ホルバイン作/1536年)
              
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 一方1532年頃に書かれたカール5世の肖像画は、密着した短パンとタイツの上に、
カバーをかぶせたようなブラケットがはっきりと見える。

 ブラゲッドをつけたカール5世(下の画像)ティツィアーノ作/プラド美術館蔵/1532-1533

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 一方、このページトップにある1551年作イタリアのロドヴィコ・カッポーニの肖像画
では、真っ黒な上着の間から、白いブラゲットが付きだして見えている。
 1550年代に描かれたフィレンツェの肖像画では、なんと小さな子供までつけていたことがわかる。
 いかにこの流行がヨーロッパを席巻したかよくわかるが、何とも奇妙な光景である

 

                   参考資料
             風俗の歴史 フックス著 光文社 
             Tudor & Elizabeth portraits

 


タグ:英国史 英国
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ヘンリー8世の愛人達②メアリー・ブ—リン [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・ブ—リン
(ホルバイン作)

メアリー・ブ—リンの家系図
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 メアリーは映画「ブ—リン家の姉妹」の中で、華やかな姉アンの影に隠れた、目立たない存在として描かれている。史実では、どうだったのだろう?
「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)

 
 実をいうと、メアリー・ブーリンは、チューダー王朝前半を代表する美女といっても過言ではなかった。
 バランスの取れたふっくらした顔、青い瞳、明るいブロンド。どれを取っても、当時の美意識に合っていた。
 姉妹のアン・ブーリンの冴えない容姿とは対照的であった。

 
アン・ブーリンは、女王エリザベスの母として有名であるにも関わらず、その出生年ははっきりしていない。1501年という説もあれば、1507年という説もある。最近ではアンの1507年出生説が有力なので、その姉妹のメアリーは当然それより遅い、1508年以降または以前出生という事になる。(一般的には メアリーが姉とされているが、妹という説もある)
 2人の兄であるジョージは1503年生まれなので、それ以前ではありえない事になるが、いずれにしても諸説あって、未だに確定していない。
 出生年が不明なのは、それだけブーリン一家が些末な貴族だったことの現れではなかろうか。

 ともあれ、当時一家は居城であるヒーヴァー城に住んでいた。
 メアリーとアンの姉妹はそこで生まれ、育った。1512年父のトーマスが在フランス大使に任命されたため、姉妹もまた父についてフランスへ赴いた。
 ここでまた、ブーリン家について謎が生まれてくる。なぜかフランスで、ブルゴーニュ公女マルグレーテのお側付き女官として、部屋までもらったのはメアリー ではなく、アンだったのである。

 研究家も「こういった場合は、姉が優先されるのが一般的である」といっている。
 英国史研究家の石井美樹子氏は、著書「薔薇の冠」の中で、「メアリーがフランス王妃に嫌われたからではないか」と疑問を呈している。

 しかし、これには妥当といえる理由があった。
 父トーマスは、1520年、メアリーをウィリアム・キャリーなる24歳の青年に嫁がせてしまったので、独身でフリーの娘はアンだけだったのである。

 もともとブーリン家は13世紀まで小作農の家柄であったが、結婚によって領地を増やし、トーマスの父の代で、36もの領地を持つ伯爵家の相続人を妻に迎 え、格段の飛躍を遂げていた。ウィリアム・キャリーは、高位の貴族ではなかったものの、英国王ヘンリー8世の遠縁であり、側近でもあった。
 花嫁のメアリー12歳。新郎キャリーは24歳。
 当時の英国では、珍しくもない政略結婚である。
 あのヘンリー7世の母、マーガレット・ボーフォートも12歳で嫁ぎ、翌年には身ごもり、夫が戦死したと同じ年、わずか14歳でヘンリー7世を産んでいる。

 2人の結婚式は、父トーマスが帰国するわずか前に行われた。
 その4年後、夫妻の間には長女キャサリンが生まれた。
 翌年、ウルジー枢機卿の邸宅/ヨーク・ハウスのパーティーでは、メアリーは妹のアンとともに、深紅のドレスに宝石を飾った白いヘッドドレス姿で、華やかに参加した。
 いつ頃、ヘンリー8世がメアリーに目を付けたのかは定かではない。あるいは、夫のウィリアムとの間で、何らかの取引があったのかもしれない。

 1525年、メアリーが「ヘンリー」という、ヘンリー8世によく似た男の子を出産する直前、国王から領地を与えられている。しかし、愛人エリザベス・ブラントとの間にできたヘンリー・フィッツロイが国王の庶子として認知され、リッチモンド公の称号が与えられたのに較べて、認知はされなかったようだ。
 というのも、その頃ヘンリーは、アン・ブーリンとの結婚を画策していたからである。アンと結婚しようと思っているのに、アンの姉でもある人妻メアリーに子供を産ませた事実が公になっては困るからだ。
  
 1528年、夫ウィリアム・キャリーが亡くなり、メアリーは未亡人となった。
 メアリーはすでにヘンリーの愛人として権勢を持っていたアンに、亡夫の姉エリノア・キャリーを聖イーディス修道院長に就任させてくれるよう頼んだ。
 と同時に、国王の庶子である息子ヘンリーを、アンを後見人として育てて欲しいと願い出ている。こうした事実からも、メアリーが夫の出世のために、あえてヘンリー8世の求めのままに身を任せたのではないか、と推測する事ができる。

 アンは姉メアリーに嫉妬した。昔と違って、美貌の姉は今や独身だった。 アンはさかんにヘンリーに向かって、姉の悪口を書き連ねた手紙を送った。
 1534年、メアリーはハンフリー・スタッフォードという、国王付き兵士だった男と再婚した。今度こそ、誰に命令されたわけでも、取引でもない、メアリー自身の意志であった。
 しかし、独身のメアリーを政略結婚させるつもりであったブーリン一族は怒った。とりわけすでに王妃になっていたアンは、「平民の義兄」など受け入れるはずもなく、メアリーともども宮中から追い出した。そのお陰で、ブーリン一族が根こそぎ没落した不幸に巻き込まれる恐れから逃れた。
 アンが王妃となる代わりに恋人との結婚を諦め、最後には処刑されたのとは対照的に、メアリーは貧しいながらも慎ましく、愛を全うした。

「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)
 
 この言葉は、アンの人生と比較してみると、非常に皮肉に響く。

 最初の夫との間に生まれた長女キャサリンは、ヘンリー8世の第4王妃クレーフェのアンに侍女として仕え、やがてノウルズ卿に嫁ぎ、祖母の美貌を受け継いだ美女レティス・ノウルズが誕生した。
 この家系からは、名門エセックス伯家が出て、レティスの孫娘フランシスが大名門サマーセット公家に嫁いだことから、21世紀の現代にまで、メアリーの血筋は受け継がれたのである。
 アンの血筋がエリザベスの代で途絶えたのとは、対照的である。

       

                 参考資料/
          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place by Jorge H. Castelli
          The Tudor History by Marilee Mongello
          薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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エリザベス女王から愛人を奪った女/レティス・ノウルズ [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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               レティス・ノウルズ
               バ—ス・コレクション 

 レティスは官能的な美女と伝えられている。しかし現代の感覚で肖像画は見ると、当時流行った化粧のせいで、かなり奇妙な感じがするのを否定できない。
 白粉で顔を真っ白に塗って、下唇にぽってりとル—ジュを塗っている。眉毛は薄い方が良いとされていたので、とても薄い。首の回りにはお皿のように大きなラフ襟… 
 しかし顔立ちをよく見ると、
切れ長のセクシーな瞳、細い鼻筋、どこか東洋的美を漂わせる端麗な顔立ちは、化粧を落としてみると、ルーカス・クラナッハの描く美女に似ていたのではなかろうか。

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聖母子/ルーカス・クラナッハ1529年
バーゼル美術館蔵

 レティスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの姉/メアリー・ブーリンの孫だった。
 女王エリザベス1世にとっては、従姉妹の娘にあたる。
 アンとメアリーは姉妹とはいいながら、国王の寵愛を争うライバル同士であった。
 ヘンリー8世は美貌のメアリーではなく、アンを選んで結婚した。
 メアリーは既にキャリーという男の妻だったからだ。人妻の身で、国王にも身を任せていたのである。
 そんな因縁を持った姉妹の血を引くのが、女王エリザベスとレティスであった。

 レティスは1562年、この当時の感覚としてはやや遅い、22才で初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーに嫁いだ。
 1572年、夫エセックス伯は1200名を率いて、アイルランド反乱鎮圧に出撃した。
 
4年後の1576年9月22日、反乱は完全に終結しないまま、エセックス伯はダブリンの地で赤痢に罹り、亡くなった。
 夫が戦場に行っている間、レティスにはある「情事」の噂がつきまとっていた。

 夫が不在中、レティスはテムズ川の岸辺にあるダーラム・ハウスに住んでいた。
 近所には、女王エリザベスの愛人レスター伯ロバート・ダッドリーの屋敷があった。
 宮中では顔見知り程度に過ぎなかった2人が急速に接近して人の噂になり始めたのは、レスター伯がケニワースでの女王御幸の祭典に着用するために、
ダーラム・ハウスに礼服を借りに来て、レティスが応対に出た事がきっかけだったという。
 当時の中傷パンフレットには、レスター伯と不倫していたレティスは、夫が一時帰国する寸前、愛人の子を堕胎していた噂が載っていた。
 真偽のほどは不明である。しかしレスター伯が、女王の愛人という危険な立場も忘れて、レティスに惚れ込んだのは事実であろう。
 その時点で、レティスは夫との間にペネロープ、ロバート(後の第2代エセックス伯/エリザベス1世の愛人、後に処刑)、ドロシー、ウォルターという4人の子供をもうけていた。

 1575年スペイン人デ・グアラスの報告によれば、レスター伯とエセックス伯はアイルランド問題をめぐって深い対立があったという。
 女王エリザベスは寵愛するレスター伯の言うがままに、エセックス伯のやり方を非難し、口を挟んできたからであった。
 1576年、エセックス伯はダブリンで赤痢のために亡くなったが、巷では「レスター伯が暗殺したのではないか」と囁かれていた。

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女王の愛人レスター伯ロバート・ダッドリ—
ニコラス・ヒリヤ—ド作/ナショナルポートレートギャラリー

 夫の死後約2年が経過した1578年9月21日、レティスとロバート・レスター伯はレティスの父の立ち会いのもと、ひっそりと再婚した。新郎は先妻を事故で失っていたので、再婚だった。先妻の死もまた、陰謀による暗殺ではないか、と噂されていた。
 女王エリザベスは2人の結婚に驚き、激しく怒った。
 「まさかロバートがレティスと再婚なんて…私は一言も聞いていない!ロンドン塔へ投獄しなさい!」
 これには周囲も強く反対した。2人は結婚歴はあるが今は独身であり、また王族でないので、結婚を女王に申告せねばらない義務もなかった。それを無視して投獄することも不可能ではなかったが、感情的過ぎる行為だった。「女王が嫉妬した」と国民の笑いの的になるのが関の山だった。

 1579年、レティスはレスター伯の唯一の息子を産む。父親と同じ「ロバート」と名付けられた。この少年は、デーンビー男爵の称号を与えられながら、わずか5才で亡くなってしまった。

 後に女王エリザベスはレティスの長男/第2代エセックス伯を愛人にしたものの、相変わらずレティスを無視し続けた。愛人の頼みに折れて、何度かレティスと会う約束をするが、途中で気が変わって約束を破っていた。あるパーティー会場で、レティスは300ポンドもする高価な宝石を持参して女王に献上すべく待機していたが、結局会うのは取りやめとなってしまった。
 しばらくして、エリザベスは自分の依怙地さを恥じたのか、レティスを招いた。
 レティスは万感の思いを込めて、遠縁にあたる女王の手と胸に接吻し、抱きしめた。
 女王エリザベスもまた、レティスを抱きしめて接吻し返したという。

 1585年、ロバート・レスター伯はオランダにおける対スペイン戦に派遣され、翌年の1月、オランダ総督に任命された。その頃から、レティスはまた、別の男性と浮き名を流し始める。
 今度は当時の主馬頭(しゅめのかみ/女王の馬を管理する長官)だったクリストファー・ブラントがお相手だった。
 1588年9月4日、レスター伯が亡くなると、翌年の7月にはすでに
クリストファー・ブラントと再婚している。しかし3度目の夫のブラントは、第2代エセックス伯が没落してクーデターを起こした時、共謀者として処刑された。レティスは長男と3人目の夫を同時に失ったのだった。

 レティスと最初の夫との間に生まれた娘のペネロープは、英国1の美女との誉れ高かった。
 ロバート・リッチなる男に嫁いだが夫婦仲は悪く、ペネロープはフィリップ・シドニーと不倫の愛に陥った。
 シドニーが亡くなった後は、マウントジョイ卿と愛し合い、夫のリッチが離婚に同意したにも関わらず、ジェームス1世王の怒りを買って再婚を禁じられた。
 そのため、ペネロープは
マウントジョイ卿の愛人のまま生涯を送り、その墓はただ名前のみを記した粗末なものであった。

 3人の夫の死を見送り、息子たちを失い、娘の不幸な結婚を見届けてもなお、レティスは生き続けた。
 そして1634年、当時としては驚異的な95才という長寿を全うした。
 すでに女王エリザベスは崩御し、次のジェームス1世すらなく、時代は動乱のチャールス1世の治世を迎えていた。

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   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス ストレイチー著 中央文庫
ルネッサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社

 


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「エリザベス」はどこからきたの?/名前の由来について [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 日本人にとって、名前は名前以上の神秘的な存在であった。
 本名とは、本人といえども滅多に口にしなかった。ましてや他人に本名を尋ねるという行為は、大変重要な意味を帯びていた。男性が未婚の女性に名前を聞くことは、即プロポーズの意味があった。
 下って平安朝、本名は正式に官職を任命した時だけ、台帳に記されるものだった。
 普段はあだ名や役職名、住んでいる場所や立場などで呼ばれた。
 

 ヨーロッパではどうだったろうか。カトリック諸国、例えばスペインやフランスでは、洗礼の際に聖人の名をつける事が多い。例えば、マリー・アントワネット(マリア・アントニア)やルイ・アントワーヌ・サン・ジュストの場合、アントワネットもアントワーヌも、聖書外伝である「黄金伝説」に出てくる聖者アントニウスにちなんだ名前である。
 フェリペ2世とフランス王女イザベラとの間に生まれた第1王女イザベラ・クララ・エウフェミニアは、「イザベラ」は実母の名から、クララもエウフェミニアも、ともに聖女の名であった。
 メアリーが聖母マリア、エリザベスが聖母の従姉妹エリザベツ、アンが聖母の母アンナなど、新約聖書のメジャーな人物にあやかった名前である。

 英国ではどうだったか。英国名は、肉親や恩人の名にちなむことが多く、聖人に由来することは少ない。とえばヘンリー7世第2王女メアリーの長女は、「フランシス」である。これはメアリーの再婚に反対したヘンリー8世を説得したフランス王フランソワ1世に感謝を込めた命名だった。ヘンリー8世の第1王女メアリー(後の女王メアリー1世)の名も、叔母メアリー王女から貰った名であった。

 また、ヘンリー8世側室メアリー・ブーリンの名も、同じメアリー王女にちなんだものだった。メアリー王女の姉、マーガレット王女は、父方の祖母マーガレット・ボーフォートから来た名前だった。

 ではエリザベスはどこから来たのだろうか。
 最初の「エリザベス」は、エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルである。
 彼女の母の名はジャクリーヌ(ジャケッタ)なので、おそらく 聖女エリザベス から貰った名である。その娘/エリザベス・オブ・ヨーク(ヘンリー7世王妃)の名は明らかに実母にちなんだ命名である。
 女王エリザベス1世の名は、祖母のエリザベス・オブ・ヨークと、曾祖母エリザベス・ウッドビルにちなんで付けられた名であった。
 また、生まれてすぐに亡くなったヘンリー7世末子のキャサリンは、スペインから嫁いできていた皇太子妃キャサリン・オブ・アラゴンにちなんでいる。
 キャサリンの由来は、アレキサンドリアの聖カテリーナである。

       「名前の由来となったキリスト教の聖女たち」

          聖カタリナ(伊/カテリーナ、仏/カトリーヌ、英/キャサリン)
カタリナはローマ帝国時代、エジプトのアレクサンドリアで殉教した聖女で、聖母子の幻想を見て、赤ん坊のキリストから指輪を与えられ「神秘の結婚」をした、という伝説がある。画面向かって左、左手を出して赤ん坊キリストから指輪をはめてもらっているのがカタリナ。
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    (聖ヨハネの祭壇画の一部「聖カタリナの神秘の結婚」ハンス・メムリンク作
     1479?〜1479?年で、メムリンク美術館蔵

               聖エウフェミニア
 紀元4世紀、ギリシャ生まれの聖女。異教の儀式への参加を拒んだために、ノコギリ付きの車輪で引き裂かれたり、凶暴な熊のオリに放り込まれたりしたが、奇跡によって助けられる。最後は剣で刺されて殉教した。

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       スルバラン作「聖エウフェミニア」1636年
        プラド美術館所蔵


            聖クララ(伊/キアーラ
 12世紀の聖女。イタリア/アッシジで、聖フランチェスコを助けて 修行に励んだ修道女。現在アッシジの「聖キアーラ(クララ)教会」に遺体が安置されている。

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            ジオット作「聖キアーラ(クララ)」                

                 
         聖エリザベート(英/エリザベス)
 エリザベートと呼ばれる聖女は2人いる。一人は新訳聖書に出てくる聖ヨハネの母、聖母マリアの従姉妹にあたる聖エリザベート。もう一人はハンガリー王女で、貧者に施しをして尊敬を集めていたが、夫に見つかりそうになった時、奇跡によって施し物が薔薇の花に変わったという。

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         スルバラン作「ハンガリーの聖エリザベート」
         1645年頃/プラド美術館蔵

                参考資料/

          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place Jorge H. Castelli
          平安の春 角田文衛 朝日新聞社

 


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