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こんなに女が強くなったのに? [歴史エッセイ]

 今も昔も私は英国史に対して疑問に思う点がある。

  ヘンリー8世の第1王妃キャサリン・オブ・アラゴンは政治的な才能もある賢妻だった。
 夫のヘンリー8世が国を離れた間摂政として英国を統治し、1513年9月侵略してきたスコットランドを撃退した。時のスコットランド王ジェームス4世は、英国軍に迎撃され、戦死してしまったという。
 国中がキャサリン王妃を絶賛した。
 ところが、夫のヘンリー8世は、そんな妻を捨てて若い女に走り、離婚してしまった。

 武勲をあげた王妃であっても「男の子を産まない」という理由で王妃の座を奪われてしまったのだ。
 別に子供ができなかったわけではなかった。男の子は生まれたにはうまれたが、赤ん坊のうちに亡くなってしまった。結果として娘1人しか育たなかった。

 そしてアン・ブーリンという新しい女性が王妃に迎えられた。
 キャサリンが王妃でいる間に愛人にして、結婚を約束していた相手だという。
 当時は大反対され、アンに批判が集まったが、現在ではなぜかアンの方を好む人々がいる


 そこには「妻は当然男子を産むべき」「男子こそ跡継ぎ」という発想が、16世紀の価値観として今もまだ理解し、共感されているということだろうか。キャサリンは当時40才だったが、一方アンは20代の若さだった。

 未だに「男は若い女が好き」「子供を産めない女はダメ」という価値観が歴史解釈でさえまかり通っている現実 それはフェミニズムが盛んな現代にあって、ダブルスタンダード(裏表)と言えはしないだろうか?


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マーガレット・チューダー(ヘンリー8世の姉)Margart Tudor [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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           マーガレット/D.マイテンズ作/
           王室コレクション/ホーリールード館蔵

      
 マーガレットは1489年、ヘンリー7世の2番目の子として、ウェストミンスター宮殿で産声をあげた。

 実母エリザベス・オブ・ヨーク妃は、13歳の時に亡くなった。母の死の直後、マーガレットはかねてから婚約関係にあったスコットランド王ジェームス4世との間に代理人結婚(代理人を通しての入籍)を済ませ、王妃となる教育を受けつつ、嫁ぐ日を待っていた。

 1503年、いよいよマーガレットはスコットランドへ出発した。
 多数のお供を付き従えてバーウィックを出た花嫁行列は、スコットランドのラムトン・カーク村で花婿側の出迎えを受けた。そこではじめてマーガレットは、付添人代表のノーサンバーランド伯から、祖国の花を捧げ持ったジェームス4世を紹介された。新郎新婦はその後エジンバラへ向かい、ホーリールード宮殿で式をあげた。
 華やかな宴や馬上試合が続いた後、一段落すると、ノーサンバーランド伯ら英国側一行はスコットランドを讃える言葉を残して引き上げていった。

 しかしヘンリー7世にあてた手紙によれば、マーガレットは幸福とはいえなかったらしい。
 夫のジェームス4世は女好きであり、スコットランド人も長い間敵対関係にあった英国の王女に冷ややかだった。6人の子供に恵まれたけれど、3人は産まれて間もなく亡くなった。かろうじて皇太子のジェームス(後のジェームス5世)のみが成人後まで生き延びた。

 寂しい結婚生活も、長続きはしなかった。
 1513年8月、ジェームス4世は20万もの大軍とフランドル製最新鋭の大砲を携えて、国境を侵犯した。
 英国側の国境防衛ポイントであるノーサンバーランドのノラム城が陥落した。
 数日のうちに、付近の英国軍要塞を次々と手中に収め、そのうちの1つ、フォード城に拠点を置いたジェームスは、城主夫人をレイプした、という。

 英国王ヘンリー8世が、フランス戦線に出陣している間の出来事だった。
 夫の行為を、マーガレットはどのような気持ちで伝え聞いていただろうか。
 元々敵国同志とはいえ、両国友好のために嫁いできたというのに、夫は次々と愛人を作り、妻の祖国を蹂躙しようとしている。この時、英国側はジェームスの非道な行為に天罰が下る、と怒りの声をあげていた。

 マーガレットもまた、内心夫を突き放していたのかもしれない。

 まもなく、天罰ともいえる事件が起こった。
 スコットランド軍を迎え撃った病身のサリー伯は担架の上から指揮を取り、補佐する息子のトーマスは、祖国の守護聖人カスパードの旗を頭上に翻していた。
 両軍は国境線近いブランクストン川付近で対峙した。
 9月9日、フロッドンで激しい戦闘が起こった。見通しが悪いために大砲が効かないとわかったスコットランド兵は陣地のあった高台から、一気に平地へ駆け下りた。
  そのとたん、待ち受けていた英国軍の集中砲火を浴び、軽装歩兵の突撃に遭遇した。
 長槍で武装していたスコットランド兵は身動きできないまま、殺戮に近い大惨敗となった。
 血の海の中に、切り刻まれたジェームス4世の遺体が転がっていた。

「今なお、父から息子へと語り継がれる過酷な負け戦と、悲しい大虐殺のことをフロッドンの運命を決した戦場のことを」(ウォルター・スコット「マーミアン」1808年)

 マーガレットは夫の死についてはすぐに諦めがついたかもしれないが、幼いわが子には胸を痛めたに違いない。父の死を受けて、急遽即位した新王ジェームス5世はわずか1歳半だった。
 時の英国は、不在のヘンリー8世の代理として、王妃キャサリンが国務を取り仕切っていた。
 キャサリンはフランシスコ会僧を使節として送り、マーガレットが新王の摂政として親英政策を取るのであれば、スコットランドの独立を認める、と伝えた。
(これで息子の地位も安泰、私もこの国を支配できる。)
 マーガレットに異存はなかった。

 

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  マーガレット(右)と再婚相手アンガス伯アーチボルト・ダグラス(左)
                   作者不詳/個人蔵

 マーガレットは摂政になるやいなや、重大な失敗を犯してしまう。
 夫が亡くなって半年もしないうちに、アンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚してしまったのだ。
 これでは国民や貴族に「夫の生前から関係があったのではな いか?」と疑われても仕方がなかった。
 1515年10月6日、マーガレットは同じ名前の娘・マーガレット・ダグラスを出産した。
 同年、先王ジェームス4世の従兄弟アルバニー公ジョン・スチュワートがフランスから帰国した。
 スコットランド貴族達は「アルバニー公を摂政にせよ」と騒ぎだした。
 怒ったマーガレットは夫と生後半年の娘を連れ、英国の実家へ帰ってしまった。

 摂政の地位を降りたとはいえ、皇太后の権勢は衰えていなかった。マーガレットとダグラス家は、10年以上も国王をエジンバラ城に閉じこめたも同然だった。
 1527年、マーガレットはアーチボルト・ダグラスと離婚した。
 1528年、16歳になったジェームス5世はエジンバラ城を抜け出して独立を宣言、ダグラス家を政界から追放した。
 英国へ亡命したアーチボルト・ダグラスは復讐を誓って、英国王ヘンリー8世に臣従した。
 1532年11月、先制攻撃としてスコットランドがノーサンバーランドを攻撃すると、12月には報復のために英国軍2000人がスコットランドを侵略して、12の村を占拠し、2000頭もの牛と羊を強奪した。
 以来ジェームス5世は29歳で亡くなるまで、英国との戦争に苦しめられることになる。
 
 マーガレットはどうなったか?
 1527年にアーチボルト・ダグラスと離婚した直後、今度は最初の夫の遠縁にあたるメスベン卿ヘンリー・スチュアートと三度目の結婚をした。そして翌年3月3日には、娘ドロシー(早世)を出産している。
 おそらく不倫の末の掠奪結婚であろう。その14年後、1541年10月18日、マーガレットは夫の領地/メスベンで、52歳の波乱の人生を閉じた。

 強国/英国の力をバックにわが子であるジェームス5世を支配し、好き勝手に結婚/離婚を繰り返して、スコットランドを混乱に陥れた女・マーガレット。
 その軽薄な性格は孫のメアリー・スチュアート(ステュアート)に受け継がれた。
 一方、父親とともに英国に亡命したマーガレット・ダグラスはというと、現地で遠縁にあたマチュー・スチュアートと結婚して、ヘンリー・ダーンリーという軽薄な男を産んだ。
 軽薄な男と女はやがて軽薄な結婚をして、英国とスコットランド2つの国を支配したジェームス6世(英国スチュアート朝開祖ジェームス1世)が誕生する。ジェームス1世は絶対王制を目指してピューリタンと議会を敵にまわし、英国史上、ピューリタン革命という、空前絶後の大混乱を招くきっかけとなる。
                 

                    参考資料/
            The Tudor place by Jorge H. Castelli
            Tuder History Lara E. Eakins
            スコットランドの歴史 R・キレーン 彩流社
            薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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エリザベス・オブ・ヨーク(ヘンリー8世の母)Elizabeth of York [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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          エリザベス・オブ・ヨーク/1500年作・作者不詳
          ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
                    
 エリザベスは1466年2月11日、ウェストミンスター宮殿で生まれた。
 再婚の母・エリザベス・ウッドビルにとっては3人目の子、父エドワード4世には隠し妻との間に2人の子がいたので、父にとっても3人目の子という事になる。
 しかし、正式な王と王妃の間に生まれた子としては、エリザベスが最初である。
 エドワード4世は、この隠し妻エリノア・タルボット(またはバトラー)との結婚を公式には隠したまま、王妃エリザベスを迎えたので、純然たる重婚であった。
 その事をエドワードは生前隠し通し、死後になってバースの僧正スティリントンが告白して、初めて公にされた。

 これが後に、重大な結果をもたらす事になる。
 エリザベスは5歳の時、ノーサンバーランド伯ジョン・ネヴィルと婚約していた。
 しかしジョン・ネヴィルの父、ベッドフォード公がランカスター側に寝返ったため婚約は解消となり、次にフランス皇太子との縁組みも考えれたが、これもご破算になった。
 最後に敵側のリッチモンド伯ヘンリー(後のヘンリー7世)との縁談も持ち上がったが、当初ヘンリー側は、ヨーク側に取り込まれる恐れを感じて拒否した。皮肉な話である。

 1483年エドワード4世が亡くなった時、エリザベスの一家は父王がエリノア・タルボットという別の妻がいたことを理由に、「庶子」の烙印を押されてしまう。
 少年王エドワード5世と、ヨーク公リチャードはロンドン塔に監禁され、エリザベスもその後を追っていくはずだったが、直後に2人の王子は行方不明になったという。
 この2人の王子がどうなったのかについては、闇の中である。
 現在では、ヘンリー7世によって抹殺されたとの説もあれば、弟のヨーク公だけが生き残り、トーマス・モアの手で育てられた、との説もある。いずれも明白ではない。

 1483年、リッチモンド伯ヘンリーは、以前エドワード4世在世中には拒否したエリザベスとの縁談を政治的に利用することを考えた。そして同年12月24日、ブルターニュのレンヌ大聖堂で、「私が王位についたら、エリザベス王女を妃に迎える」と宣言した。

 1485年8月、ヘンリーがミルフォードヘブンに上陸した時、エリザベスはヨークシャーに隣接したグロスターで、保安官ハットン卿の保護下にいた。
 8月22日、ボズワースの決戦でリチャード3世が味方の裏切りのために戦死し、ヨーク王朝が断絶すると、エリザベスは否応もなくヘンリーの妃にならざるをえなくなった。
 当初ヘンリーは結婚の約束を遅らせていたが、クリスマス直前、英国下院はヘンリーの王位を認める代わりに、早々にエリザベス王女を妃にするよう要請した。そのため年が明けた1486年1月18日、ローマ法王の認可も下り、ウェストミンスター大聖堂
で結婚の儀が執り行われた。
 これによって、ランカスター側とヨーク側が1つになり、薔薇戦争は終結したのである。

 エリザベスが幸福であったかどうか、簡単には判断できない。
 後世語られているほど、この時代リチャード3世が悪役だったはずもなく、2人の弟の死については、ヘンリー7世自身の手で抹殺されたのではないか、との根強い噂もあったはずである。しかも猜疑心の強いヘンリーは、アイルランドでの反乱に、エリザベス・ウッドビルが関係しているとの咎で、義母をバーマンジーの修道院に幽閉してしまう。

夫妻の間には、アーサー、マーガレット、ヘンリー、メアリーと4人の子が生まれ、一見王家は安泰のように見えた。

 しかし長男で皇太子アーサーは1502年 4月2日、ウェールズで急死した。悲しみの中で、エリザベス王妃は再び身ごもり、1503年2月11日、ロンドン塔の産室で最後の王女キャサリンを出産 し、そのまま亡くなった。
 新生児キャサリンもまた、数ヶ月後には死んだ。

 エリザベスがどのような女性であったか、ほとんど記録に残っていない。
 ただ音楽を愛し、グレートハウンドを飼い、狩りを好んで自らも弓矢をとった、という長身の活発な女性だった、という逸話が残るのみである。
    

                  参考資料/
           The Tudor place by Jorge H. Castelli
           英国王妃物語 森 護 三省堂

 

 


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エリザベス・ウッドヴィル(ヘンリー8世の祖母)Elizabeth Woodville [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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            エリザベス・ウッドビル/作者不詳/
            ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
 
 キャサリン・オブ・ヴァロワが亡くなったその年・・・・
 ヘンリー5世の弟ベッドフォード公の未亡人ジャクリーヌ(またはジャケッタ)もまた、ボディガードの1人だった身分の低い騎士リチャード・ウッドヴィルと密かに通じていた。
 やがて妊娠してしまい、リチャードは高貴な女性を犯した罪で投獄、ジャクリーヌ自身も罰金刑が科せれている。1437年6月6日(または7日)生まれたのが、後に王妃となるエリザベス・ウッドヴィルである。
 
ジャックリーヌとリチャードとの間には、エリザベスの兄アンソニーを含めて、15人もの子供に恵まれている。
 

 父母が美男美女だったせいか、エリザベスは美しかった。
 残された肖像画は、現代人の目から見ても大変な美人である。
 エリザベスは始めヨーク側の貴族と婚約していたが、結局ランカスター側に組みするグレイという騎士と結婚し、トーマスとリチャード2人の男の子をもうけた。
 薔薇戦争が始まるとヨークとランカスターの対立は激しさを増し、グレイはセント・オールバンズの戦いで重傷を負ったところを捕らえられ、なぶり殺しにされてしまった。所領もまた、ヨーク側に没収された。

 勝利したヨーク側から1461年、国王エドワード4世が即位する。
 エドワードはある時ベッドフォード公未亡人ジャクリーヌを訪ねたが、その時母の元に身を寄せていたエリザベスのあまりの美貌に一目惚れしてしまった。そうとも知らないエリザベスは、奪った所領を返して欲しいと訴えた。
 返ってきたのは予想外の答えだった。
「私の愛人になって欲しい」
 相手は亡き夫の仇である。エリザベスは憤慨してこう答えたという。

「私は王妃になるには身分が低すぎますが、愛人になるにはプライドが高すぎます。」
 俗説によれば、エリザベスは狩りの途中にエドワード4世の前に身を投げ出し、没収された所領を返して欲しい、と訴えた、ともいう。

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 20世紀描かれた「エドワード4世の前に出ようとするエリザベス」1999-2000 www.arttoday.com

 その頃若きエドワードにはフランスやスペインから降るような縁談があり、臣下たちが権力拡大を絡めて縁談成立に奔走している最中だった。
 だがエドワードはそれらの動きを無視して、エリザベスに求婚した。
 リスクを負ってまで、自分に恋するエドワードを前に、エリザベスの方も折れた。
 2人は1468年5月1日、母ジャクリーヌだけが見守る中、2人だけで式を挙げた。
 4ヶ月後、正式に王妃になると発表された時、宮廷は大混乱に陥った。
 特にスペインとの縁組みに熱心だった権力者ウオーリック伯の怒りは激しかった。
 しかも悪いことに、エドワードはエリザベスの前夫の息子達や弟を側近に取り立てて、怒りに油を注いでしまった。
 1469年ウオーリック伯は、エドワードのすぐ下の弟ジョージとランカスター側の援助をえて、反旗を翻した。

 エドワードはあっさり負けて捕らえられた。ウオーリック伯も殺すまでは考えておらず、両者は一旦は和解したかに見えた。 しかしランカスター側の逆襲もあって、翌1470年エドワードは、ついに王位を追われてフランスに逃亡した。
 ウオーリック伯は、ランカスター家の皇太子を王位につけることを宣言した。
 その時身重だったエリザベスは、先に生まれていた2人の王子を連れて、ウエストミンスター寺院領に逃れた。
この時、エリザベスを助けて差し入れをしたのは、宮中に出入りしていた肉屋だけだったという。
 
フランスに逃げたエドワードはというと、そこで姉の嫁ぎ先であるブルゴーニュ公の支援を受け、1471年逆襲、ウォーリック伯を戦死させ、ランカスター家の皇太子を処刑した。
 エドワードが王位に返り咲いたとはいいながら、エリザベスの存在はヨーク王家に暗い影を落としていた。 王弟ジョージは反逆罪を理由にロンドン塔に幽閉されて処刑・・・兄を恐れて口には出さないものの、末弟リチャードもまたエリザベスを憎んでいた。
 エリザベスは夫に頼んで、自分の弟を始め、ウッドヴィル一族に大貴族並の爵位を与えたのだ。

 1483年4月、エドワード4世が急死した。
 ついにリチャードの復讐の機会が来たのだ。
 まずエリザベスの弟で、姉のお陰で出世したリヴァーズ伯を急襲して処刑。
 それからエリザベスの生んだ後継者エドワード5世とヨーク公リチャードを捕らえてロンドン塔に幽閉した。
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        ロンドン塔に幽閉されたエドワード5世とヨーク公リチャード
        ポール・ドラロッシュ作/1831年/ルーブル美術館蔵

 
 その後、リチャードは兄エドワードがエリノア・タルボットという女性と先に結婚しており、未だにエリノアが生存しているために、エリザベスが正式の王妃ではなかったと宣言。エリザベスの生んだ12人の子供達の王位継承権を剥奪してしまった。
 それを知ったエリザベスは、復讐を決意する。
 彼女はランカスター側のヘンリー・チューダー(ヘンリー7世)が、娘のエリザベス王女に結婚を申し込んできたのをチャンスだと思った。

 敵側に寝返ったのだ。いや・・それは裏切りとは呼べないかも知れない。
 もともとエリザベスはランカスター側の妻ではなかったのか。
 ボズワースの戦いでヨーク家の王リチャード3世が戦死し、ヨーク王朝が滅びたのを知ったとき、エリザベスは呟いただろう。
「これでよかったのだ・・」と。
 1492年6月7日、おりしも55歳の誕生日の日に、エリザベスは亡くなった。
 皮肉なことに、ヘンリー7世によって叛逆の疑いをかけられ、マーバンジー修道院に幽閉されている最中のことだった。

                 参考資料/
        Womens History By PRIMEDIA Company
        英国王妃物語 森 護著 三省堂選書

 

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キャサリン・オブ・フランス(ヘンリー8世の曾祖母)Catharin Varois of France [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

               
 

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          キャサリン・オブ・フランス/1792年/作者不詳/
          ナショナルポートレートギャラリー

 15世紀はじめのフランスは、事実上2つの国に別れていた。
 1つはブルゴーニュ公国。もう一つは、いわゆる「ヴァロワ朝フランス王国」
 どちらもフランス全土の覇権をもくろんで、英国を味方につけようと躍起になっていた。
 「我が方に援軍を送れば、ブルゴーニュ公の娘をあなたの王妃に・・」
 「我が方に味方すれば、フランス王女をあなたの王妃に・・」

 かつてイギリスの物だったアキテーヌ領の回復と王室乗っ取りのために、英国王ヘンリー5世は、フランス王女を妻に迎えることにした。
 「よかろう、フランス王室に味方する。ただし・・・」
 ヘンリー5世はとんでもないことを言い出した。

「1,アキテーヌのみならず、かつて英国が所有していた全領土を
   こちらに引き渡せ。
 2,皇太子シャルル(後のシャルル七世)を廃位せよ。
 3,フランス王位をよこせ。」

 こんな要求を飲んでいたら、英国を味方に付ける意味がない。
 両者の交渉は決裂・・・・・アジャンクールの地で闘い、フランス側は大敗した。
 

「仕方がない・・・。」
 フランス側は一部領地の明け渡しと、持参金の上乗せに応じて、王女を嫁がせることに決めた。
 王女の名をカトリーヌ(英国名キャサリン)。父は強度の分裂症で有名なシャルル6世、母は同じく悪女で有名な美貌のイザボー王妃だった。
 カトリーヌは性格は母に似ず、美貌だけ母から受け継いだ。
 流れるように繊細なブロンド、澄んだ青い瞳・・・英国側はその美しさ故に「キャサリン・ザ・フェア(麗人キャサリン)」と呼んだ。
(ちなみに、この時イザボー王妃に廃位を要求されたシャルルを助けて王位につけたのが、あのジャンヌ・ダルクである)
 イザボーは残された彫刻から、ジョディ・フォスター似の美女だったが、宮中の生活費を使い込んだ上に、敵国ブルゴーニュに味方して、長男シャルルを引きずり下ろそうとするような王妃だった。

 生活に窮した王女は、修道院に里子に出されるほどだった。

 1420年6月、キャサリンはトロワの聖ジャン教会でヘンリー5世と結ばれる。
 その翌年には帰国し、1421年2月11日、改めてウェストミンスター寺院で王妃の戴冠式を行った。
 ヘンリー5世は敵国の娘とはいいながら、そのあまりの美しさに本気で愛するようになった。
 が、その2年後には、ヘンリーは愛する妻と6ヶ月の息子を残して亡くなった。
 キャサリンはまだ20歳の若さだった。
 こういう場合、王女は本国に帰るのが習わしだったが、何しろ新王が生後6ヶ月の赤ん坊である。
 この「国王」が最初に出した勅令というのが、
「乳母のアリスがおむつを変えて、躾のためにお尻を叩くことを許す」
だった。(もちろん本人の意思ではない)
 仕方なくキャサリンは英国に留まった。1428年、議会は無情にも、キャサリンが許可なく再婚することを禁じ、軟禁状態に置いてしまった。

 敵国に独りぼっち・・・キャサリンは心細かったのだろう。
 そんな時、思いがけないところから、王妃を熱烈に愛する男が現れた。
 名をオーウェン。元はウェールズ王家に仕えた宰相の家柄であったが、反乱に連座した咎で捕らえられ、英国で仕える身であった。ウェールズの習慣として、名字を持ち合わせていなかった。今は王妃の衣装を管理する、従僕であった。
 キャサリンは彼の優しさに惹かれ、身分の差など忘れた。
 1人の人間として尊敬し、愛をおぼえた。
 だが、軟禁状態である。キャサリンは体の具合が悪いから、別荘に行って療養したいと言い出した。
 2人は密かにロンドン北部の地味な城で結婚し、2人の間には、トーマス、エドマンド、ジャスパー、タシンダ、マーガレットの5子が生まれた。

 やがて秘密は暴露されてしまった。
 
怒った議会は2人を引き離し、キャサリンをバーマンジー修道院に幽閉した。
 オーウェンはモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター側として戦い、捕らえられた。
 彼は執行猶予を期待していたがかなわず、死刑執行人の手で上着をはぎ取られるまで、己の死を信じられなかった、という。

 最後に、
「かつては王妃の膝にあったこの頭が、今は死刑執行人の籠の中か・・。」
と呟いた、と伝えられている。1461年、2月4日の事だった。

 一方キャサリンはその20年以上も前に、幽閉されたまま、1437年1月3日、38歳の短い生涯を敵国で終えた。

 その遺体は息子のヘンリー6世王の命でウエストミンスター寺院に葬られるはずだったが、人前に270年間も放置されたままだった。

 それから200余年後の1669年、日記作家サミュエル・ピープスがウェストミンスターを尋ねたおりの事を、こう書き記している。
「聖堂の番人に1シリングを喜捨、王妃キャサリンの上体を抱き、彼女の口にキス。思うに女王にキスしたのは、これが初めて」

     
                参考資料/
          The Tudor place by Jorge H. Castelli
           英国王妃物語 森 護著 三省堂選書


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