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WINDSOR CASTLE/ウィンザー城 [ロンドン歴史お散歩]

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「さあさあ、おはじめ、妖精たち、ウィンザーの内外をくまなく探して清らかな部屋には幸運をお撒きなさい」(「ウィンザーの陽気な女房たち」第5幕第5場)

 ウィンザー城は、文句なく英国随一の名城だろう。
 何と言っても、現在の王家が「ウィンザー」と名乗っているぐらいなのだから。

 ウィンザーという場所は、もとは湿地が多かった平野を悠然と流れてきたテムズ河が突如として100フィート(1フィート=305ミリ)もの丘陵にぶつかって、大きく迂回する地点であった。
   

 ここに最初に目をつけたのは、英国を征服したノルマンディー系フランス人/ウィリアム征服王だった。ウィリアム王は自分が侵略者という自覚と警戒心を忘れなかった。
「英国人どもが朕(わたし)の隙を狙っておる。ここに要塞を築かねばならない」
 まず丘陵のトップに築山を築いて、武器庫や物見櫓を建て、周囲に木製の柵をめぐらした。 その守りの厳重さたるや、戦国大名の城を思わせる征服者の要塞だった。
 天守閣のラウンド・タワーを支える築山は高さ50フィート、万が一包囲された場合に備えての、最後の拠点たる風格と準備を備えていた。

 ウィリアム征服王が築城した当時、まだ木造の城であった。
 それが石造りの城に改造されたのは、プランタジュネット王朝に入って後のことだ。
 徐々に木造部分が石に置き換えられ、構造もまた王のプライベート住居の「上郭(Upper Ward上屋敷)と家臣たちが出入りする「下郭(Lower Ward)下屋敷」とに分割された。
 これは現在のウィンザー城の構造に受け継がれている。

 この城に、1475年、英国の守護聖人である聖ジョージに捧げる壮麗
な礼拝堂を建造しようと思いたったのは、ヨーク王朝のエドワード4世だった。
 残念ながら、エドワード4世の生存中には完成せず、建設は次代のチューダー王朝に持ち越された。

 チューダー王朝に入り、城の建造を続行した初代王ヘンリー7世がここに葬られるはずだったが、本人がウェストミンスター大聖堂への埋葬を希望したために工事は遅延し、結局完成したのは1528年、次男のヘンリー8世の時代になってからだった。建築が終わらないうちに葬られたのはヘンリー6世(1471年死亡、1484年改葬)に続いてヘンリー8世の祖父のエドワード4世(1483年埋葬)と、祖母のエリザベス・ウッドヴィル王妃(1492年埋葬)だった。
 そのため、ヘンリー8世自らもそこで永久(とわ)の眠りにつくことを希望した。
 直接の原因は、1537年11月12日、王子を出産したばかりの愛妻ジェーン・シーモアを葬っていたからだった。ジェーンを「鳳凰」と呼んで、その死を嘆く墓碑銘は、今でも見ることができる。ジェーンは、ヘンリー8世が6人いた妻の中で、最も愛した穏やかで聡明な王妃だった

 ヘンリー8世の次女・エリザベス1世もまた、この城が気に入っていた。
 父が作った木造テラスを頑丈な石造りに改築し、そこで1人黙考することを好んだ、という。
 シェークスピアはエリザベスのためにここを舞台にした戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を執筆し、1597年、ガーター勲章の授与式が行われた時、余興として上演された。
 エリザベスはテラスからの眺め、テムズの向こうに広がる丘陵とバッキンガムシャーの美景を愛し、テラスのみならず、テラスを見下ろす部屋(クィーン・エリザベス・ギャラリー)まで建造した。

 スチュアート王朝に入ると、革命で処刑されたチャールス1世の遺体が、わずかな臣下の手によって、ひっそり聖ジョージ礼拝堂に葬られている。
 その息子チャールス2世によって王制が復古すると、彼は従兄弟のルイ14世のベルサイユ宮殿を意識して、1675年から8年の歳月をかけて、ベルサイユ風のバロック建築に大改造した。

 その後断絶したスチュアート王朝の後を継いだハノーヴァー王朝の諸王が、いかにこの城を愛して改築を加えたか、枚挙の暇がない。
 ただビクトリア女王が大変ウィンザーを愛し、その伝統が現在のエリザベス2世にまで引き継がれている、と書くのみである。                                    

 (ヨーク〜チューダー〜王朝スチュアート王朝〜ハノーバー王朝)

 ヨーク王朝エドワード4世====エリザベス・ウッドヴィル王妃
                   |  
ヘンリー7世============ヨークのエリザベス王女
           |     |
       ヘンリー8世  マーガレット
           |     |
       エリザベス1世 ジェームス5世
                 |
         メアリー・スチュアート女王
                 |
            英国王ジェームス1世
              |      |
           エリザベス   チャールス1世
              |      |
           ゾフィー    ジェームス2世
              |
         ハノーバー王朝ジョージ1世
              |
            (数世代はさんで)
                   ビクトリア女王

参考資料/

Tuder History Lara E. Eakins
女王エリザベス(上下)ヒバート 原書房
A Brief History and Burial Information of The Queen's Free
 Chapel of St George in Windsor Castle (commonly known as
St George's Chapel) Yvonne Demoskoff
テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 


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英国の下院議会が面白い!\(^O^)/ [ロンドン歴史お散歩]

面白いんです、英国下院議会。

まず議場。見たことある人も多いだろうけど、議長のいる席とテーブルを挟んで、左右に
向き合って段状の席が並んでいます。向かって左が与党、右が野党、といった具合に分か
れて座ります。
現在議員650名に対して、席は430名分しかありません。そのため、多くの議員が席の後
ろや入り口に立って参加しています。とっても密な状態です。

議会だから、ヤジが飛び交いますよね。日本の国会でも議長を囲んで押し合いになった
り、台湾議会だと殴り合いに跳び蹴りまであったりします。
しかし、ここは700年以上歴史のある、由緒正しき英国議会。
大激論の中でも、いろんなルールがあります。
①勝手に討論してはいけません。
まず最初に議長(ミスター・スピーカー)に発言を求める形で話し始めます。
②相手の名前を呼んではいけません。
お互い指差して非難し合っても「××さん」「○○くん」はダメ。「首相」
「幹事長」といった役職、「××選挙区で選出された議員」または「名誉ある
紳士」「名誉ある淑女」と呼び合います。議長だけは指名する都合上、「××
さんの発言を許します」と名前を呼んでいます。
③議場に甲冑や剣を持ち込んではいけない。
剣を振り回しても当たらないように、与党席と野党席の間は3メートル空いています。

時には殺し合いになるほどの議会、何かの問題が協議される都度ケンケンガクガク、
それを鎮めて話し合いをまとめるのが議長の任務で、その才覚を問われることになり
ます。ここ10年は、保守党出身のバーコウ議長が活躍してきました。
議論が白熱してきて大騒ぎになると、バーコウ議長は、
「オーダー!オーダー!(静粛に、静粛に)」
と大声を上げるわけですが、だんだん叫ぶだけでは収まりがつかなくなり、
「オオオ〜ダアアア〜オオオオオオ〜ダ〜アー」と節をつけているのが微笑ましかった(?)です。彼は在任中1万回以上も「オーダー!」を繰り返したそうです(2019年11月引退)

さて、新しい議長が選出されると、またもや珍妙な儀式が行われます。
新議長を議員が取り囲み、腕をつかんで引きずるようにして議長席に案内します。
なんでかというと、歴史的に議長は議会の代表者として、時の国王と対決する立場に
あったからです。
17世紀のピューリタン革命時には、こんなエピソードが残っています。

逆らう議員達を逮捕しにきたチャールス1世王が「議員達はどこだ!」と詰問すると、
残っていた議長はうやうやしく「陛下、その質問は議会の承認が出ましたなら、喜んで
お答えいたしましょう」と言ったそうです。
国王に憎まれて、政治闘争に巻き込まれ、処刑された議長の数は7人。
「そんな損な役は嫌だ!」と拒否する議員が多かった故事にちなんで、今でも「無理矢理
引きずるようにして」議長席に連行するのが慣わしです。


上段の画像は「引っ立てられる」新議長ホイルさん

下段は下院議場

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歴史を感じますね!


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ロンドン塔〜暗き塔の物語〜 [ロンドン歴史お散歩]

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 私が地下鉄タワー・グリーン駅を出てみると、『それ』は見えた。
 ケント産の石灰岩で覆われた灰色の、頑丈な外壁。窓はほとんどなく、東西南北に一つづつそびえ立つ塔の屋上には、ユニオン・ジャックの旗が翻っている。かつてはテームズ川の水を湛えていただろう外堀も、今は一面草で覆われ、近くの住人が犬を散歩させていた。

 タワー・オブ・ロンドン。この英国を象徴する建物群は、不思議な存在でもあった。11世紀、要塞として建てられながら、王や女王の戴冠前に滞在する宮殿であり、時にはヘンリー7世の妻エリザベス・オブ・ヨークが出産場所にしたように王妃の産室として使われたかと思うと、高貴な罪人を閉じこめるための監獄でもあった。
 戴冠式のパレードはロンドン塔から始まるが、裏側には、皆が恐れた『反逆者の門』があった。水路を船で下ってきた罪人は、ここからロンドン塔内に入った。生と死、栄光と敗北が共存する場所だった。

もともとロンドン塔は、英国を占領したノルマン人の王ウィリアム1世が、現地人を威圧するために作った要塞であった。
 まず最初に核として作られたのが、ホワイト・タワーだった。1241年、塔は、白漆喰で塗られていたが、今ではすべてはげ落ちている。ただ『ホワイト・タワー』という名前のみに、かつて白かった事実を残しているのみである。
塔は白かったが、外壁はローマ風の赤煉瓦で覆われていた。その赤い壁が落日に照らされる有様は、『野獣の血で練った漆喰で固めたかのよう』だったと伝えられている。

 ウィリアム1世の時代から遡ること、約1100年前、この地はローマ帝国の植民地ブリタニアの中心都市・ロンディニウムだった。その語源は現地ケルト語のLondo(荒れ果てた地)である。ロンドンの名称も、そこから来ている。
 当時街は厚さ2・4メートル、高さ6メートル、長さ4・8キロメートルの城壁で囲まれていた。市の東南部、テームズ川にかかる橋を見下ろす場所には、川を監視するための3つの砦が立っていた。ジュリアス・シーザーは、特に東側の砦を好んだという。しかしAD61年、イケニ族の女王ブーディカ率いるケルト反乱軍が襲撃、砦内のローマ人をことごとく惨殺し、砦は跡形もなく焼け落ちてしまった。

 時を経ても、その場所が軍事的に重要な地点であることに変わりはなかった。ウィリアム1世が目をつけたのも、ロンドン市とテームズ川を監視するには相応しい場所だったせいである。
 ウィリアム1世は、英国支配のために全国に要塞を作った。テームズ川の畔にも、支流のフリート川との合流地点に建てられたモンフィシェとベイナードの2城があったが、いずれも木造の簡単な作りであり、都市を制圧するためのより頑丈な要塞が求められていた。

 第一期工事は1078年に終わったが、1091年、暴風雨のため損壊したので、さらに修理拡張された。工事はウィリアム1世、ウィリアム2世、ヘンリー1世の三代に渡って続いた。後にプランタジュネット王朝に入り、関門、防壁、櫓などが付け足された。 
 ここが要塞と同時に宮殿として使われるようになったのは、スティーブン王の時代だった。1140年、スティーブンはここで盛大にハロウィンを祝ったという。

 12世紀まで、ロンドン塔を取り囲む人家のほとんどは木造であった。1189年、耐火のために、家は石造り、屋根は瓦葺きで作るよう命令が出されているが、安価なためか、17世紀に入るまで、木造家屋が主流だった。

 ロンドン塔からやや上流にあるロンドン橋もまた、最初は木造であった。石造りの本格的な大橋が完成したのは、1209年のことである。この他、1135年、木造だったために焼け落ちたセント・ポール寺院もまた、石造りとなって再建されている。

 中世のロンドン塔は、石ばかりの殺風景ではなかったらしい。今はがらんとして見える中庭には、馬小屋が並び、テントが張られ、塔で働く従僕達のための小屋も建ち並んでいた。外からは魚屋や肉屋、パン屋などが商品を納めるために出入りした。また野菜や薬草などを栽培する畑もあった。渡り廊下には風よけのための極彩色のカーテンもつり下げられていた。
 ロンドン塔を出て、ローマ時代の城壁を出てしまうと、人家は途絶えてしまう。ロンドンが城壁の外にまで拡張していくのは16世紀以降のことだった。
                 
 ロンドン塔の入口に立つと、タワー・ブリッジが間近に見える。この橋の起源はAD1世紀、ローマのクラウディウス帝により作られた。それから約1000年後1014年、ウェセックス王国のエゼルレッド王が、バイキングとの戦いの最中、敵の進路を断つために、この橋を落とした。『ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた』という有名な童謡は、この時の戦闘を歌ったものと言われている。やがてバイキングの撤退により、橋はまた再建されるが、1212年、川のパレードを見に押し掛けた群衆を乗せたまま、橋の両側で火事が起きた。

 逃げ場を失った人々が右往左往しているうちに、木造の橋は焼け落ちた。水に落ちた人々が救援の船に殺到したため、次々と船が転覆し、3000人もの死傷者が出た。これを教訓にして、橋は木製ではなく、石造で再建されたのだった。

 ロンドン橋の南側は、ロンドン塔の入口に通じている。『反逆者の門(トレーターズ・ゲート)』という。かつては反逆者の門に面する橋の入口には門があり、その屋上には、ロンドン塔内で処刑された罪人の首が何十個も晒されていた。生首は保存のためにコールタールを塗られた後、槍の先に刺して放置された。

 ロンドン塔が高貴な人の監獄として使われたのは、1100年スコットランド王フランバードが最初であった。その後も何人かのスコットランド王が囚われ、100年戦争が始まると、フランス王やオルレアン公などが監禁
されたという。また、王位を剥奪された元の国王・・リチャード2世や、エドワード5世もここに閉じこめられた後、暗殺されている。
 しかしこの塔で一気に処刑者が増えるのは、ヘンリー8世の時代だろう。1535年にはトーマス・モア、1536年には第2王妃アン・ブーリン、1540年には王の寵臣クロムウェル、その翌年にはソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットに第5王妃キャサリン・ハワードといった具合で、毎年のように処刑が行われた。
 王妃は戴冠式の前に、クイーンズ・ハウスという塔内の館に滞在するが、処刑を待つ間も同じクイーンズ・ハウスに監禁されていた。その正面は処刑場のタワー・グリーン、その向かいが遺体を葬るための聖ピーター・アドビンキュラ教会である。教会の内部は、プロテスタントだけあって、実に質素で飾り気がない。

 処刑された者のうち、もっとも悲惨だったのは、ソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットだった。マーガレットは前王朝ヨーク家の生き残りで、エドワード4世の姪にあたる。(王弟クラレンス公ジョージの娘)
ヘンリー8世は、ある日突然伯爵夫人を処刑する
よう命じた。驚愕した伯爵夫人は処刑台の上で執行人を突き飛ばし、飛び下りて脱出しようとした。しかし捕らえられ、暴れ回るのを、めった斬りにされて殺されたという。

 20世紀に入ってもなお、ここでの処刑は続けられた。1914年、第一次大戦中、ドイツ側のスパイとして、ロディという人物が銃殺された。第二次大戦中にはナチス・ドイツの宣伝大臣ルドルフ・ヘスが監禁されている。

 またロンドン塔は、なぜかロンドンの最初の動物園でもあった。象、ライオン、ヒョウ、北極熊などがいた。北極熊は長いチェーンがつけられていて、テームズ川から魚をとることもできたらしい。
 16世紀から17世紀にかけて、『熊いじめ』という野蛮な見せ物が流行した。熊に猟犬やライオンをけしかけて、戦わせるというものだった。ジェームス1世は特にそれを好み、ロンドン塔内で熊とライオンを戦わせては、喜んでいた。

 ロンドン塔の地下では、トンネルで『タイガータバーン』というパブと繋がっているという。そのパブには、昔から猫のミイラが保存されている。伝説によれば、その猫は、即位前のエリザベス1世が塔内に監禁されている時、イライラして壁に叩きつけて殺してしまった猫だという。いくら何でもひどい話だと思う。

 かつては外壁を取り囲んでいた幅30メートルの壕は、1843年、ヴィクトリア女王の命令で水を抜かれ、牡蠣の殻を使って5メートルもの厚さに埋め立てられている。今はすっかり緑地と化した元壕跡の前に立つと、近所のおじさんと犬が走り回っている情景が見えた。

 

                参考資料/
          ランドマーク世界史/ロンドン塔 講談社
          テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社
          ロンドン~ある都市の伝記~ヒバート著 朝日新聞社

 


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