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9日間の女王/ジェーン・グレイ②(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]


        
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19世紀の画家ウィリアム・ホーンの描いたジェーン・グレイ

「それ」はジェーンにとって寝耳に水だった。
 1553年5月、グレイ夫妻は娘を呼びつけ、いきなりノーサンバーランド公の息子/
ギルフォード・ダッドリーとの婚約を告げた。
「私、ハットフォード伯が好きだったのに・・」
 ジェーンは弱々しく抵抗した。
「だいじょうぶ、今までの生活は変わらないわ。勉強だって続けていいのよ。」
 母親はそういって説き伏せた。

 世間知らずのジェーンがろくな抵抗もできないうちに、縁談は瞬く間に決まった。
 3週間後(諸説あり)5月21日、ノーサンバーランドの館、テームズ川岸のダー
ラム・ハウスで結婚式が行われた。

 その日、3姉妹は合同結婚式をあげた。次女キャサリンはヘイスティングス卿と。
(翌年離婚)三女メアリーは従兄弟のアーサー・グレイと(翌年離婚)
 花嫁衣装は、王室のものを使用した。ジェーンは、緑のベルベットのドレスに金欄の
マントを身にまとい、美しかった。新郎ギルフォードは、少年王の騎馬試合に出場する
ために、式の直後に宮中へ行ってしまった。ジェーンは両親が自分をダーラム・ハウス
に残して帰ろうとするので、驚いた。
 「ブレイドゲートに帰ってはいけないの?」
 「何ですって!!」
 姑のノーサンバーランド公妃は、激怒して叱ったという。
 ジェーンは亀の子のように首を縮めて、うなだれた。

 少年王エドワードは元々虚弱な上に、持病の結核が重くなり、日に日に衰弱してい
った。
ノーサンバーランドは、瀕死の少年王に詰めより、異母姉のメアリーから王位継
承権を剥
奪するように説得した。

「カトリック教徒のメアリーが即位したら、かならず新教徒が迫害されます。」
 御前会議で、王位は二人の異母姉ではなく、「フランシス・グレイの子供達」即ち
ジェーンら3姉妹に順番に譲られることが決まった。

 1553年7月6日、少年王は崩御した。二人の貴族がジェーンの前にひざまづき、王
の崩御と、王位継承を告げた。ジェーンはただただ赤面して俯いていた。
 グレイ夫妻は「女王になったのよ、認めなさい」と励ました。
 大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが王冠を差し出すと、ジェーンは狼狽して震えな
がら泣き出した。
「私は・・・私は女王なんかじゃありません。王冠は受け取れません。」
 王の死後4日目には、戴冠式のためにロンドン塔へ移った。群衆に姿を見せるため
に、小柄なジェーンはチョビン(靴の下につける上げ底)をつけて水門から塔内に入
った。チューダー家の印である緑と白のドレスをまとっていた。
 しかし群衆は、困惑するばかりで、歓声をあげる者いなかったという。
 一方王位継承権を剥奪されたメアリー王女は、身の危険を感じてノーフォーク州へ
と逃れた。エリザベス王女は、情勢を静観する構えで、沈黙していた。

 ロンドン塔内のホワイトタワーに入ったジェーンは、夫のギルフォードから、自分を
王にしてくれ、と頼まれたが、頬を赤くして困惑するばかりだった。
「私、女王でないのに、そんな事無理です。かわりにクラレンス公ではダメかしら」
 息子が王になれないと知って、姑ノーサンバーランド公妃は怒り出した。

 同じ頃議会は反ノーサンバーランドで意見が一致した。かれらはジェーンの王位を
否定しメアリー王女こそ正当な女王だと発表した。その知らせに、ジェーンの母フラン
シスとノーサンバーランド公妃は口惜しさにすすり泣いた。
 それから数日間、すなわち7月11~13日の間、ジェーンはストレスのために寝込んで
いたらしく、巷には「姑に毒殺された?」という噂が流れた。

 7月14日、いよいよ反撃のためにメアリー王女が挙兵したとのニュースが流れると、
興奮した群衆が、メアリー支持を叫んでロンドン塔に殺到した。
 ジェーンは塔の入り口を閉めさせて、中に閉じこもった。

 4日後、ついに敗北を悟ったジェーンの父/ヘンリー・グレイは、娘に王位を放棄す
るように手紙を送りつけてきた。ヘンリー・グレイがロンドン塔へ来てみると、ジェ
ーンは一人玉座に座っていた。
「もうおまえは、そこには座れなくなった。こっちへおいで」
「お父様!もう私は家に帰ってもいいんですね!」
 ジェーンは嬉し泣きとも悲しみともつかない涙を流しながら、父親に抱きついた。
 しかし7月20日、ジェーンは女王の滞在するホワイト.タワーから、一転して囚人
として、別の塔へ監禁された。

 そこに残酷にも、王冠を差し出したと同じ大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが現れ、
王冠の返還、ならびに無くした宝石を弁償するように迫った。
 ジェーンは王冠とともに、自分の金貨をすべて渡したという。

 ノーサンバーランド公も反逆者として、ロンドン塔に投獄された。彼はメアリー女王
に助命すべく、新教徒からカトリック信者になると申し出たが、メアリー女王の怒りは
治まらなかった。結局努力は無駄に終わり、8月23日、処刑された。

 ジェーンは女王の使者に向かって語った。
「許して下さいね。ノーサンバーランド公は悲しい災難と悲劇を運んできました。
 でも彼の改心によって他の人が救われたと期待したいのです・・・・」
 メアリー女王がジェーンを憎んでいたとは思えない。何しろグレイ家は、自分に
も同じ名前を与えてくれた最愛の叔母の家族なのだ。叔母はメアリー女王の母/
キャサリン・オブ・アラゴン王妃の親友でもあった。
 国王から離婚を告げられた時も、必死で庇ってくれた。感謝の気持ちはあっても、
憎む気にはなれなかったにちがいない。もし何事も起こらなければ、ジェーンは故
郷ブレイドゲートにもどり、また静かに勉学の日々を送れたかもしれない。

 もし何事もなければ。
           
               (つづく)


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9日間の女王/ジェーン・グレイ①(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]

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         ジェーン・グレイ/作者不詳/1555~1560 
           ナショナル・ポートレートギャラリー蔵   
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 ブレイドゲート(Bradgate)・・・ロンドンの東、レスターから約8キロ、
小高い丘から谷へと傾斜していくあたりに、グレイ家の所有する館があった。
 
赤いレンガ作りのチューダー王朝風の館は、1537年当時は、まだ新築7年目
であった。
周囲は楡やブナの林で囲まれ、館へと続く丘の斜面には、一面ヒース
が風によいでいた。
テラス式の庭園には、ヨーロッパグミの木や薔薇が茂り、睡蓮
の浮かぶ池には金魚が泳いでいた。
その池で、幼いジェーンはあやうく溺れかけたという。


 グレイ家には3人の娘がいた。
 長女ジェーン(1537年生)次女キャサリン(1540生)三女メアリー(1545生)。
 父はドーセット候(後にサフォーク公)ヘンリー・グレイ。
 母は国王ヘンリー8世の妹メアリーの娘/サフォーク公女フランシスだった。
 1551年、フランシスの実家を継いでいた異母兄が亡くなったため、サフォーク公家
の爵位は、ヘンリー・グレイのものとなった(女性が爵位継承権を持っていた
場合、本人ではなく、夫か息子が爵位を継いだ)このグレイ家、先祖を辿れば、
エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルが、前夫との間にもうけた息子であった。 
 エリザベスの、2度目の結婚=英国王妃となってからで生まれたのが、今の国王
ヘンリー8世の母親エリザベス王女である。
 3姉妹の父母、どちらの系統を辿っても王室とは、深いつながりがあった。
 
女のメアリーは、生まれながら背骨が曲がっている障害があったが、上の二人の
娘は健康だった。

 ジェーンは、英国人にしては小柄で、白い肌には淡いソバカスがあった。
 ジェーンの幼年時代は、ヘンリー8世の娘たちより、ずっと王女らしかったといってもよい。
 何よりも、誰におびやかされることなく、父母の愛に包まれて成長したことは、
女王エリザベスより遥かに恵まれていた。だがその反面、あまりに恵まれた環境が、
ジェーンを現実離れした夢見がちな優等生へと変えていった。

 読み書きなどの教育は、3、4歳の頃から始まっていた。早朝6時のお祈りを済
ませ、パンとエール、肉などの朝食をとった後、夕食までギリシャ語とラテン語の
授業があった。
 夕食が済むと、音楽や読書、ダンスにお裁縫、そして9時には就寝。週に一度は
ハンティングに行くか、近郊の町レスタ-まで出かけて行ったという。

 平和で単調な日々が流れて行った。ジェーンは6歳で聖書を読めるようになり、
7歳でフランス語、イタリア語など4ヶ国語の授業が始まっていた。

 考えてみれば、授業はほとんど語学のみ、後はせいぜい宗教哲学か歴史、体育
(ダンス、乗馬)ぐらいである。単語は違えども、文法的には大した違いも無い。
 語学が達者になるのは道理であった。
 というか、混血社会であるヨーロッパでは、上流階級は必然的にバイリンガル
であった。(もっともフランス王室は18世紀まで、頑ななまでに英語を拒んでいた)

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 1545年、ヘンリー8世が死ぬと、ジェーンと同い年の少年王エドワード6世が即位した。

 

 翌年グレイ夫妻は、宮廷デビューのために、ジェーンをヘンリー8世の第6王妃だ
ったキャサリン・パーの元へ預けた。というのも、キャサリンの再婚相手のトーマス・
シーモアがグレイ家に2000ポンドを支払って、面倒を見させて欲しい、と頼み込んだ
ためである。トーマス・シーモアは少年王の叔父でもあった。グレイ夫妻にとっては、
願ってもない申し出だった。

 
 このトーマスなる男、同時にエリザベス王女(後の女王)も引き取っていたが、孤児
同然という環境につけこんで、手を出したという。エリザベスは、トーマスに抱かれて
いるところを見つかったために、館を追い出されるはめになった。
 ジェーンの場合は両親が健在だったために、さすがに手を出すことはできなかった
が、巧みにグレイ夫妻の耳に、ジェーンと少年王との結婚の可能性を囁いた。
「私には、陛下がジェーン姫以外の方とは結婚なさらない、と保証する勇気がありますよ。」

 1548年8月、トーマス・シーモアと再婚したキャサリン・パー(ヘンリー8世6番目
の王妃)が出産のために死ぬと、なぜかジェーン・グレイが喪主を務めたという。
トーマスは兄サマーセット公との権力闘争に夢中で、妻のことなど頭になかったらしい。

 だが、半年後の1549年3月、兄の手で処刑されてしまった。
 ジェーンは、再び実家のブレイドゲートに戻って来た。
 エリザベスはサマーセット公に憎まれ、しつこくトーマスとの中を詮索されたが、
ジェーンは無事だった。
 ジェーンはよく勉強した。実際、エリザベスの教師だったロジャー・アスカムが絶
句するほど優等生だった。

 だが、その知識には大きな偏りがあった。ジェーンは大切に育てられ過ぎたために、
人間そのものを学ぶ機会がなかった。いかに人の心を読むか、いかに危機に際して対処
するか、現実的な方法を知らな過ぎた。天使のように理想世界をふわふわ漂うだけで、
ふと気付いた時には、陰謀の泥沼に足首を取られていた。にっちもさっちもいかなく
なって、ただ泣くばかりだった。
 エリザベスのように、歯を食いしばって生き残る道を模索するような、強さはなかった。
 もっとも、エリザベスのように弱肉強食に馴れた人間が良いのか悪いのかは、判別
できないが…


                 (つづく)

 


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