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「エリザベス」はどこからきたの?/名前の由来について [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 日本人にとって、名前は名前以上の神秘的な存在であった。
 本名とは、本人といえども滅多に口にしなかった。ましてや他人に本名を尋ねるという行為は、大変重要な意味を帯びていた。男性が未婚の女性に名前を聞くことは、即プロポーズの意味があった。
 下って平安朝、本名は正式に官職を任命した時だけ、台帳に記されるものだった。
 普段はあだ名や役職名、住んでいる場所や立場などで呼ばれた。
 

 ヨーロッパではどうだったろうか。カトリック諸国、例えばスペインやフランスでは、洗礼の際に聖人の名をつける事が多い。例えば、マリー・アントワネット(マリア・アントニア)やルイ・アントワーヌ・サン・ジュストの場合、アントワネットもアントワーヌも、聖書外伝である「黄金伝説」に出てくる聖者アントニウスにちなんだ名前である。
 フェリペ2世とフランス王女イザベラとの間に生まれた第1王女イザベラ・クララ・エウフェミニアは、「イザベラ」は実母の名から、クララもエウフェミニアも、ともに聖女の名であった。
 メアリーが聖母マリア、エリザベスが聖母の従姉妹エリザベツ、アンが聖母の母アンナなど、新約聖書のメジャーな人物にあやかった名前である。

 英国ではどうだったか。英国名は、肉親や恩人の名にちなむことが多く、聖人に由来することは少ない。とえばヘンリー7世第2王女メアリーの長女は、「フランシス」である。これはメアリーの再婚に反対したヘンリー8世を説得したフランス王フランソワ1世に感謝を込めた命名だった。ヘンリー8世の第1王女メアリー(後の女王メアリー1世)の名も、叔母メアリー王女から貰った名であった。

 また、ヘンリー8世側室メアリー・ブーリンの名も、同じメアリー王女にちなんだものだった。メアリー王女の姉、マーガレット王女は、父方の祖母マーガレット・ボーフォートから来た名前だった。

 ではエリザベスはどこから来たのだろうか。
 最初の「エリザベス」は、エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルである。
 彼女の母の名はジャクリーヌ(ジャケッタ)なので、おそらく 聖女エリザベス から貰った名である。その娘/エリザベス・オブ・ヨーク(ヘンリー7世王妃)の名は明らかに実母にちなんだ命名である。
 女王エリザベス1世の名は、祖母のエリザベス・オブ・ヨークと、曾祖母エリザベス・ウッドビルにちなんで付けられた名であった。
 また、生まれてすぐに亡くなったヘンリー7世末子のキャサリンは、スペインから嫁いできていた皇太子妃キャサリン・オブ・アラゴンにちなんでいる。
 キャサリンの由来は、アレキサンドリアの聖カテリーナである。

       「名前の由来となったキリスト教の聖女たち」

          聖カタリナ(伊/カテリーナ、仏/カトリーヌ、英/キャサリン)
カタリナはローマ帝国時代、エジプトのアレクサンドリアで殉教した聖女で、聖母子の幻想を見て、赤ん坊のキリストから指輪を与えられ「神秘の結婚」をした、という伝説がある。画面向かって左、左手を出して赤ん坊キリストから指輪をはめてもらっているのがカタリナ。
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    (聖ヨハネの祭壇画の一部「聖カタリナの神秘の結婚」ハンス・メムリンク作
     1479?〜1479?年で、メムリンク美術館蔵

               聖エウフェミニア
 紀元4世紀、ギリシャ生まれの聖女。異教の儀式への参加を拒んだために、ノコギリ付きの車輪で引き裂かれたり、凶暴な熊のオリに放り込まれたりしたが、奇跡によって助けられる。最後は剣で刺されて殉教した。

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       スルバラン作「聖エウフェミニア」1636年
        プラド美術館所蔵


            聖クララ(伊/キアーラ
 12世紀の聖女。イタリア/アッシジで、聖フランチェスコを助けて 修行に励んだ修道女。現在アッシジの「聖キアーラ(クララ)教会」に遺体が安置されている。

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            ジオット作「聖キアーラ(クララ)」                

                 
         聖エリザベート(英/エリザベス)
 エリザベートと呼ばれる聖女は2人いる。一人は新訳聖書に出てくる聖ヨハネの母、聖母マリアの従姉妹にあたる聖エリザベート。もう一人はハンガリー王女で、貧者に施しをして尊敬を集めていたが、夫に見つかりそうになった時、奇跡によって施し物が薔薇の花に変わったという。

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         スルバラン作「ハンガリーの聖エリザベート」
         1645年頃/プラド美術館蔵

                参考資料/

          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place Jorge H. Castelli
          平安の春 角田文衛 朝日新聞社

 


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エリザベス女王から愛人を奪った女/レティス・ノウルズ [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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               レティス・ノウルズ
               バ—ス・コレクション 

 レティスは官能的な美女と伝えられている。しかし現代の感覚で肖像画は見ると、当時流行った化粧のせいで、かなり奇妙な感じがするのを否定できない。
 白粉で顔を真っ白に塗って、下唇にぽってりとル—ジュを塗っている。眉毛は薄い方が良いとされていたので、とても薄い。首の回りにはお皿のように大きなラフ襟… 
 しかし顔立ちをよく見ると、
切れ長のセクシーな瞳、細い鼻筋、どこか東洋的美を漂わせる端麗な顔立ちは、化粧を落としてみると、ルーカス・クラナッハの描く美女に似ていたのではなかろうか。

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聖母子/ルーカス・クラナッハ1529年
バーゼル美術館蔵

 レティスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの姉/メアリー・ブーリンの孫だった。
 女王エリザベス1世にとっては、従姉妹の娘にあたる。
 アンとメアリーは姉妹とはいいながら、国王の寵愛を争うライバル同士であった。
 ヘンリー8世は美貌のメアリーではなく、アンを選んで結婚した。
 メアリーは既にキャリーという男の妻だったからだ。人妻の身で、国王にも身を任せていたのである。
 そんな因縁を持った姉妹の血を引くのが、女王エリザベスとレティスであった。

 レティスは1562年、この当時の感覚としてはやや遅い、22才で初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーに嫁いだ。
 1572年、夫エセックス伯は1200名を率いて、アイルランド反乱鎮圧に出撃した。
 
4年後の1576年9月22日、反乱は完全に終結しないまま、エセックス伯はダブリンの地で赤痢に罹り、亡くなった。
 夫が戦場に行っている間、レティスにはある「情事」の噂がつきまとっていた。

 夫が不在中、レティスはテムズ川の岸辺にあるダーラム・ハウスに住んでいた。
 近所には、女王エリザベスの愛人レスター伯ロバート・ダッドリーの屋敷があった。
 宮中では顔見知り程度に過ぎなかった2人が急速に接近して人の噂になり始めたのは、レスター伯がケニワースでの女王御幸の祭典に着用するために、
ダーラム・ハウスに礼服を借りに来て、レティスが応対に出た事がきっかけだったという。
 当時の中傷パンフレットには、レスター伯と不倫していたレティスは、夫が一時帰国する寸前、愛人の子を堕胎していた噂が載っていた。
 真偽のほどは不明である。しかしレスター伯が、女王の愛人という危険な立場も忘れて、レティスに惚れ込んだのは事実であろう。
 その時点で、レティスは夫との間にペネロープ、ロバート(後の第2代エセックス伯/エリザベス1世の愛人、後に処刑)、ドロシー、ウォルターという4人の子供をもうけていた。

 1575年スペイン人デ・グアラスの報告によれば、レスター伯とエセックス伯はアイルランド問題をめぐって深い対立があったという。
 女王エリザベスは寵愛するレスター伯の言うがままに、エセックス伯のやり方を非難し、口を挟んできたからであった。
 1576年、エセックス伯はダブリンで赤痢のために亡くなったが、巷では「レスター伯が暗殺したのではないか」と囁かれていた。

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女王の愛人レスター伯ロバート・ダッドリ—
ニコラス・ヒリヤ—ド作/ナショナルポートレートギャラリー

 夫の死後約2年が経過した1578年9月21日、レティスとロバート・レスター伯はレティスの父の立ち会いのもと、ひっそりと再婚した。新郎は先妻を事故で失っていたので、再婚だった。先妻の死もまた、陰謀による暗殺ではないか、と噂されていた。
 女王エリザベスは2人の結婚に驚き、激しく怒った。
 「まさかロバートがレティスと再婚なんて…私は一言も聞いていない!ロンドン塔へ投獄しなさい!」
 これには周囲も強く反対した。2人は結婚歴はあるが今は独身であり、また王族でないので、結婚を女王に申告せねばらない義務もなかった。それを無視して投獄することも不可能ではなかったが、感情的過ぎる行為だった。「女王が嫉妬した」と国民の笑いの的になるのが関の山だった。

 1579年、レティスはレスター伯の唯一の息子を産む。父親と同じ「ロバート」と名付けられた。この少年は、デーンビー男爵の称号を与えられながら、わずか5才で亡くなってしまった。

 後に女王エリザベスはレティスの長男/第2代エセックス伯を愛人にしたものの、相変わらずレティスを無視し続けた。愛人の頼みに折れて、何度かレティスと会う約束をするが、途中で気が変わって約束を破っていた。あるパーティー会場で、レティスは300ポンドもする高価な宝石を持参して女王に献上すべく待機していたが、結局会うのは取りやめとなってしまった。
 しばらくして、エリザベスは自分の依怙地さを恥じたのか、レティスを招いた。
 レティスは万感の思いを込めて、遠縁にあたる女王の手と胸に接吻し、抱きしめた。
 女王エリザベスもまた、レティスを抱きしめて接吻し返したという。

 1585年、ロバート・レスター伯はオランダにおける対スペイン戦に派遣され、翌年の1月、オランダ総督に任命された。その頃から、レティスはまた、別の男性と浮き名を流し始める。
 今度は当時の主馬頭(しゅめのかみ/女王の馬を管理する長官)だったクリストファー・ブラントがお相手だった。
 1588年9月4日、レスター伯が亡くなると、翌年の7月にはすでに
クリストファー・ブラントと再婚している。しかし3度目の夫のブラントは、第2代エセックス伯が没落してクーデターを起こした時、共謀者として処刑された。レティスは長男と3人目の夫を同時に失ったのだった。

 レティスと最初の夫との間に生まれた娘のペネロープは、英国1の美女との誉れ高かった。
 ロバート・リッチなる男に嫁いだが夫婦仲は悪く、ペネロープはフィリップ・シドニーと不倫の愛に陥った。
 シドニーが亡くなった後は、マウントジョイ卿と愛し合い、夫のリッチが離婚に同意したにも関わらず、ジェームス1世王の怒りを買って再婚を禁じられた。
 そのため、ペネロープは
マウントジョイ卿の愛人のまま生涯を送り、その墓はただ名前のみを記した粗末なものであった。

 3人の夫の死を見送り、息子たちを失い、娘の不幸な結婚を見届けてもなお、レティスは生き続けた。
 そして1634年、当時としては驚異的な95才という長寿を全うした。
 すでに女王エリザベスは崩御し、次のジェームス1世すらなく、時代は動乱のチャールス1世の治世を迎えていた。

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   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス ストレイチー著 中央文庫
ルネッサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社

 


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ヘンリー8世の愛人達②メアリー・ブ—リン [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・ブ—リン
(ホルバイン作)

メアリー・ブ—リンの家系図
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 メアリーは映画「ブ—リン家の姉妹」の中で、華やかな姉アンの影に隠れた、目立たない存在として描かれている。史実では、どうだったのだろう?
「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)

 
 実をいうと、メアリー・ブーリンは、チューダー王朝前半を代表する美女といっても過言ではなかった。
 バランスの取れたふっくらした顔、青い瞳、明るいブロンド。どれを取っても、当時の美意識に合っていた。
 姉妹のアン・ブーリンの冴えない容姿とは対照的であった。

 
アン・ブーリンは、女王エリザベスの母として有名であるにも関わらず、その出生年ははっきりしていない。1501年という説もあれば、1507年という説もある。最近ではアンの1507年出生説が有力なので、その姉妹のメアリーは当然それより遅い、1508年以降または以前出生という事になる。(一般的には メアリーが姉とされているが、妹という説もある)
 2人の兄であるジョージは1503年生まれなので、それ以前ではありえない事になるが、いずれにしても諸説あって、未だに確定していない。
 出生年が不明なのは、それだけブーリン一家が些末な貴族だったことの現れではなかろうか。

 ともあれ、当時一家は居城であるヒーヴァー城に住んでいた。
 メアリーとアンの姉妹はそこで生まれ、育った。1512年父のトーマスが在フランス大使に任命されたため、姉妹もまた父についてフランスへ赴いた。
 ここでまた、ブーリン家について謎が生まれてくる。なぜかフランスで、ブルゴーニュ公女マルグレーテのお側付き女官として、部屋までもらったのはメアリー ではなく、アンだったのである。

 研究家も「こういった場合は、姉が優先されるのが一般的である」といっている。
 英国史研究家の石井美樹子氏は、著書「薔薇の冠」の中で、「メアリーがフランス王妃に嫌われたからではないか」と疑問を呈している。

 しかし、これには妥当といえる理由があった。
 父トーマスは、1520年、メアリーをウィリアム・キャリーなる24歳の青年に嫁がせてしまったので、独身でフリーの娘はアンだけだったのである。

 もともとブーリン家は13世紀まで小作農の家柄であったが、結婚によって領地を増やし、トーマスの父の代で、36もの領地を持つ伯爵家の相続人を妻に迎 え、格段の飛躍を遂げていた。ウィリアム・キャリーは、高位の貴族ではなかったものの、英国王ヘンリー8世の遠縁であり、側近でもあった。
 花嫁のメアリー12歳。新郎キャリーは24歳。
 当時の英国では、珍しくもない政略結婚である。
 あのヘンリー7世の母、マーガレット・ボーフォートも12歳で嫁ぎ、翌年には身ごもり、夫が戦死したと同じ年、わずか14歳でヘンリー7世を産んでいる。

 2人の結婚式は、父トーマスが帰国するわずか前に行われた。
 その4年後、夫妻の間には長女キャサリンが生まれた。
 翌年、ウルジー枢機卿の邸宅/ヨーク・ハウスのパーティーでは、メアリーは妹のアンとともに、深紅のドレスに宝石を飾った白いヘッドドレス姿で、華やかに参加した。
 いつ頃、ヘンリー8世がメアリーに目を付けたのかは定かではない。あるいは、夫のウィリアムとの間で、何らかの取引があったのかもしれない。

 1525年、メアリーが「ヘンリー」という、ヘンリー8世によく似た男の子を出産する直前、国王から領地を与えられている。しかし、愛人エリザベス・ブラントとの間にできたヘンリー・フィッツロイが国王の庶子として認知され、リッチモンド公の称号が与えられたのに較べて、認知はされなかったようだ。
 というのも、その頃ヘンリーは、アン・ブーリンとの結婚を画策していたからである。アンと結婚しようと思っているのに、アンの姉でもある人妻メアリーに子供を産ませた事実が公になっては困るからだ。
  
 1528年、夫ウィリアム・キャリーが亡くなり、メアリーは未亡人となった。
 メアリーはすでにヘンリーの愛人として権勢を持っていたアンに、亡夫の姉エリノア・キャリーを聖イーディス修道院長に就任させてくれるよう頼んだ。
 と同時に、国王の庶子である息子ヘンリーを、アンを後見人として育てて欲しいと願い出ている。こうした事実からも、メアリーが夫の出世のために、あえてヘンリー8世の求めのままに身を任せたのではないか、と推測する事ができる。

 アンは姉メアリーに嫉妬した。昔と違って、美貌の姉は今や独身だった。 アンはさかんにヘンリーに向かって、姉の悪口を書き連ねた手紙を送った。
 1534年、メアリーはハンフリー・スタッフォードという、国王付き兵士だった男と再婚した。今度こそ、誰に命令されたわけでも、取引でもない、メアリー自身の意志であった。
 しかし、独身のメアリーを政略結婚させるつもりであったブーリン一族は怒った。とりわけすでに王妃になっていたアンは、「平民の義兄」など受け入れるはずもなく、メアリーともども宮中から追い出した。そのお陰で、ブーリン一族が根こそぎ没落した不幸に巻き込まれる恐れから逃れた。
 アンが王妃となる代わりに恋人との結婚を諦め、最後には処刑されたのとは対照的に、メアリーは貧しいながらも慎ましく、愛を全うした。

「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)
 
 この言葉は、アンの人生と比較してみると、非常に皮肉に響く。

 最初の夫との間に生まれた長女キャサリンは、ヘンリー8世の第4王妃クレーフェのアンに侍女として仕え、やがてノウルズ卿に嫁ぎ、祖母の美貌を受け継いだ美女レティス・ノウルズが誕生した。
 この家系からは、名門エセックス伯家が出て、レティスの孫娘フランシスが大名門サマーセット公家に嫁いだことから、21世紀の現代にまで、メアリーの血筋は受け継がれたのである。
 アンの血筋がエリザベスの代で途絶えたのとは、対照的である。

       

                 参考資料/
          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place by Jorge H. Castelli
          The Tudor History by Marilee Mongello
          薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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ヘンリー8世の愛人たち①エリザベス・ブロント [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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ヘンリー・フィッツロイ/オーフォード伯コレクション

  1、エリザベス・ブラント
    Elizabeth Blount
   (1502~1539
           
 上の版画、何となく目元かキムタクっぽい少年…実はヘンリー8世の息子である。フィッツロイという単語は、古語で「王の息子」という意味がある。「ヘンリー・フィッツロイ」という名前は個人の洗礼名であるのと同時に、「王の息子ヘンリー」という生い立ちを意味していた。
 皇太子としてエドワード(後のエドワード6世)が生まれるまで、彼はヘンリー8世のたった一人の息子だった。周囲からは「王位を継ぐかも知れない」と密かに期待されていた。

 しかし、母は当時王妃だったキャサリン・オブ・アラゴンではない。
 ヘンリー・フィッツロイを生んだのは、ヘンリー8世の愛人エリザベス・ブロントという若い宮廷女官だった。
 エリザベスは1512年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女見習いとして、宮中へ上がった。 わずか10歳だった。貴族の娘が行儀作法を学ぶために、幼くして宮廷に使えるのは珍しくなかった。行儀作法だけでなく、大貴族とのコネクションも作れるし、あわよくば玉の輿に乗れるかも知れない!…そんな期待を込めて、親達は娘を宮中に送り込んだ。
 
 父のジョン・ブラントは国王付きの護衛(King's Spears)だったので、その関係から王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。
  1514年、キャサリン王妃は王子を産んだが、一月もしないうちに王子は亡くなってしまった。
 エリザベス・ブラントは、悲しむ王妃を慰めるために唄い踊った、という。
 時にはヘンリー王とペアを組んで踊ることもあった。ヘンリー8世は、しだいにエリザベスに惹かれていった。
 実はヘンリーの愛人はエリザベス・ブラントが最初ではなかった。
 エリザベスの友人でもあるブライアン家の娘(エリザベス・ブライアン)は、いち早くヘンリーの愛人となり、降るような贈り物(ダイヤモンドの首飾りにミンクのコートなどなど)の他、母親にまで500ポンドもの大金が贈られていた。
 エリザベス・ブラントもまた高価な贈り物とともに、父ジョン・ブラントの地位が護衛(King's Spears)から、王の寝室付き護衛官(Esquire of the Body)へと出世した。
 1518年10月、愛人となったエリザベス・ブラントとヘンリー8世とともに、メアリー王女(後のメアリー1世)とフランス皇太子との婚約式に出席した(後に婚約解消)
 キャサリン王妃は、ちょうど7回目の妊娠中で、大事をとって静養中だった。
 エリザベスはヘンリー8世のためだけに唄い、踊った。その時、すでにエリザベスはヘンリー8世の子を身ごもっていた。
 翌年1519年6月15日、エセックス州のジェリコ修道院で、男の子が産まれた。
 父の名にちなんで、「ヘンリー・フィッツロイ」と名付けられた 。
 ヘンリー8世はしばしばエリザベス母子を訪ねては、「ジェリコに行ってきた!」と冗談交じりに嬉しそうに語っていたという。
 しかし、そんなヘンリー8世の愛も長続きしなかった。
 やがて彼の愛情はエリザベスから、ブーリン家の姉妹メアリーとアンへと移っていった。
 そのため、エリザベスはギルバート・タルボーイズという男との結婚を強要され、お払い箱となってしまった。ルバートはエリザベスを妻に迎える代償に、ナイトの称号とリンカシャー保安官に任命された。
 1525年、エリザベスは夫について、リンカシャーヘ移り住んだ。

 一方エリザベスの産んだ「ヘンリー・フィッツロイ」は国王に引き取られ、リッチモンド公の称号を与えられた。皇太女(Princess of Wales)だった異母姉メアリーに次ぐ王位継承者と見なされ、「王子」と呼ばれていた。
 エリザベスは1530年夫ギルバード・
タルボーイズに先立たれ、息子を頼って宮中へ戻ってきた。
 しかし、そこにはすでに新たな愛人として、アン・ブーリンが権力を握っていた。
 アンは王妃キャサリンやメアリー王女、ヘンリー・フィッツロイのみならず、エリザベスまで目障りだとして、宮中から追い出したのだった。4年後の1534年、エリザベスは、亡父の所領の隣に地所を持っていたクリントン卿と再婚した。

 一方フィッツロイはフランス宮廷へ留学に出された。
 1533年10月、アン・ブーリンの兄ジョージがフランス宮廷に着き、フィッツロイと面会した。
 その直後、同じワインを飲んでいたフィッツロイとその友人が倒れた。
 2人を看た医師は、ただちに何らかの毒物による典型的な中毒だと診察した。
 フィッツロイが倒れた直後、ジョージ・ブーリンは単身英国へと逃げ帰っていた。
 後にジョージの妻は、アンとジョージの2人が、「フィッツロイの毒殺を計画していた」と告白したという。
 その後、アン・ブ—リンは1533年11月、自分に忠実な一族メアリー・ハワード(3代目ノーフォーク公の娘)をヘンリ—・フィッツロイに嫁がせた。2人はまだ14歳になったばかりで、結婚するには若すぎた。監視させる意味合いがあったのかもしれない。
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 1536年、アン・ブ—リンが反逆罪で裁かれて処刑された。
 ヘンリー8世はフィッツロイを呼び、涙ながらにアンの企みが成功しなかったことを喜んだ。
「王は涙を浮かべ、彼と、彼の姉(メアリー)が呪われた娼婦(アン・ブーリン)
 の毒殺の魔の手から逃れたことを神に感謝した。(King, with tears in his eyes said that both he and his sister ought to thank God for having escaped from the hands of that accursed whore who had planned their death by poison.)」
 だがフィッツロイは同年7月、結婚したばかりの若い妻メアリー・ハワードを残して突然早世してしまう。17歳の誕生日を迎えたばかりであった、
 
 リンカシャーでは、ヘンリー8世の離婚のゴタゴタから生じた宗教改革から王室への不満が高まり、それが後に「恩寵の巡礼」と呼ばれる反乱に繋がることになる。

 反乱と突然の息子の死・・それがエリザベスに深い衝撃を与えたのか、1539年2月、世を去った。

 享年37歳。

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リッチモンド公爵夫人メアリー・ハワード
  (ホルバインの下絵/1536年?)

 

 

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敗者の運命/マーガレット・ソールズベリー伯爵夫人 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 ソールズベリー伯爵夫人マ—ガレットのデッサン/作者不詳/大英博物館蔵
             (1473~1541)

 マーガレットの父は、エドワード4世の実弟クラレンス公ジョージ。
 母親は「キング・メーカー」と呼ばれたウォーリック伯の娘・イザベラ・ネヴィルであった。この2人の間に、1473年8月14日、誕生した。
 5歳の時、父はエドワード4世の命令で反逆者としてロンドン塔内で処刑された。

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 前王朝プランタジュネット家の王子は、長引く内乱やその後即位したヘンリー7世によって、ほとんど全てが粛清されていた。姫君は反逆を企てる危険性も低かったためか、粛清から逃れた。マーガレットもその1人であった。
 エドワード4世崩御の後、その王子達が庶子の決定を受けて王位継承権を無くした上に、後を継いだリチャード3世の皇太子もまた早世したために、マーガレットは王位継承権を有する身となった。

 しかしヨーク王朝はすでに終焉を迎えていた。ヘンリ—・チュ—ダ—は新王朝を開いてヘンリー7世として即位した。その後マーガレットは恩赦され、1491年にはソールズベリー伯リチャード・ポールに嫁がせた。
(リチャード・ポ—ル=ヘンリー7世の従兄弟)

 
 14年後、夫のリチャードが亡くなったとき、マガレットにはヘンリー、レジナルド、ジェフリー、アーサー、ウルスラの5人の子供たちが残された。このうち2男レジナルドは法王から枢機卿に任命された。
 

 マーガレットはチューダー王朝でも優遇された。特にヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと仲が良かった。第1王女メアリー(後のメアリー1世)が誕生した時には洗礼式に付き添って名付け親を務め、王女の世話役にも任命された。
 メアリーは王女として実母の手から離れて、マーガレットに育てられた。
 母のキャサリンは「娘を呼べば、すぐに応じてくれるよう」マーガレットと密に連絡を取り合っていた、という。メアリーが3歳で神聖ローマ皇帝カール5世との縁談が壊れた時には、マーガレットの息子レジナルドとの縁談も浮上した。
 このままいけば、マーガレットは新女王の義母として、権勢を握ったかもしれない。

 しかし再び時代は変わり始めた。ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚問題は、メアリー王女に影響を与えずにはいられなかった。
 新王妃アン・ブーリンが第2王女エリザベスを生むと、第1王女メアリーは王位継承権を奪われた上に、強制的にエリザベスの侍女にされてしまった。
 マーガレットもまた養母の地位を剥奪され、蟄居せざるをえなくなった。

 メアリーを王女と呼ぶ事は禁止されたにもかかわらず、マーガレットはメアリーを王女と呼び続けた。そして自分の紋章には、夫ポール家の紋章スミレの花に加えて、メアリーの紋章であるマリーゴールドの花を添え、王女への忠誠を表した。
 ヘンリー8世はレジナルド枢機卿を懐柔しようと試みた。もしキャサリンとの離婚を承諾するなら、ヨークの大主教の座とウィンチェスター主教区の支配を約束しようと申し出るが、レジナルドはそれを蹴って1532年、フランスに亡命、パリとイタリアのパドヴァを行き来しつつ、ヘンリー8世に反論する論文を書き続けた。

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ソ—ルズベリー伯爵夫人マーガレット
作者不詳/ナショナルポートレートギャラリー蔵
 1536年アン・ブーリンが没落すると、マーガレットは許されて、再び宮廷に戻った。しかし2男レジナルド枢機卿はバチカンを代表して、ヘンリー8世の宗教改革に正面から抵抗してみせた。1537年の「恩寵の巡礼の乱」でも、レジナルドは反乱の首謀者に支援を与えていた。

                 
 1538年11月、4男のジェフリーと、母方の従兄弟エドワード・ネヴィル及びニコラス・カルー卿が反逆罪容疑のために逮捕された。翌年1月、ジェフリーを除く2名がロンドン塔で処刑された。
 ジェフリー逮捕の10日後、マーガレットもまた反逆罪で逮捕となり、サザンプトン伯とイーリー主教の取り調べを受けたが、彼女は口を閉ざしたままだった。マーガレットはさらに取り調べが続いた。

 ヘンリー8世は、マーガレットが「5つのキリストの傷をモチーフにした刺繍」のある白いチェニックを持っていた事に目をつけた。その紋章は「恩寵の巡礼」反乱軍の旗印でもあったので「マーガレットもまた反乱に関与している」と断定した。また、マーガレット専属の神父が海外に脱出していた事も、「ヨーロッパにいるレジナルド枢機卿と連絡を取り合っている」と見なされた。
 そのためマーガレットはロンドン塔に2年間幽閉される事になるのだが、塔内での待遇は悪く、常に衣服の粗末さと寒さとに苦しめられていた、という。

 1540年5月27日(または28日)、マーガレットは突然処刑を告げられた。
 「私は無実です!反逆などしていません!」
 そういって抵抗し、処刑台に上がることを拒否するマーガレットを、処刑人は斧で後ろから首を切りつけた。

 ロンドン市長を含む150人の立ち会い人の目の前で、絶叫するマーガレットの首に、何度も斧が振り下ろされた。夥しい血が飛び散った凄惨な処刑だった。
 それは実際、ヘンリー8世によるレジナルド枢機卿への復讐だった。ヨーロッパでバチカンの庇護を受け、手出しできないレジナルドの代わりに、腹いせで母親のマーガレットを惨殺したのだった。
 母の死を聞いたレジナルド枢機卿は、こう語ったという。
「私は母の死を恐れない」

 ヘンリー8世とアン・ブ—リンとの略奪婚、その結果生じた英国国教会は、無数の犠牲者を生んだが、マーガレットもその1人だった。
 それから数世紀を経た1886年、時の法王レオ8世は、マーガレットを殉教聖者の列に加え、命日の5月28日を祝日に決めたという。

             参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        The Catholic Encyclopedia


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メアリー・スチュアートその3(ヘンリー8世の姉の孫娘) [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・スチュアート
1578年制作?ニコラス・ヒリヤード作
ナショナルポートレートギャラリー蔵
 たとえばメアリーが、マリ伯のように再起を図るためにエリザベスを頼って来たのなら、まだいい。
 かつての宿敵同士であろうとも、利害が一致して共同戦線を張ることなど政治の世界ではありふれている。
 「女は悪魔だ」と男尊女卑をかかげるキリスト教原理主義者に思い知らせ、階級制度と女王という存在の正当性を確立するためにも、メアリーの復活は必要であった。
 生意気なスコットランド人を懲らしめるのも悪くはない、とエリザベスは思う。
 マリ伯の方も負けてはいない。大貴族たちと結束して、もしメアリーの復位を図るなら、フランス側につく、と脅して来た。

 君主であるにもかかわらず、女だと言う理由でメアリーに加えられた屈辱。
反乱軍に捕えられたメアリーが、晒し者のようにエジンバラを引き回され、「売女」と罵倒された事実。
 女であるが故に耐えねばならなかった悲しみを思う時、エリザベスは生理的に激しい怒りを覚えた。彼女自身も即位したての頃、群臣たちの「女か…」という嘲笑の視線を忘れていない。

 だが、メアリーはここに来て、忘れていた怨みを…メアリーが故国へ帰るきっかけとなった先祖代々の英国への怨みを…思い出したのである。
 そしてスペイン・フランス、果ては英国内の大貴族たちにまで、自分との結婚話を餌に、エリザベスを打倒するよう手紙をばらまいていたのだ。エリザベスの足下で。
 以降20年、メアリーはもはや列挙するのがうざったらしいほど、エリザベス暗殺の計画に首を突っ込むことになる。

 当然全部筒抜けである。メアリーが亡命してきた年の翌年1569年に起きた北部諸侯の乱でも、メアリーは一枚噛んでいた。本来のエリザベスなら、ただちに抹殺していただろうが、首謀者のほとんどが大陸に亡命し、腹いせに貧しい兵士700名を虐殺しただけでメアリー自身はおとがめ無しだった。

    
 メアリーがエリザベスを憎むようになったのは、理由がある。
 メアリーはスコットランド王位を奪回するために、エリザベスの突き付けた全ての条件を飲んだのだ。
 それは長年に渡って拒否してきたエジンバラ条約の承認であった。
 1、スコットランドの新教徒の信仰の自由を認める
 2、ジェームスを次期英国王として、エリザベスに養育させる
 3、エリザベスと、その正式な結婚から産まれた子が生存している間は王位を請求しないこと

 しかし、にもかかわらず、どたんばの所でエリザベスはメアリーを裏切った。
 というか、そうせざるおえない苦境に陥ったのである。
 メアリーの復位に対し、スコットランドの親英国派豪族が一斉にフランスへ寝返る危険性が生じたのだ。
 スコットランドの親英国派工作は、父ヘンリー8世の時代から着々と積み上げられて来た成果である。
 それをメアリー1人のために崩壊させるのは、国益に反していた。
 1人の女としては、メアリーを哀れみつつ、1人の政治家として切り捨てざるをえなかったのである。

 そうした罪悪感もあって、エリザベスはぎりぎりまでメアリーを許して来た。しかし、国内の政治状況が、もはやメアリーを許さなかった。我が身に脅威を感じた英国大貴族が、エリザベス暗殺が現実になった時、自らの手でメアリーを殺すことを誓った「一致団結の誓約書」を取り交わした。
 スペインの軍事的脅威も現実のものとなりつつあった。議会は後顧の憂いを絶つために、メアリーの処刑を可決した。

 再びエリザベスは、政治家として、苦渋に満ちた(おそらくその人生においてもっとも辛い)決断を下さねばならなかった。

 「メアリーをこの手で、殺さねばならない」

 考えてみれば、自分が裏切った相手が、こちらを恨んでいるという根拠で抹殺するほど卑怯なことはないだろう。この決断を下すまで、エリザベスは1人寝室で荒れ狂い咆哮したいう。しかし決断した。
 そこにこそ、エリザベスが不出世の政治家である理由があった。

 メアリーにも希望は残されていた。ただ「待てば」よかったのだ。
 誰の目にも、次期王位継承者はジェームス以外にいなかった。
 メアリーは黙って待ちさえすれば、いつか息子が英国に来て、母を解放するはずだった。
 だが、メアリーは待てなかった。

 1587年2月1日、エリザベスはついに処刑命令書にサインする。
その一週間後、メアリーは幽閉先のフォザリンゲー城で最期の時を迎えた。
 19年のおよぶ歳月が、メアリーからかつての美貌を奪っていた。中年太りで崩れた体を深紅のドレスで包み、白髪を金髪のカツラで隠していた。処刑台の前には、数百人の見物人が押し掛けていた。
 かれらの前で、メアリーは舞台に立つ女優のように軽やかに足を進めた。

 そして処刑人の斧によって首をめった斬りにされ、呻き声をあげ血まみれになって絶命する。
 首を失った体のスカートの下からは、生前可愛がっていたペットの小犬が飛び出してきたという。

 メアリーとエリザベス。この二人を同一線上に並べて評価を下すのは誤りであろう。なぜなら、二人はまるで役割が異なっていたからである。メアリーは国母であり、象徴君主の立場にいたのに対して、エリザベスは純粋な政治家であった。
 メアリーは子孫を残し、エリザベスは絶大なる政治的功績を残した。
 どちらが欠けていても、その後の大英帝国の発展は無かったであろう。

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              参考資料/
     華麗なる二人の女王の闘い 小西章子 朝日文庫
     ルネサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社
     女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
     スコットランドの歴史 リチャード・キレーン 彩流社 


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メアリー・スチュアートその2(ヘンリー8世の姉の孫娘) [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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           ヘンリー・ダーンリーと弟トーマス
           ハンス・イワース作/王室コレクション
 
 (あのヘンリー・ダーンリーとか?)
 エリザベスはその知らせを聞いて眉をしかめた。ダーンリーは軽薄な青年であったが、メアリーの従兄弟に当たり、英国の王位継承権を持っている。
 (なんと!これでますますあの女がつけあがるではないか!)
 英国王位を窺う敵が、一人から二人に増えてしまったのだ。

 ダーンリ-が「逆玉」狙いでメアリーを誘惑したのは見え見えだったので、議会や国民、側近達ですら、この結婚に反対した。特にマリ伯は、嫉妬もあって口論になるほど激しく反対した。
 エリザベスは、ダーンリーと結婚するなら国境線を侵犯する、と脅迫した。
 それでもメアリーは、この青年のわざとらしい誘惑やわがままが、愛らしくてならなかった。

 1565年7月29日、メアリーはダーンリーと結婚する。
 そして書類には、「女王メアリー」の名の横に「国王ヘンリー」と署名が並ぶこととなった。
 (してやったり!)
 ほくそ笑むダーンリーとは対照的に、マリ伯の怒りはおさまらず、結婚式にさえ姿を見せなかった。
それどころか、英国からの支援を受け、クーデターを起こしたのである。しかしあっという間に蹴散らされ、マリ伯は英国へと亡命した。

 (目障りだったマリ伯を追い出した。これで俺の天下だ!)
とばかり、ダーンリーのわがままは加速した。気に入らなければ大貴族だって殴る、剣を振り回す、政治を放ったらかしにして遊び回る、泥酔して暴れる。 殴り合い、絶叫、レイプのような夫婦生活。
 二人の関係はわずか半年で破滅を迎えた。にもかかわらず、メアリーは妊娠していた。最悪だった。

 「もう近寄らないで!触らないでちょうだい!」
 「なんでだよ。俺はおまえの亭主だぞ?この国の王なんだぞ?。」
 酒臭い息を吐きながら、ダーンリーはメアリーを押し倒した。
 「私、妊娠しているのよ。」
 メアリーは顔をそむけながら呟いた。
 「どうせ俺の子じゃないんだろ?誰の子なんだよ、おい。」
 アル中でいかれたダーンリーの頭には、メアリーのお腹の子が側近リッチオの子のような気がしてならない、
 いや、真実自分の子だったとしても、息子ならライバルになりうる。
 (みんな殺してやる!)

 妄想は妄想だけでは留まらなかった。ある晩餐会の席上、呼ばれていなかったダーンリーは、側近を引き連れて乱入する。
 マリ伯にそそのかされた大貴族たちに煽られた結果であった。
 ダーンリーはメアリーの目の前でリッチオを惨殺し、ついでに 妻にまで銃口を向けさせたのだ。
 だが、メアリーはもう取り乱さなかった。二人きりになった時、メアリーはそっと夫に手を差しのべる。
 「鎮まってちょうだい、お願い・・・あなたはだまされているのよ。
  私とお腹の子供を殺して、その後あなたも無事で済むと思っているの?」
 実際仲間と称する大貴族たちは、マリ伯とともに権力を奪取するつもりでダーンリーを利用しただけなのだ。
 彼がメアリーを始末すれば、今度は、彼が消されるだろう。

 さっそく勝利にほくそ笑むマリ伯が帰って来た。
 メアリーは異母兄の前で、大げさに苦しんで今にも流産すると騒いだ。
 周囲が混乱する中、メアリーはどさくさに紛れて、ダーンリーともどもホーリールード宮殿を脱出、身重の身で50キロの道を馬で疾走した。

 

 それから三か月後の1566年6月19日、メアリーはエジンバラで出産した。
 「俺の子じゃない」とわめいていたダーンリーそっくりの男の子だった。
 後の英国&スコットランド国王、スチュアート王朝開祖のジェームス1世である。
 メアリーは可愛いわが子に頬ずりしながら、ベッドの傍らに立つダーンリーにむかって言った。
 「あの時あなたが私を撃っていた・・・・・・ 今頃あなたはどうなっていたかしら。」
 ダーンリーは俯いて口ごもった。
 「おまえ・・・・・おまえが俺に冷たくしたからだ、俺は悪くない!。」
 そして彼はメアリーの悪口を書いた手紙を諸国に送りつけ、わが子の洗礼式の出席をも拒んだ。

 子供が産まれたことで、一見平和が訪れたかに見えたが、それは一瞬のことだった。
 やがてメアリーの生涯最大の悲劇が訪れたのだった。「ダーンリーの暗殺」である。

 1567年2月10日の深夜。ダーンリーは、病気療養のため、自分の領地であったグラスゴーにいた。しかし別居中だったメアリーの説得により、その世話を 受けるだめにエジンバラに戻って来ていた。そしてメアリーが宮殿へ帰った直後、ダーンリーの寝起きしていた館が何者かによって爆破されたのだった。

 この事件にメアリーが首謀者として関わっていたかどうか、諸説あってはっきりしない。
 メアリーが暗殺に加担した「証拠」といわれるものも存在したが、でっち上げの偽物だった可能性も高い。

 私は個人的には、メアリーは無実であったと思う。マリ伯を含めた大貴族たちにとって、すでに王子が生まれ、摂政として実権が握れるチャンスが巡って来た以上、メアリー夫妻は用済な上に邪魔者だった。
 二人とも、抹殺しようと考えても不自然ではない。

 その陰謀の中心はおそらくマリ伯とボスウェル伯ジェームス・ヘップバーンであったが、直前になって、ボスウェルはメアリーだけは生かす気になった。密かに知らせを受けたメアリーは、自分だけでも助かりたい一心で逃げ出した。そして哀れにも、ダーンリー1人がテロの犠牲になったのだ。
 実はダーンリーは爆発では死ななかった。ガウン一枚で飛び出した彼は、作戦の失敗を知った暗殺者の手で、改めて絞殺されたのである。

 知らせを受けたエリザベスは、あれほど怒っていたにもかかわらず、メアリーにあてて、「すぐに自分が疑われないよう犯人を検挙して、身の潔白を証明しなさい」という忠告の手紙を送っている。そこで形だけ詮議が行われ、ボスウェル伯が怪しいとなったわけだが、何しろほとんどの大貴族が加担している暗殺事件である。
 事態はうやむやのまま流されてしまった。

 しかも悪いことに、ボスウェルは命を助けてやったことを恩に着せ、メアリーを誘惑し、レイプしてしまった。メアリーは泣く泣く身を任せたが、しばらくしてこの男に本気で惚れてしまったのである。
 ジェームスの誕生から、まだ一年もたっていなかった。

 ボスウェルはメアリーと関係してから、暴走し始めた。
 同じ年の5月13日、彼は陰謀を目論んだ仲間を裏切ってメアリーと結婚する。この行為に、始めは同情的だった諸国も目を白黒させ、次に激しくメアリーを非難した。
 裏切られた大貴族達は、ダーンリー暗殺の責任を全てボスウェル一人に押し付けて、「王殺しの反逆者」として討伐のため挙兵した。

 メアリーも対抗するために軍を収拾したが、呆れ返った人々はメアリーから離れていった。
 状況は圧倒的に不利だった。ボスウェルはいち早く単身北へ落ち延びた。
 メアリーは本拠地のボスウィック城に立て籠ったが包囲され、男装をして脱出し、ボスウェルの後を追った。
 二人が再会した時、破滅が訪れた。

 徹底的な敗北だった。一時はメアリーを抹殺しようとして、ボスウェルの裏切りによって挫折したマリ伯であったが、ふたを開けてみると、自分の手を汚す必要はなかった。
 メアリーは勝手に破滅してくれた。しかも自分も加担したダーンリー暗殺の罪を、ボスウェル一人に押し付けて。そしてメアリーは湖の孤島ロッフレベン城に幽閉された。
 一月後の7月25日、ついに王位を幼いジェームス王子に譲るとの書類と、マリ伯の摂政任命の書類にサインさせられたのである。
 逃走したボスウェルの人生もまた終わっていた。彼は追われてデンマークまで逃げ、そこで幽閉されて、狂死したという。
 メアリーは最後のチャンスに賭けた。
 数カ月かけて脱出作戦を練った後、ついに1568年5月2日、ロッフェレベンの城を脱出し、ニドリー城まで落ち延びた。

 メアリーは復位のために挙兵した。
 意外にも、メアリーを裏切った大貴族達が、続々と馳せ参じて来て、一大大軍となった。

 この一年で形勢は変わっていた。
 マリ伯の権力に嫉妬した大貴族達が、今度はマリ伯を引きずりおろすために集結したのである。
 これが最後のチャンスだったにもかかわらず、またしても裏切り者が出た。主力部隊だったアーガイル伯が、意図的に遅く到着したのだった。主力を欠いた軍 は、マリ伯側の奇襲を受けて、またたく間に敗走した。その上裏切りに怒った他の部隊が、アーガイル伯軍に襲いかかった。メアリーは自ら戦場に飛び込んで呼 びかけても無駄だった。惨めなまでに、メアリー側は戦死者が続出した。
 ここまでは、メアリーを理解できるし、共感することもできる。
 この後の行動が、何とも理解しかねるところである。

 正常な神経なら、メアリーは恥を忍んでフランスへ亡命し、そこでフランス側を説得して(ついでにスペインも味方に率いれて)マリ伯討伐軍を組織していただろうし、それは成功の確率が高かったに違いない。

 しかしメアリーは自分を「エリザベス以下のひどい女」と罵倒したバチカンのことが忘れられなかったし、自分を罵倒したフランス王室への怨みを忘れていなかった。そんな時、エリザベスだけが、メアリーに忠告し励ましてくれた。その上独身のエリザベスは、いずれメアリーか、ジェームスのどちらかを跡継ぎに指名する可能性があった。
 「英国へ行きましょう!」
 メアリーはそう叫んで、英国ースコットランド国境線を越えた。

 しかし、その後の成り行きを見れば、溯ってこの時点でメアリーの人生は終わっていたのである。
 わずか26歳の若さであった。

                 (つづく)


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スコットランド女王メアリー・スチュアートその1(ヘンリー8世の姉の孫娘) [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・ステュアート/クルーエ作/
ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
             (1542ー1589)     
                                   
 このあまりにも有名な女王は、輝かしい血統の持ち主、英国史上のサラブレッドだった。
 父のジェームス5世はスコットランドの正嫡の王、母メアリーは2人目の王妃とはいいながら、フランスの大名門ギーズ家の出身だった。
さらに父方の祖母マーガレットは英国王女だった。家柄の面からいえば、メアリーこそ英国とスコットランドの両国の女王にふさわしかった。しかし、メアリーの人生は、大伯父である英国王の裏切りと父の死という悲劇から始まった。

 1542年11月、前々からスコットランドを狙っていたヘンリー8世は、あらかじめ敵国内に賄賂をばらまいた後、おもむろに国境線を侵犯した。その上、迎え撃ったスコットランド王ジェームス5世は、味方の裏切りによって大敗した。 
 激しい失望に喘ぐ王のもとに、さらに失望ともいえる知らせがもたらされた。
 臨月を迎えていた王妃メアリー(誰もが王子誕生を願ってやまなかった)が、リンリスゴウ宮殿で無事王女を産んだ
というのである。もはや生きる気力を無くしていた王は、数日後、29歳の若さで息を引き取った。
 1542年12月14日、メアリーは生後6日で父を失ったのである。

 翌年の7月、メアリー王女は母メアリー皇太后に抱かれて、生後7ヶ月でエジンバラ郊外のスタリング城で、ひっそりと戴冠式をあげる。その直後、幼い女王を奪ってわが子エドワードの嫁にしようと企むヘンリー8世が、再び侵略して来た。 今回は防ぐ者もなく、首都エジンバラは英国兵の手で破壊され尽くした。
 追いつめられたメアリー皇太后は、娘を人目に付かない辺鄙な修道院に隠し、5歳まで育てた後、密かにフランスへと落ち延びさせた。
 引き裂かれるようにスコットランドの海岸を離れる船に向かって皇太后は涙した。
 甲板では幼いメアリーが母を呼んで泣き叫んでいた。

 フランスで待っていたのは、形式的に婚約を交わしていた1歳年下のフランソワ皇太子と、その両親であるフランス国王夫妻だった。
 王妃のカトリーヌ・ド・メディチは 10人もの王子王女を生みながらも実権は夫の愛人であるディアンヌ・ド.ポワティエに握られていた。幸いにもカトリーヌは、メアリーを気に入って可愛がっていた。
 宮中にはメアリーの母方の叔父であるフランソワとシャルルのギーズ家の兄弟が権力をふるっていた。
 
 メアリーはカトリーヌや叔父たちに見守られてフランス人として成長し、1558年4月28日、パリのノートルダム寺院で華やかな結婚式をあげた。
 15歳になったばかりのメアリーは、宝石を散らした純白のドレスを身にまとい、歓呼の声の中、ノートルダム寺院へ入場した。
 それから一年半後、義父にあたるフランス王アンリ2世は、騎馬試合中の事故で急死。
 皇太子だった夫フランソワがフランソワ2世として即位した。妻のメアリーはフランス王妃である。
 ついにメアリーは、ブリテン島の一部を含む広大なフランス王国の女主人となったのである。
 故国スコットランドは領土の一部に過ぎなかった。

 1543年生まれのフランソワは、まだ17歳。
 生まれつき虚弱な体質だった。アデノイドがあり、年中耳が腫れ、呼吸困難に陥るところを見ると、アレルギー患者で、重度の喘息体質だったのかもしれない。
 もし真実喘息であるとするなら、成人に近い患者の発作は、現代でも死ぬ場合がある。
 そしてアレルギー患者は耳や鼻に炎症が起きやすい。
 1560年11月、フランソワは持病であった耳の化膿が悪化し、高熱を発するのと同時に呼吸困難に陥った。 
 18日間に及ぶメアリーの看護の甲斐もなく、その年の12月8日、ついに帰らぬ人となったのである。

「森や野や どこにいようとも
 明け方か夕暮れか いつだろうとも
 心は絶えず悲しみにくれ
 眠ろうとする枕元に押し寄せる この空しさ
 一人ベッドにいても、あの人のぬくもりを感じる
 働く時も休む時も、傍らにあの人を感じている。
(メアリー/亡き夫に捧げる挽歌)」

 同じ年の6月、故国の母メアリー皇太后も、娘の身を案じながら死去していた。
 周囲では、本人の意向を無視して、早々に再婚相手探しが始まった。
 メアリーは義弟で、王位を継いだシャルル9世の求婚を拒み、フランスでのんびり未亡人生活を送る気ままさも拒否する。そして、あの争いと嫉妬渦巻く荒廃した故国へ、スコットランドへ帰る道を選ぶのだった。

 その頃からメアリーは、自分の紋章に、英国王家の獅子紋を入れるようになる。
 この行為は明らかなエリザベスへの挑発行為だった。後世の人間は、それを見て「愚か」だと笑うけれど、果たして一笑に伏すことができるだろうか。

 思えば、英国側の拉致を恐れて、国内と転々と逃げ隠れした幼少時代だった。
 そして5歳の時、母と引き離され、逃げるようにフランスに渡った。
 祖父を、父を、屈辱のうちに死に追いやり、故国を踏みにじった英国。
 そんな憎き英国に対し、復讐心があったのではなかろうか。
 まして今の女王は、あの宿敵ヘンリー8世の庶子の娘エリザベスである。
 正当なチューダーの血を引くメアリーが王位を望んでも、不思議ではなかった。

 1561年、メアリーはスコットランドへ帰国する。
 メアリーは一応エリザベスに英国近海を通過する旨を知らせたが、エリザベスの側はそれをそっけなく無視した。
 7月20日、メアリーは英国側の悪意を知りながら、カレー港へと出発する。
「どのような結果になろうとも、私は旅立ちます。」
 約一月後の8月14日、ついにメアリーを乗せた船は港を離れた。
 甲板に立つメアリーは遥かに遠ざかる岸を眺めながら、激しく泣いた。
「アデュー、フランス!もう二度と見ることはないでしょう。」
 フランス語の「アデュー」は単なる「さようなら」ではない。
 決別を表す言葉である。メアリーは、第二の故郷であるフランスに二度と帰らない決意であった。

 ユーロスターでドーバー海峡を越え、南部英国に入ったとたん、それまでの清澄なフランスの陽光は消え、にわかにどんよりとした北国の空気に包まれる。
 21世紀でさえそうなのだから、ましてや16世紀、英国よりさらに北のスコットランドはフランスとの落差は大きかったはずである。5日の航海の後、メアリーが上陸したエジンバラ近郊のリース港は、霧の濃い裏ぶれた漁村だった。

 明らかな発展途上国。しかも狂信的なキリスト教原理主義者が跋扈し、隣国からの侵略行為と内部の権力闘争で疲れきったスコットランドは、どことなく現代の中央アフリカや中央アジア諸国を思わせる。
 そんな危険な場所へ、世間知らずのお姫様が復讐心に燃え飛び込んでいって万事が解決するとしたら、それはフィクションの世界だけである。
 現実にメアリーを待っていたのは、呵責の無い男同士の権力闘争と、ピューリタンの女性蔑視、英国側の悪意であった。

 しかし、鳴りもの入りで帰国したメアリーを待っていたのは、奇妙な「平和」だった。

 実権はすべてメアリーの異母兄のマリ伯爵ジェームス・スチュワートが握っていた。
 彼は父のジェームス5世が政略上やむおえない理由でフランスから王妃を迎えるために、別れた恋人/アースキン家の姫君との間に産まれた子であった。
 そして王妃のメアリー・ド・ギーズも、政略のために幼い息子を置いて異国へ嫁いで来た身であった。
 思えば、悲しい運命のカップルだった。したがって、メアリーもその母親も、マリ伯を差別していなかった。

 しかしマリ伯爵は違っていた。
(メアリーとその母親さえいなければ・・・父が母と正式に結婚していれば俺が国王になれたはずなのだ。)
 その思いが常に黒い淀みとなって胸中に眠っていた。
 そうとも知らず、メアリーは政治を兄にまかせ、自身は「象徴女王」として敬われつつ、ゴルフだ賭け事だと遊びほうけていた。英国のエリザベスの向ける敵意も、まだ表面化することもなく、のどかに「お姉様」「妹よ」などど、社交辞令の並んだ文通が続いていた。 そうこうしているうちに、メアリーの周辺には無気味な事件が起きはじめる。
 メアリーと関わった男はことごとく破滅するという宿命の始まりだった。

 フランス人詩人のシャトラールは、戯れにメアリーがキスをして以来 ストーカーとなり、二度までも寝室に忍び込んで犯そうとしたため、メアリーの目の前で斬り殺された。
 アラン伯爵はメアリーと結婚するという妄想に取り付かれて発狂し、生涯幽閉されて終わった。

「そろそろ身を固めたらどうですか?」
 マリ伯は、それとなく探りを入れてみた。マリ伯にしてみれば、異母妹がさっさと遠くに嫁いでくれれば厄介払いになる。メアリー自身は、スペイン皇太子との再婚話に少々乗り気であったが、それを聞き付けたエリザベスが、ただちに介入した。
 「英国との友好が保ちたければ、英国貴族から夫を選びなさい」
 そして自分の愛人であるロバート・ダッドリーとの縁談を持ちかけた。
 エリザベスにしてみれば、メアリーを臣従させることができるのと同時に、長年連れ添いながらも、ついに報いることができなかったダッドリーを「女王の夫」にしてやることができる良い機会であった。 
 しかし、メアリーはきっぱりと拒絶した。そのかわり、従兄弟にあたる4歳年下のやんちゃな青年を再婚相手に選んだ。

              (つづく)


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メアリー・チューダー(ヘンリー8世の妹)Mary "Rose" Tudor, [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 1498年3月18日、メアリーはリッチモンド宮殿で誕生した。
 7歳で母を失い、14歳の時には父を失ったが、性格的にも趣味の点でもよく似ていた兄のヘンリー8世のもと、のびのびと成長し、1514年オーストリアのカール王子(後のカール5世)と婚約した。しかし同年この婚約はうやむやのまま解消され、次の相手には、34歳も年上のフランス王ルイ12世が決定してしまった。

 すでにこの時、メアリーの胸中には幼なじみのサフォーク公チャールス・ブランドンがいた。しかしこの男、臣下であるというだけでなく、結婚歴2回、離婚歴2回、婚約解消歴2回という経歴の持ち主であり、王女でなくても、家族が良い顔をするはずのない相手である。メアリーはどうせ政略結婚ならば、4歳年下の少年カールがよい、と泣いて訴えたが無駄であった。

 泣いて嫌がるメアリーの意思には関わりなく、フランスと英国との間で結婚の準備は着々と進められた。

 1514年8月13日、ルイ12世代理のロングヴィル公を相手に代理結婚の儀式が行われた。

 それは現代の我々から見ると、奇妙この上ない。
 メアリーとロングヴィル公が同じベッドに入り、裸の足と足を触れ合う事で、名義上の「初夜」を行ったのである。これによってメアリーは強制的にフランス王妃となり、華麗な祝賀会が催された。
 フランスからは豪華な花嫁衣装や宝石が届けられ、フランス大使の口を通してルイ12世直々に「沢山のプレゼントとともに、あなたの赤みがかった美しい金髪にキスしたい」と伝えてきた。
 兄ヘンリー8世そっくりの我の強いメアリーにしてみれば、耐えきれない事態であった。
 彼女は大人しくフランスに嫁ぐ代償として、兄に前代未聞の条件をつきつけた。
「もしルイ12世が亡くなって私が未亡人になったら、次の結婚相手は自分の意思で選びます。」

 同年9月、ドーバー海峡は嵐が吹き荒れて、安全な航海は無理だった。
 ようやく波も静まった10月2日、王女を乗せた船はブローニュに向けて出航したが、乗船間際、メアリーは兄ヘンリーの頬にキスをしながら「【あの約束】を忘れないで下さいね」と念を押したという。
 相変わらず海は時化模様で、14隻の船団のうち、予定通り到着したのは、メアリーの船を含む4隻きりだった。生憎の雨模様の中、船酔いでふらつきながら、メアリーはお供のクリストファー卿の従者に助けられて上陸した。

 モントルーユから待ち合わせのアベヴィーユには10日9日到着。
 深紅の帽子に、ぴったりした袖の金糸飾りをつけた深紅のドレスという、燃えるようなファッションであった。待ち受けていたルイ12世は、到着したその日のうちに式を挙げ、数週間に及ぶ祝典が繰り広げられた。
 その時、お供の女官はほとんど帰国したが、あのメアリーとアンのブーリン姉妹を含む、少数の女官だけが残った。

 ルイ12世との結婚は、たったの82日間しか続かなかった。
 同年の大晦日、ルイ12世は病没してしまい、メアリーは念願通り未亡人となった。
 王の死後40日間、メアリーは外界から遮断されてクリュニー修道院に引き籠もらざるをえなかった。
 フランスの習慣として、王妃は一月余安静にして妊娠しているか否かを判断せねばならなかったからである。
 1515年1月、メアリーは喪色の黒いベールで閉ざされた空間から、英国にいる兄に向けて手紙をしたためた。
「【あの約束】を守っていただけますか?。もしあなたが私の約束を破ることがあれば、私はこのまま出家いたします」
 新しいフランス王フランソワ1世は、再婚相手として自分の親族を紹介するとともに、もう一回ハプスブルク家のカール5世との縁談を持ち出したが、メアリーはあっさり拒否し、兄ヘンリー8世と交わした「次の結婚は自分で決める」という約束と、英国貴族のサフォーク公チャールス・ブランドンを愛している、と告白した。
 意外にもフランソワ1世は協力的だった。
 王の死後8週間後、英国からの使節が到着した。その中には愛するチャールス・ブランドも含まれていた。
 メアリーはチャールスの腕を掴むように、結婚を迫った。

 その年の5月、2人は帰国した。メアリーはルイ12世から贈られた宝石類と4000ポンドの金額をフランスに返して、前の結婚を精算した。
 5月3日、メアリーとチャールスはグリニッジ宮殿でヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの列席のもとで披露宴をあげた。
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             メアリーの肖像/作者不詳/
 

 メアリーとヘンリー8世妃キャサリンとは、仲が良かった。
 11歳の年の差はあったとはいえ、実の姉マーガレットが早くにスコットランドに嫁いでいたために、メアリーは義理の姉を実の姉妹のように感じていた。
 1516年、2人は相次いで出産する。
 キャサリン王妃の方が少し早く、2月18日に王女を出産、義妹メアリーにちなんで「メアリー」と名付けた。
(後の英国女王メアリー1世)
 メアリーは遅れること1月弱、3月11日に、長男を出産し、兄ヘンリー8世の名にあやかって「ヘンリー」と命名した。

 メアリーはしばしばキャサリンの代理を務めた。1518年フランス皇太子と姪のメアリー王女の婚約式(後に婚約破棄)にも夫婦で参加したし、2年後のフランス・カレー近郊で行われたフランス王と英国王の交流会(「金襴の陣」)にも、妊娠中だったキャサリンの代わりに出席した。
 フランス側は「キリスト教社会の薔薇…フランスに留まって欲しかった」という、惜しみない賛辞をメアリーに捧げた。

 そんなメアリーは、ヘンリー8世がキャサリンと離婚して自分の侍女に過ぎないアン・ブーリンとの結婚を望んでいると知って驚き怒った。
 そしてアンの男性遍歴をあげて、アンを非難し、フランスの公式訪問の時にも一緒行くことを拒否した。
 その仕返しに、アン・ブーリンは宮中での晩餐会で、メアリーより上座に座った。
 激怒したメアリーはアンとヘンリーの結婚式への参加を蹴った。

 しかしメアリーは1518年頃から体調を壊していた。
 最初は腸チフスであったらしいが、後に癌になったとの説がある。
 1533年6月25日、メアリーはサフォーク州のウェストホープの自宅で亡くなった。
 夫のチャールスは5月半ばに一度見舞いに訪れたきり、ロンドンに行ったままだった。
 薔薇のメアリー、時に38歳の若さであった。

 夫チャールスは妻のために、ウェストミンスター寺院でレクレイムを演奏するよう要請したが、葬式には参列しなかった。メアリーの遺体はウェストホープの自宅に一ヶ月安置された後、ベリーセント・エドマンズ教会に葬られたものの、修道院解散の余波を受けて教会は破壊され、棺は近くの聖メアリー教会に移された。
 1784年、その棺が改葬のために掘り起こされた時、遺体の歯の状態はよく、赤みがかった金色の髪2フィートあまりが残っていたという。

               参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        Tudor World Leyla . J. Raymond
        Tuder History Lara E. Eakins


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マーガレット・チューダー(ヘンリー8世の姉)Margart Tudor [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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           マーガレット/D.マイテンズ作/
           王室コレクション/ホーリールード館蔵

      
 マーガレットは1489年、ヘンリー7世の2番目の子として、ウェストミンスター宮殿で産声をあげた。

 実母エリザベス・オブ・ヨーク妃は、13歳の時に亡くなった。母の死の直後、マーガレットはかねてから婚約関係にあったスコットランド王ジェームス4世との間に代理人結婚(代理人を通しての入籍)を済ませ、王妃となる教育を受けつつ、嫁ぐ日を待っていた。

 1503年、いよいよマーガレットはスコットランドへ出発した。
 多数のお供を付き従えてバーウィックを出た花嫁行列は、スコットランドのラムトン・カーク村で花婿側の出迎えを受けた。そこではじめてマーガレットは、付添人代表のノーサンバーランド伯から、祖国の花を捧げ持ったジェームス4世を紹介された。新郎新婦はその後エジンバラへ向かい、ホーリールード宮殿で式をあげた。
 華やかな宴や馬上試合が続いた後、一段落すると、ノーサンバーランド伯ら英国側一行はスコットランドを讃える言葉を残して引き上げていった。

 しかしヘンリー7世にあてた手紙によれば、マーガレットは幸福とはいえなかったらしい。
 夫のジェームス4世は女好きであり、スコットランド人も長い間敵対関係にあった英国の王女に冷ややかだった。6人の子供に恵まれたけれど、3人は産まれて間もなく亡くなった。かろうじて皇太子のジェームス(後のジェームス5世)のみが成人後まで生き延びた。

 寂しい結婚生活も、長続きはしなかった。
 1513年8月、ジェームス4世は20万もの大軍とフランドル製最新鋭の大砲を携えて、国境を侵犯した。
 英国側の国境防衛ポイントであるノーサンバーランドのノラム城が陥落した。
 数日のうちに、付近の英国軍要塞を次々と手中に収め、そのうちの1つ、フォード城に拠点を置いたジェームスは、城主夫人をレイプした、という。

 英国王ヘンリー8世が、フランス戦線に出陣している間の出来事だった。
 夫の行為を、マーガレットはどのような気持ちで伝え聞いていただろうか。
 元々敵国同志とはいえ、両国友好のために嫁いできたというのに、夫は次々と愛人を作り、妻の祖国を蹂躙しようとしている。この時、英国側はジェームスの非道な行為に天罰が下る、と怒りの声をあげていた。

 マーガレットもまた、内心夫を突き放していたのかもしれない。

 まもなく、天罰ともいえる事件が起こった。
 スコットランド軍を迎え撃った病身のサリー伯は担架の上から指揮を取り、補佐する息子のトーマスは、祖国の守護聖人カスパードの旗を頭上に翻していた。
 両軍は国境線近いブランクストン川付近で対峙した。
 9月9日、フロッドンで激しい戦闘が起こった。見通しが悪いために大砲が効かないとわかったスコットランド兵は陣地のあった高台から、一気に平地へ駆け下りた。
  そのとたん、待ち受けていた英国軍の集中砲火を浴び、軽装歩兵の突撃に遭遇した。
 長槍で武装していたスコットランド兵は身動きできないまま、殺戮に近い大惨敗となった。
 血の海の中に、切り刻まれたジェームス4世の遺体が転がっていた。

「今なお、父から息子へと語り継がれる過酷な負け戦と、悲しい大虐殺のことをフロッドンの運命を決した戦場のことを」(ウォルター・スコット「マーミアン」1808年)

 マーガレットは夫の死についてはすぐに諦めがついたかもしれないが、幼いわが子には胸を痛めたに違いない。父の死を受けて、急遽即位した新王ジェームス5世はわずか1歳半だった。
 時の英国は、不在のヘンリー8世の代理として、王妃キャサリンが国務を取り仕切っていた。
 キャサリンはフランシスコ会僧を使節として送り、マーガレットが新王の摂政として親英政策を取るのであれば、スコットランドの独立を認める、と伝えた。
(これで息子の地位も安泰、私もこの国を支配できる。)
 マーガレットに異存はなかった。

 

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  マーガレット(右)と再婚相手アンガス伯アーチボルト・ダグラス(左)
                   作者不詳/個人蔵

 マーガレットは摂政になるやいなや、重大な失敗を犯してしまう。
 夫が亡くなって半年もしないうちに、アンガス伯アーチボルト・ダグラスと再婚してしまったのだ。
 これでは国民や貴族に「夫の生前から関係があったのではな いか?」と疑われても仕方がなかった。
 1515年10月6日、マーガレットは同じ名前の娘・マーガレット・ダグラスを出産した。
 同年、先王ジェームス4世の従兄弟アルバニー公ジョン・スチュワートがフランスから帰国した。
 スコットランド貴族達は「アルバニー公を摂政にせよ」と騒ぎだした。
 怒ったマーガレットは夫と生後半年の娘を連れ、英国の実家へ帰ってしまった。

 摂政の地位を降りたとはいえ、皇太后の権勢は衰えていなかった。マーガレットとダグラス家は、10年以上も国王をエジンバラ城に閉じこめたも同然だった。
 1527年、マーガレットはアーチボルト・ダグラスと離婚した。
 1528年、16歳になったジェームス5世はエジンバラ城を抜け出して独立を宣言、ダグラス家を政界から追放した。
 英国へ亡命したアーチボルト・ダグラスは復讐を誓って、英国王ヘンリー8世に臣従した。
 1532年11月、先制攻撃としてスコットランドがノーサンバーランドを攻撃すると、12月には報復のために英国軍2000人がスコットランドを侵略して、12の村を占拠し、2000頭もの牛と羊を強奪した。
 以来ジェームス5世は29歳で亡くなるまで、英国との戦争に苦しめられることになる。
 
 マーガレットはどうなったか?
 1527年にアーチボルト・ダグラスと離婚した直後、今度は最初の夫の遠縁にあたるメスベン卿ヘンリー・スチュアートと三度目の結婚をした。そして翌年3月3日には、娘ドロシー(早世)を出産している。
 おそらく不倫の末の掠奪結婚であろう。その14年後、1541年10月18日、マーガレットは夫の領地/メスベンで、52歳の波乱の人生を閉じた。

 強国/英国の力をバックにわが子であるジェームス5世を支配し、好き勝手に結婚/離婚を繰り返して、スコットランドを混乱に陥れた女・マーガレット。
 その軽薄な性格は孫のメアリー・スチュアート(ステュアート)に受け継がれた。
 一方、父親とともに英国に亡命したマーガレット・ダグラスはというと、現地で遠縁にあたマチュー・スチュアートと結婚して、ヘンリー・ダーンリーという軽薄な男を産んだ。
 軽薄な男と女はやがて軽薄な結婚をして、英国とスコットランド2つの国を支配したジェームス6世(英国スチュアート朝開祖ジェームス1世)が誕生する。ジェームス1世は絶対王制を目指してピューリタンと議会を敵にまわし、英国史上、ピューリタン革命という、空前絶後の大混乱を招くきっかけとなる。
                 

                    参考資料/
            The Tudor place by Jorge H. Castelli
            Tuder History Lara E. Eakins
            スコットランドの歴史 R・キレーン 彩流社
            薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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