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大貴族のルーツ①ジェーン・グレイの一族~女王エリザベスとの確執~ [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]

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 グレイ家は、もともと王家と繋がりの深い一族であった。
 エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドビルは、エドワード4世が2人目の夫だった。
 最初の夫ジョン・グレイは薔薇戦争の最中、ランカスター側の騎士だったためにヨーク側に殺されてしまった。
 エリザベスとの間に2人の男児を残した。
 母が王妃になった後、長男トーマス・グレイは、ドーセット候の爵位を与えられた。
 これがドーセット侯爵グレイ家である。

 エリザベス・ウッドビルはエドワード4世との再婚後、王女エリザベスを生んだ。
 この王女が後にヘンリー7世の妃となり、ヘンリー8世やメアリー内親王の母后となる。(ここではヘンリー7世の次女メアリーを、女王メアリー1世と区別するために、あえて「内親王」と書く)

 メアリー内親王は、後にサフォーク公チャールス・ブランドンと結婚して2子に恵まれた。
 その2子のうちの1人、長女フランシスは初代トーマス・グレイの息子ヘンリー・グレイに嫁いで、ドーセット侯爵夫人となった。16世紀英国では、妻の持っている権利や財産は(妻の血統が繋がっている限り)夫の所有となった。だからグレイ家は、王位継承権を持つフランシスと結婚することで、王家の血筋につらなったのである。ヘンリー8世の娘エリザベス(後の女王エリザベス)はグレイ一家をライバルと見なして忌み嫌い、冷たくあしらっていた。

 グレイ家とエリザベスの確執は、ヘンリー8世の時代から始まる。
 メアリー内親王は、実兄のヘンリー8世と仲が良く、王妃キャサリンの親友でもあった。
 ヘンリー8世は最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれた娘を、妹にちなんで「メアリー」と命名した。(後の女王メアリー1世である。)キャサリンと義妹メアリー内親王は実の姉妹のように親密だった。
 従ってヘンリー8世がキャサリンと離婚して愛妾アン・ブーリン(エリザベス1世の実母)と再婚したいと言い出した時、メアリー内親王は大反対してキャサリン擁護に回った。
 
アン・ブーリンとメアリー内親王との間に、根深い対立が生まれた。
 アンは仕返しとして、権勢の絶頂期にある時、ヘンリー8世にねだってペンブルック女伯の爵位をもらうと、メアリー内親王よりも上座に座った。メアリーはその時すでに結婚していて、表面上は内親王というよりサフォーク公爵夫人であり、ペンブルック女伯より下位にいたからである。

 この一件で、メアリー内親王のアン一族に対する反感は強まった。
 正嫡の内親王が、たかが下級貴族の娘に過ぎないアンの風下に置かれたのだ。
 階級こそ絶対だった当時としては当然の怒りだった。

 メアリー内親王は怒りのあまり、アンの戴冠式への出席を拒んだその直後、娘フランシスを残して、38歳の若さで急死してしまった。
 アンは戴冠式の約4ヶ月後、ヘンリー8世との間に第2王女(後のエリザベス1世)を産んだ。
 母親同士の確執は、メアリー内親王の娘フランシスとアン・ブーリンの子エリザベス王女にも引き継がれた。
 従姉妹とはいいながら、2人の交流は全くなかった。
 前述したとおり、フランシスはやがて2代目ドーセット侯爵ヘンリー・グレイに嫁ぎ、王家の血を引く3人の娘を産んだ。3
人姉妹の長女ジェーン、次女キャサリン、三女メアリーは、いずれも王位継承権を持っていた。
 そのためグレイ家は、庶子扱いで王位継承権が疑わしいエリザベス王女に対して、正統な王位継承者たる意識を持っていた。

 しかし、軍配はエリザベスの側に上がった。
 ノーサンバーランド公が擁立したフランシスの長女ジェーン・グレイは女王として即位したものの、わずか9日間で退位し、その後を継いで英国女王となったメアリー1世も跡継ぎを残さないまま早世したので、王位はエリザベスの手に渡ったのである。

 エリザベスが即位すると、とたんにグレイ家に対する報復が始まった。
 グレイ家の弟筋であるピーゴの系統が、まったく爵位を持てなかった史実から見ても、いかに冷遇されていたか想像できる。

 ところでフランシスとドーセット侯爵ヘンリー・グレイとの間には娘はいたが、爵位を次ぐ男児がいなかった。(ドーセット侯爵は、長女ジェーン・グレイとほぼ同時に処刑されていた。その時点で男児がいなかったので、爵位は次女の夫か、三女の夫が引き継ぐはずだった。)

 本来であれば、ドーセット侯爵位は、次女のキャサリンが受け継ぎ、その夫であるハットフォード伯エドワード・シーモアが名乗るはずであった。
 ところがエリザベスは2人の結婚に立ち会った神父の口を塞ぎ、書類を破棄してまで、結婚を無効にした。
 その上、次女キャサリンには父ドーセット公爵家の相続を許さなかった。

 グレイ家の子孫を事実上王位継承から追い出したのみならず、ドーセット侯爵位すら許さなかったのだ。

 さらにグレイ家姉妹が、母フランシスから受け継いだサフォーク公の領地も奪い、1571年、お気に入りの側近ニコラス・ベイコンに与えてしまった。
 しかもエリザベスは死に際し、大臣ロバート・セシルから、「王位をハットフォード伯とキャサリン・グレイとの間に生まれた息子に譲ってはどうか」という打診を受けた時、「あのあばずれと与太者の子孫になど、誰が王位をくれてやるものか」と答えたという。

 長女、次女が相次いで非業の死を遂げた後には、三女メアリーが残された。
 メアリーは、生まれつき背骨が湾曲している障害があった。背も非常に低かったという記録からすると、成長ホルモン異常の病気があったのかもしれない。しかし障害者であっても、父母や姉たちがいる間は何の心配もなかった。家族の中で愛され、育まれ、差別を知ることもなく成長した。
 8歳の時、姉ジェーンやキャサリンと一緒に、名目だけの結婚式をあげた。
 相手は従兄弟のアーサー・グレイであった。アーサーはグレイ家が没落したと見るや、エリザベス1世に忖度して、ただちにメアリーを離婚した。

 身よりを失ったメアリーは、宮殿の門番だった男やもめ/トーマス・キースという中年男性と知り合い、ひっそりと結婚した。しかし、それを、そっとしておくようなエリザベスではなかった。

 トーマス・キースは遠方の刑務所へ流刑、メアリー自身には死ぬまで自宅蟄居を命じた。
 障害ある身を世話する人さえいない状況だった。メアリーは、せめて子供の頃から身の回りの世話をしてくれた、エイドリアン・ストークと一緒に暮らさせてほしい、と懇願した。
 さすがのエリザベスも、それだけは許可した。
 さらにメアリーは投獄されたトーマス・キースを、先妻の子供が面倒を見ることを許可してほしい、との嘆願書も書いているが、こちらが認められたか否かは定かではない。

 メアリーは1578年4月20日、孤独のうちに亡くなった。33歳だった。
 メアリーが死去したことで、王家の傍流だったグレイ家は断絶したのだった。
 こうしてエリザベス1世は、国内にいた王位継承権を持つグレイ家を滅亡に追いやって微笑した。

                 参考資料/
         The Tudor place by Jorge H. Castelli
         Lady Jane byJennifer Halligan
         Lady Jane Grey by Jane Lambert
         Whos Who in Tudor England (Whos Who
         British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh 


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