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ロンドン塔〜暗き塔の物語〜 [ロンドン歴史お散歩]

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 私が地下鉄タワー・グリーン駅を出てみると、『それ』は見えた。
 ケント産の石灰岩で覆われた灰色の、頑丈な外壁。窓はほとんどなく、東西南北に一つづつそびえ立つ塔の屋上には、ユニオン・ジャックの旗が翻っている。かつてはテームズ川の水を湛えていただろう外堀も、今は一面草で覆われ、近くの住人が犬を散歩させていた。

 タワー・オブ・ロンドン。この英国を象徴する建物群は、不思議な存在でもあった。11世紀、要塞として建てられながら、王や女王の戴冠前に滞在する宮殿であり、時にはヘンリー7世の妻エリザベス・オブ・ヨークが出産場所にしたように王妃の産室として使われたかと思うと、高貴な罪人を閉じこめるための監獄でもあった。
 戴冠式のパレードはロンドン塔から始まるが、裏側には、皆が恐れた『反逆者の門』があった。水路を船で下ってきた罪人は、ここからロンドン塔内に入った。生と死、栄光と敗北が共存する場所だった。

もともとロンドン塔は、英国を占領したノルマン人の王ウィリアム1世が、現地人を威圧するために作った要塞であった。
 まず最初に核として作られたのが、ホワイト・タワーだった。1241年、塔は、白漆喰で塗られていたが、今ではすべてはげ落ちている。ただ『ホワイト・タワー』という名前のみに、かつて白かった事実を残しているのみである。
塔は白かったが、外壁はローマ風の赤煉瓦で覆われていた。その赤い壁が落日に照らされる有様は、『野獣の血で練った漆喰で固めたかのよう』だったと伝えられている。

 ウィリアム1世の時代から遡ること、約1100年前、この地はローマ帝国の植民地ブリタニアの中心都市・ロンディニウムだった。その語源は現地ケルト語のLondo(荒れ果てた地)である。ロンドンの名称も、そこから来ている。
 当時街は厚さ2・4メートル、高さ6メートル、長さ4・8キロメートルの城壁で囲まれていた。市の東南部、テームズ川にかかる橋を見下ろす場所には、川を監視するための3つの砦が立っていた。ジュリアス・シーザーは、特に東側の砦を好んだという。しかしAD61年、イケニ族の女王ブーディカ率いるケルト反乱軍が襲撃、砦内のローマ人をことごとく惨殺し、砦は跡形もなく焼け落ちてしまった。

 時を経ても、その場所が軍事的に重要な地点であることに変わりはなかった。ウィリアム1世が目をつけたのも、ロンドン市とテームズ川を監視するには相応しい場所だったせいである。
 ウィリアム1世は、英国支配のために全国に要塞を作った。テームズ川の畔にも、支流のフリート川との合流地点に建てられたモンフィシェとベイナードの2城があったが、いずれも木造の簡単な作りであり、都市を制圧するためのより頑丈な要塞が求められていた。

 第一期工事は1078年に終わったが、1091年、暴風雨のため損壊したので、さらに修理拡張された。工事はウィリアム1世、ウィリアム2世、ヘンリー1世の三代に渡って続いた。後にプランタジュネット王朝に入り、関門、防壁、櫓などが付け足された。 
 ここが要塞と同時に宮殿として使われるようになったのは、スティーブン王の時代だった。1140年、スティーブンはここで盛大にハロウィンを祝ったという。

 12世紀まで、ロンドン塔を取り囲む人家のほとんどは木造であった。1189年、耐火のために、家は石造り、屋根は瓦葺きで作るよう命令が出されているが、安価なためか、17世紀に入るまで、木造家屋が主流だった。

 ロンドン塔からやや上流にあるロンドン橋もまた、最初は木造であった。石造りの本格的な大橋が完成したのは、1209年のことである。この他、1135年、木造だったために焼け落ちたセント・ポール寺院もまた、石造りとなって再建されている。

 中世のロンドン塔は、石ばかりの殺風景ではなかったらしい。今はがらんとして見える中庭には、馬小屋が並び、テントが張られ、塔で働く従僕達のための小屋も建ち並んでいた。外からは魚屋や肉屋、パン屋などが商品を納めるために出入りした。また野菜や薬草などを栽培する畑もあった。渡り廊下には風よけのための極彩色のカーテンもつり下げられていた。
 ロンドン塔を出て、ローマ時代の城壁を出てしまうと、人家は途絶えてしまう。ロンドンが城壁の外にまで拡張していくのは16世紀以降のことだった。
                 
 ロンドン塔の入口に立つと、タワー・ブリッジが間近に見える。この橋の起源はAD1世紀、ローマのクラウディウス帝により作られた。それから約1000年後1014年、ウェセックス王国のエゼルレッド王が、バイキングとの戦いの最中、敵の進路を断つために、この橋を落とした。『ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた』という有名な童謡は、この時の戦闘を歌ったものと言われている。やがてバイキングの撤退により、橋はまた再建されるが、1212年、川のパレードを見に押し掛けた群衆を乗せたまま、橋の両側で火事が起きた。

 逃げ場を失った人々が右往左往しているうちに、木造の橋は焼け落ちた。水に落ちた人々が救援の船に殺到したため、次々と船が転覆し、3000人もの死傷者が出た。これを教訓にして、橋は木製ではなく、石造で再建されたのだった。

 ロンドン橋の南側は、ロンドン塔の入口に通じている。『反逆者の門(トレーターズ・ゲート)』という。かつては反逆者の門に面する橋の入口には門があり、その屋上には、ロンドン塔内で処刑された罪人の首が何十個も晒されていた。生首は保存のためにコールタールを塗られた後、槍の先に刺して放置された。

 ロンドン塔が高貴な人の監獄として使われたのは、1100年スコットランド王フランバードが最初であった。その後も何人かのスコットランド王が囚われ、100年戦争が始まると、フランス王やオルレアン公などが監禁
されたという。また、王位を剥奪された元の国王・・リチャード2世や、エドワード5世もここに閉じこめられた後、暗殺されている。
 しかしこの塔で一気に処刑者が増えるのは、ヘンリー8世の時代だろう。1535年にはトーマス・モア、1536年には第2王妃アン・ブーリン、1540年には王の寵臣クロムウェル、その翌年にはソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットに第5王妃キャサリン・ハワードといった具合で、毎年のように処刑が行われた。
 王妃は戴冠式の前に、クイーンズ・ハウスという塔内の館に滞在するが、処刑を待つ間も同じクイーンズ・ハウスに監禁されていた。その正面は処刑場のタワー・グリーン、その向かいが遺体を葬るための聖ピーター・アドビンキュラ教会である。教会の内部は、プロテスタントだけあって、実に質素で飾り気がない。

 処刑された者のうち、もっとも悲惨だったのは、ソールズヴェリ伯爵夫人マーガレットだった。マーガレットは前王朝ヨーク家の生き残りで、エドワード4世の姪にあたる。(王弟クラレンス公ジョージの娘)
ヘンリー8世は、ある日突然伯爵夫人を処刑する
よう命じた。驚愕した伯爵夫人は処刑台の上で執行人を突き飛ばし、飛び下りて脱出しようとした。しかし捕らえられ、暴れ回るのを、めった斬りにされて殺されたという。

 20世紀に入ってもなお、ここでの処刑は続けられた。1914年、第一次大戦中、ドイツ側のスパイとして、ロディという人物が銃殺された。第二次大戦中にはナチス・ドイツの宣伝大臣ルドルフ・ヘスが監禁されている。

 またロンドン塔は、なぜかロンドンの最初の動物園でもあった。象、ライオン、ヒョウ、北極熊などがいた。北極熊は長いチェーンがつけられていて、テームズ川から魚をとることもできたらしい。
 16世紀から17世紀にかけて、『熊いじめ』という野蛮な見せ物が流行した。熊に猟犬やライオンをけしかけて、戦わせるというものだった。ジェームス1世は特にそれを好み、ロンドン塔内で熊とライオンを戦わせては、喜んでいた。

 ロンドン塔の地下では、トンネルで『タイガータバーン』というパブと繋がっているという。そのパブには、昔から猫のミイラが保存されている。伝説によれば、その猫は、即位前のエリザベス1世が塔内に監禁されている時、イライラして壁に叩きつけて殺してしまった猫だという。いくら何でもひどい話だと思う。

 かつては外壁を取り囲んでいた幅30メートルの壕は、1843年、ヴィクトリア女王の命令で水を抜かれ、牡蠣の殻を使って5メートルもの厚さに埋め立てられている。今はすっかり緑地と化した元壕跡の前に立つと、近所のおじさんと犬が走り回っている情景が見えた。

 

                参考資料/
          ランドマーク世界史/ロンドン塔 講談社
          テムズ河 その歴史と文化 相原幸一 研究社
          ロンドン~ある都市の伝記~ヒバート著 朝日新聞社

 


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「エリザベス」はどこからきたの?/名前の由来について [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 日本人にとって、名前は名前以上の神秘的な存在であった。
 本名とは、本人といえども滅多に口にしなかった。ましてや他人に本名を尋ねるという行為は、大変重要な意味を帯びていた。男性が未婚の女性に名前を聞くことは、即プロポーズの意味があった。
 下って平安朝、本名は正式に官職を任命した時だけ、台帳に記されるものだった。
 普段はあだ名や役職名、住んでいる場所や立場などで呼ばれた。
 

 ヨーロッパではどうだったろうか。カトリック諸国、例えばスペインやフランスでは、洗礼の際に聖人の名をつける事が多い。例えば、マリー・アントワネット(マリア・アントニア)やルイ・アントワーヌ・サン・ジュストの場合、アントワネットもアントワーヌも、聖書外伝である「黄金伝説」に出てくる聖者アントニウスにちなんだ名前である。
 フェリペ2世とフランス王女イザベラとの間に生まれた第1王女イザベラ・クララ・エウフェミニアは、「イザベラ」は実母の名から、クララもエウフェミニアも、ともに聖女の名であった。
 メアリーが聖母マリア、エリザベスが聖母の従姉妹エリザベツ、アンが聖母の母アンナなど、新約聖書のメジャーな人物にあやかった名前である。

 英国ではどうだったか。英国名は、肉親や恩人の名にちなむことが多く、聖人に由来することは少ない。とえばヘンリー7世第2王女メアリーの長女は、「フランシス」である。これはメアリーの再婚に反対したヘンリー8世を説得したフランス王フランソワ1世に感謝を込めた命名だった。ヘンリー8世の第1王女メアリー(後の女王メアリー1世)の名も、叔母メアリー王女から貰った名であった。

 また、ヘンリー8世側室メアリー・ブーリンの名も、同じメアリー王女にちなんだものだった。メアリー王女の姉、マーガレット王女は、父方の祖母マーガレット・ボーフォートから来た名前だった。

 ではエリザベスはどこから来たのだろうか。
 最初の「エリザベス」は、エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルである。
 彼女の母の名はジャクリーヌ(ジャケッタ)なので、おそらく 聖女エリザベス から貰った名である。その娘/エリザベス・オブ・ヨーク(ヘンリー7世王妃)の名は明らかに実母にちなんだ命名である。
 女王エリザベス1世の名は、祖母のエリザベス・オブ・ヨークと、曾祖母エリザベス・ウッドビルにちなんで付けられた名であった。
 また、生まれてすぐに亡くなったヘンリー7世末子のキャサリンは、スペインから嫁いできていた皇太子妃キャサリン・オブ・アラゴンにちなんでいる。
 キャサリンの由来は、アレキサンドリアの聖カテリーナである。

       「名前の由来となったキリスト教の聖女たち」

          聖カタリナ(伊/カテリーナ、仏/カトリーヌ、英/キャサリン)
カタリナはローマ帝国時代、エジプトのアレクサンドリアで殉教した聖女で、聖母子の幻想を見て、赤ん坊のキリストから指輪を与えられ「神秘の結婚」をした、という伝説がある。画面向かって左、左手を出して赤ん坊キリストから指輪をはめてもらっているのがカタリナ。
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    (聖ヨハネの祭壇画の一部「聖カタリナの神秘の結婚」ハンス・メムリンク作
     1479?〜1479?年で、メムリンク美術館蔵

               聖エウフェミニア
 紀元4世紀、ギリシャ生まれの聖女。異教の儀式への参加を拒んだために、ノコギリ付きの車輪で引き裂かれたり、凶暴な熊のオリに放り込まれたりしたが、奇跡によって助けられる。最後は剣で刺されて殉教した。

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       スルバラン作「聖エウフェミニア」1636年
        プラド美術館所蔵


            聖クララ(伊/キアーラ
 12世紀の聖女。イタリア/アッシジで、聖フランチェスコを助けて 修行に励んだ修道女。現在アッシジの「聖キアーラ(クララ)教会」に遺体が安置されている。

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            ジオット作「聖キアーラ(クララ)」                

                 
         聖エリザベート(英/エリザベス)
 エリザベートと呼ばれる聖女は2人いる。一人は新訳聖書に出てくる聖ヨハネの母、聖母マリアの従姉妹にあたる聖エリザベート。もう一人はハンガリー王女で、貧者に施しをして尊敬を集めていたが、夫に見つかりそうになった時、奇跡によって施し物が薔薇の花に変わったという。

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         スルバラン作「ハンガリーの聖エリザベート」
         1645年頃/プラド美術館蔵

                参考資料/

          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place Jorge H. Castelli
          平安の春 角田文衛 朝日新聞社

 


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エリザベス女王から愛人を奪った女/レティス・ノウルズ [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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               レティス・ノウルズ
               バ—ス・コレクション 

 レティスは官能的な美女と伝えられている。しかし現代の感覚で肖像画は見ると、当時流行った化粧のせいで、かなり奇妙な感じがするのを否定できない。
 白粉で顔を真っ白に塗って、下唇にぽってりとル—ジュを塗っている。眉毛は薄い方が良いとされていたので、とても薄い。首の回りにはお皿のように大きなラフ襟… 
 しかし顔立ちをよく見ると、
切れ長のセクシーな瞳、細い鼻筋、どこか東洋的美を漂わせる端麗な顔立ちは、化粧を落としてみると、ルーカス・クラナッハの描く美女に似ていたのではなかろうか。

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聖母子/ルーカス・クラナッハ1529年
バーゼル美術館蔵

 レティスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの姉/メアリー・ブーリンの孫だった。
 女王エリザベス1世にとっては、従姉妹の娘にあたる。
 アンとメアリーは姉妹とはいいながら、国王の寵愛を争うライバル同士であった。
 ヘンリー8世は美貌のメアリーではなく、アンを選んで結婚した。
 メアリーは既にキャリーという男の妻だったからだ。人妻の身で、国王にも身を任せていたのである。
 そんな因縁を持った姉妹の血を引くのが、女王エリザベスとレティスであった。

 レティスは1562年、この当時の感覚としてはやや遅い、22才で初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーに嫁いだ。
 1572年、夫エセックス伯は1200名を率いて、アイルランド反乱鎮圧に出撃した。
 
4年後の1576年9月22日、反乱は完全に終結しないまま、エセックス伯はダブリンの地で赤痢に罹り、亡くなった。
 夫が戦場に行っている間、レティスにはある「情事」の噂がつきまとっていた。

 夫が不在中、レティスはテムズ川の岸辺にあるダーラム・ハウスに住んでいた。
 近所には、女王エリザベスの愛人レスター伯ロバート・ダッドリーの屋敷があった。
 宮中では顔見知り程度に過ぎなかった2人が急速に接近して人の噂になり始めたのは、レスター伯がケニワースでの女王御幸の祭典に着用するために、
ダーラム・ハウスに礼服を借りに来て、レティスが応対に出た事がきっかけだったという。
 当時の中傷パンフレットには、レスター伯と不倫していたレティスは、夫が一時帰国する寸前、愛人の子を堕胎していた噂が載っていた。
 真偽のほどは不明である。しかしレスター伯が、女王の愛人という危険な立場も忘れて、レティスに惚れ込んだのは事実であろう。
 その時点で、レティスは夫との間にペネロープ、ロバート(後の第2代エセックス伯/エリザベス1世の愛人、後に処刑)、ドロシー、ウォルターという4人の子供をもうけていた。

 1575年スペイン人デ・グアラスの報告によれば、レスター伯とエセックス伯はアイルランド問題をめぐって深い対立があったという。
 女王エリザベスは寵愛するレスター伯の言うがままに、エセックス伯のやり方を非難し、口を挟んできたからであった。
 1576年、エセックス伯はダブリンで赤痢のために亡くなったが、巷では「レスター伯が暗殺したのではないか」と囁かれていた。

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女王の愛人レスター伯ロバート・ダッドリ—
ニコラス・ヒリヤ—ド作/ナショナルポートレートギャラリー

 夫の死後約2年が経過した1578年9月21日、レティスとロバート・レスター伯はレティスの父の立ち会いのもと、ひっそりと再婚した。新郎は先妻を事故で失っていたので、再婚だった。先妻の死もまた、陰謀による暗殺ではないか、と噂されていた。
 女王エリザベスは2人の結婚に驚き、激しく怒った。
 「まさかロバートがレティスと再婚なんて…私は一言も聞いていない!ロンドン塔へ投獄しなさい!」
 これには周囲も強く反対した。2人は結婚歴はあるが今は独身であり、また王族でないので、結婚を女王に申告せねばらない義務もなかった。それを無視して投獄することも不可能ではなかったが、感情的過ぎる行為だった。「女王が嫉妬した」と国民の笑いの的になるのが関の山だった。

 1579年、レティスはレスター伯の唯一の息子を産む。父親と同じ「ロバート」と名付けられた。この少年は、デーンビー男爵の称号を与えられながら、わずか5才で亡くなってしまった。

 後に女王エリザベスはレティスの長男/第2代エセックス伯を愛人にしたものの、相変わらずレティスを無視し続けた。愛人の頼みに折れて、何度かレティスと会う約束をするが、途中で気が変わって約束を破っていた。あるパーティー会場で、レティスは300ポンドもする高価な宝石を持参して女王に献上すべく待機していたが、結局会うのは取りやめとなってしまった。
 しばらくして、エリザベスは自分の依怙地さを恥じたのか、レティスを招いた。
 レティスは万感の思いを込めて、遠縁にあたる女王の手と胸に接吻し、抱きしめた。
 女王エリザベスもまた、レティスを抱きしめて接吻し返したという。

 1585年、ロバート・レスター伯はオランダにおける対スペイン戦に派遣され、翌年の1月、オランダ総督に任命された。その頃から、レティスはまた、別の男性と浮き名を流し始める。
 今度は当時の主馬頭(しゅめのかみ/女王の馬を管理する長官)だったクリストファー・ブラントがお相手だった。
 1588年9月4日、レスター伯が亡くなると、翌年の7月にはすでに
クリストファー・ブラントと再婚している。しかし3度目の夫のブラントは、第2代エセックス伯が没落してクーデターを起こした時、共謀者として処刑された。レティスは長男と3人目の夫を同時に失ったのだった。

 レティスと最初の夫との間に生まれた娘のペネロープは、英国1の美女との誉れ高かった。
 ロバート・リッチなる男に嫁いだが夫婦仲は悪く、ペネロープはフィリップ・シドニーと不倫の愛に陥った。
 シドニーが亡くなった後は、マウントジョイ卿と愛し合い、夫のリッチが離婚に同意したにも関わらず、ジェームス1世王の怒りを買って再婚を禁じられた。
 そのため、ペネロープは
マウントジョイ卿の愛人のまま生涯を送り、その墓はただ名前のみを記した粗末なものであった。

 3人の夫の死を見送り、息子たちを失い、娘の不幸な結婚を見届けてもなお、レティスは生き続けた。
 そして1634年、当時としては驚異的な95才という長寿を全うした。
 すでに女王エリザベスは崩御し、次のジェームス1世すらなく、時代は動乱のチャールス1世の治世を迎えていた。

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   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス ストレイチー著 中央文庫
ルネッサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社

 


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ヘンリー8世の愛人達②メアリー・ブ—リン [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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メアリー・ブ—リン
(ホルバイン作)

メアリー・ブ—リンの家系図
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 メアリーは映画「ブ—リン家の姉妹」の中で、華やかな姉アンの影に隠れた、目立たない存在として描かれている。史実では、どうだったのだろう?
「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)

 
 実をいうと、メアリー・ブーリンは、チューダー王朝前半を代表する美女といっても過言ではなかった。
 バランスの取れたふっくらした顔、青い瞳、明るいブロンド。どれを取っても、当時の美意識に合っていた。
 姉妹のアン・ブーリンの冴えない容姿とは対照的であった。

 実は女王エリザベスの母として有名であるにも関わらず、アン・ブーリンの出生年ははっきりしていない。1501年という説もあれば、1507年という説も ある。最近ではアンの1507年出生説が有力なので、その姉妹のメアリーは当然それより遅い、1508年以降または以前出生という事になる。(一般的には メアリーが姉とされているが、妹という説もある)
 2人の兄であるジョージは1503年生まれなので、それ以前ではありえない事になるが、いずれにしても諸説あって、未だに確定していない。
 出生年が不明なのは、それだけブーリン一家が些末な貴族だったことの現れではなかろうか。

 ともあれ、当時一家は居城であるヒーヴァー城に住んでいた。
 メアリーとアンの姉妹はそこで生まれ、育った。1512年父のトーマスが在フランス大使に任命されたため、姉妹もまた父についてフランスへ赴いた。
 ここでまた、ブーリン家について謎が生まれてくる。なぜかフランスで、ブルゴーニュ公女マルグレーテのお側付き女官として、部屋までもらったのはメアリー ではなく、アンだったのである。

 研究家も「こういった場合は、姉が優先されるのが一般的である」といっている。
 英国史研究家の石井美樹子氏は、著書「薔薇の冠」の中で、「メアリーがフランス王妃に嫌われたからではないか」と疑問を呈している。

 しかし、これには妥当といえる理由があった。
 父トーマスは、1520年、メアリーをウィリアム・キャリーなる24歳の青年に嫁がせてしまったので、独身でフリーの娘はアンだけだったのである。

 もともとブーリン家は13世紀まで小作農の家柄であったが、結婚によって領地を増やし、トーマスの父の代で、36もの領地を持つ伯爵家の相続人を妻に迎 え、格段の飛躍を遂げていた。ウィリアム・キャリーは、高位の貴族ではなかったものの、英国王ヘンリー8世の遠縁であり、側近でもあった。
 花嫁のメアリー12歳。新郎キャリーは24歳。
 当時の英国では、珍しくもない政略結婚である。
 あのヘンリー7世の母、マーガレット・ボーフォートも12歳で嫁ぎ、翌年には身ごもり、夫が戦死したと同じ年、わずか14歳でヘンリー7世を産んでいる。

 2人の結婚式は、父トーマスが帰国するわずか前に行われた。
 その4年後、夫妻の間には長女キャサリンが生まれた。
 翌年、ウルジー枢機卿の邸宅/ヨーク・ハウスのパーティーでは、メアリーは妹のアンとともに、深紅のドレスに宝石を飾った白いヘッドドレス姿で、華やかに参加した。
 いつ頃、ヘンリー8世がメアリーに目を付けたのかは定かではない。あるいは、夫のウィリアムとの間で、何らかの取引があったのかもしれない。

 1525年、メアリーが「ヘンリー」という、ヘンリー8世によく似た男の子を出産する直前、国王から領地を与えられている。しかし、愛人エリザベス・ブラントとの間にできたヘンリー・フィッツロイが国王の庶子として認知され、リッチモンド公の称号が与えられたのに較べて、認知はされなかったようだ。
 というのも、その頃ヘンリーは、アン・ブーリンとの結婚を画策していたからである。アンと結婚しようと思っているのに、アンの姉でもある人妻メアリーに子供を産ませた事実が公になっては困るからだ。
  
 1528年、夫ウィリアム・キャリーが亡くなり、メアリーは未亡人となった。
 メアリーはすでにヘンリーの愛人として権勢を持っていたアンに、亡夫の姉エリノア・キャリーを聖イーディス修道院長に就任させてくれるよう頼んだ。
 と同時に、国王の庶子である息子ヘンリーを、アンを後見人として育てて欲しいと願い出ている。こうした事実からも、メアリーが夫の出世のために、あえてヘンリー8世の求めのままに身を任せたのではないか、と推測する事ができる。

 アンは姉メアリーに嫉妬した。昔と違って、美貌の姉は今や独身だった。 アンはさかんにヘンリーに向かって、姉の悪口を書き連ねた手紙を送った。
 1534年、メアリーはハンフリー・スタッフォードという、国王付き兵士だった男と再婚した。今度こそ、誰に命令されたわけでも、取引でもない、メアリー自身の意志であった。
 しかし、独身のメアリーを政略結婚させるつもりであったブーリン一族は怒った。とりわけすでに王妃になっていたアンは、「平民の義兄」など受け入れるはずもなく、メアリーともども宮中から追い出した。そのお陰で、ブーリン一族が根こそぎ没落した不幸に巻き込まれる恐れから逃れた。
 アンが王妃となる代わりに恋人との結婚を諦め、最後には処刑されたのとは対照的に、メアリーは貧しいながらも慎ましく、愛を全うした。

「would rather beg my bread with him than be the greatest queen christened. My husband would not forsake me!"」
「聖別された王妃になるより、彼との生活の方が欲しい。夫は私を見捨てたりはしません。」
(メアリー・ブーリンがアン・ブーリンに結婚を反対された時、言い返した言葉
 「ロジャー・パーソンズ/リンカシャーの人々の世界」より)
 
 この言葉は、アンの人生と比較してみると、非常に皮肉に響く。

 最初の夫との間に生まれた長女キャサリンは、ヘンリー8世の第4王妃クレーフェのアンに侍女として仕え、やがてノウルズ卿に嫁ぎ、祖母の美貌を受け継いだ美女レティス・ノウルズが誕生した。
 この家系からは、名門エセックス伯家が出て、レティスの孫娘フランシスが大名門サマーセット公家に嫁いだことから、21世紀の現代にまで、メアリーの血筋は受け継がれたのである。
 アンの血筋がエリザベスの代で途絶えたのとは、対照的である。

       

                 参考資料/
          Tudor Bastard by Heather Hobden
          The Tudor place by Jorge H. Castelli
          The Tudor History by Marilee Mongello
          薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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愛欲のルネサンス④露出狂 [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

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ロドヴィコ・カッポ—ニの肖像
ブロンツィ—ノ作/フリッツコレクション/NY
 16世紀特有の、男性のシンボルを強調する「ブラゲッド」は、中世ドイツで生まれたファッションだった。
 ドイツでは「ラッツ」フランスでは「ブラゲッド」、英国では「コッドピース」の名で呼ばれた。
 その前の時代、15世紀半ばではすでに、男性は足に密着するタイツにウエストまでしかない短い上着を着ることで、局所を強調する傾向にあった。

 1444年のチューリング年代記によれば、「男達もこの時代短い上着をつけていたから、陰部は丸見えだった」あまりにもモッコリしていたために、女性とダンスをしている時など、相手は嫌でもその部分に目がいってしまったという。

 やがて自然体でモッコリさせるだけでは飽き足らなくなり、同時に薄いタイツだけでは陰部を保護しきれなくなると、男達は作り物の陰部「ブラゲッド」を下げるようになった。
 目立たせるために、服やタイツと違う色の布で作ったブラゲッドに、色とりどりのリボンやレースを飾る方法もあれば、形は実物に似せているが詰め物をして、相当大きく見せる方法もあった。
 エッジスハイム年代記によれば、タイツはお尻に食い込んで割れ目がはっきりと見え、前に回ればブラゲッドが「鋭く前方に突き出ていて、テーブルの上にのっかったほど」であった。
「そういう姿で人々は皇帝、国王、領主、紳士、淑女の前に行った」
 一方、女性の方も負けずに胸を剥き出しにしていた。

 政府は女性の胸丸出しもブラゲッドも取り締まろうとやっきになっていた。
 ニュールンベルク市議会の布告によれば
「卑しくも当市の市民たる者は、ズボンの袋を隠さず剥き出しにして、大っぴらにこれ見よがしに下げてはならない。陰部とズボンの袋を隠して、剥き出しにならないように作らせて、身につけなければならない。」
 ベルン市では、男が陰部もブラゲッドも露出してはいけない、という法律を、1476年から1487の11年間に6回も改正したが、流行熱が冷めるまで、いっこうに効き目がなかった。

 16世紀に入ると、貴族や国王まで、当たり前のものとしてブラゲッドをつけるようになる。
 シェークスピアの「ヴェローナの2紳士」は、ヴェローナに住む2人の青年がミラノの大公に仕えるうちに、2人一緒に大公の姫君に一目惚れして、置き去りにされた婚約者が、男装をして追いかけてくるという、ドタバタ劇である。
 その第二幕、婚約者ジュリアが男装をしようとするシーンで、こんな会話がある。

 
 英国王ヘンリー8世も、流行に合わせてブラゲッドをつけている。
 膝丈の上着の、下の方から袋というより、折りたたんだ帯に近い形で覗かせている。
 しかし色はそれほどハデなものではなく、白っぽい上着の色とさほど差違はない。
 (下の画像/ブラゲッドをつけたヘンリー8世/ホルバイン作/1536年)
              
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 一方1532年頃に書かれたカール5世の肖像画は、密着した短パンとタイツの上に、
カバーをかぶせたようなブラケットがはっきりと見える。

 ブラゲッドをつけたカール5世(下の画像)ティツィアーノ作/プラド美術館蔵/1532-1533

              スクリーンショット 2019-11-04 18.01.54.png

 一方、このページトップにある1551年作イタリアのロドヴィコ・カッポーニの肖像画
では、真っ黒な上着の間から、白いブラゲットが付きだして見えている。
 1550年代に描かれたフィレンツェの肖像画では、なんと小さな子供までつけていたことがわかる。
 いかにこの流行がヨーロッパを席巻したかよくわかるが、何とも奇妙な光景である

 

                   参考資料
             風俗の歴史 フックス著 光文社 
             Tudor & Elizabeth portraits

 


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愛慾のルネサンス③アソコ [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

愛慾のルネサンス③アソコ
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 16世紀のヨ—ロッパ人は自分の妻を褒めちぎった。
 「愚妻」などとへりくだったりしない。他人に向かっても恥ずかしいほど自慢した。
 「赤いイチゴで飾られた素晴らしい手まり」「念入りに作られた白い腿」
「女の体を可愛らしく飾る、黄金色の、ちぢれた絹のような産毛」(何処の部分を褒めているか、勝手に想像して下さい)
 中世ドイツの卑猥な民謡に「白い野バラ」という作品があるが、笑えるというか、かなりシュールな内容である。

「この世には不思議なことがたくさん起こりますが、世間の人はそんなこと、信じようとしません。」
 これはホントの話ですよ?で、物語は始まる。

 あるところに1人の若い娘がいて、白い野バラを大切に育てていた。
「ものを言えない唖(おし)の口に、ある植物と入れますと、うまくしゃべったり、話をしたりするという、そういう力を持った植物がこの世にあるということは、世間の人がよくご存じです。」
 その通り、娘がいつものように花の世話をしようとしゃがんだところ、魔法の草が股間に入り込み、あら不思議、娘の股間がモゾモゾしたかと思うと、女性の秘所であるアソコがしゃべり始めたのである。

「あなたはあなたの体の中に、立派な部屋を持っておられます。でも、私に対して、感謝も好意も示されませんわ。」

 娘はびっくりした。
「私がおまえの声を聞くなんて初めてだ!」

 アソコは娘が大事に扱ってくれないのを、怒っている様子だった。
「男の人がどこでもあなたに言い寄るのは、私というものがあるおかげですわ!あなたが万が一私を失われたなら、あなたの値打ちなど無くなってしまうでしょう。」

 娘も怒って、アソコに言い返した。
「男の人があたしの言い寄るのはおまえのおかげだって?そんなの信じられないわ。男の人は私を美しいと思うからよ。私の顔が見たい、私に奉仕したいって、たえず噂するのを私は聞いている。誰がおまえなんか褒めるだろうか。おまえの顔はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開けている。もし男の人におまえの顔を見せねばならないなら、恥ずかしくて穴にでも入りたいわ。」

 するとアソコは「怒りのためにちぢれ毛を逆立てて」
「私のどす黒さはいやらしいものではありません!。その色からいって、男の人には気持ちがいいものです!。私はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開いています。それが私の姿でしょうよ。ご主人様、あなたの顔はなるほどバラ色でいきいきしています。しかし全ては私あってのあなたでございますわ。」

 娘は股間をのぞき込んで、言い返した。
「憎らしい!いい加減にお黙り。まるで海の怪物みたいに毛深い呪われた黒いお化け!おまえは何て嫌らしい形に作られたの。私からサッサと出てお行き!」

 そして両者は喧嘩のあげく、アソコは娘から出て行ってしまった。
 娘はせいせいして、いつも自分を口説いている男のところへ行き、アソコが出ていったことを話した。
 男はがっかりして、世間に言いふらした。娘は「アソコのないヤツ」だと国中の笑い者になった。
 一方、出ていったアソコの方はというと、いつもガマガエルと間違われて踏んづけられたり、石を投げられたり、自分の姿を見てもらおうと男性の側に行くと、蹴飛ばされる有様だった。
 アソコは軽率に出てきたことを嘆き、娘は何とかしてアソコにもどってきて欲しいと思った。両者は野原でバッタリ出会い、懐かしさのあまり抱き合って、再会を喜んだ。

「そこで娘さんに忠告しました。アソコは粗末にしてはなりません。私(語り手)は娘さんとアソコに頼まれましたので、元の場所に戻してあげました。」(ハーゲン「冒険全集」より中世ドイツ民話「白いのバラ」)

 フランス宮中記録係ブラントームの書き記した噂話によれば、アンリ2世王妃のカトリーヌ・ド・メディシスは、美しい侍女たちを裸にして眺めては、四つんばいにしてお尻を叩いたという。ある時はドレスを着たままの侍女のお尻だけを露出させ、平手で叩いたりした。やがてそれでは飽き足らなくなり、鞭で叩くようになった。
 ブラントームによれば、カトリーヌは子供の頃母親に鞭で叩かれるなどの虐待を受け、それが原因で他人を叩くことに快感を覚えるようになったという。
 しかし、カトリーヌの実母マドレーヌ・ド・ラ・トゥールは出産後すぐに亡くなっているので、この話は捏造か、または養育係の乳母のほら話だったのかもしれない。

 カトリーヌには他にも変質的な噂が多い。
 夫のアンリ2世にはディアンヌ・ド・ポワチエという年上の愛人がいた。
 カトリーヌは何故ディアンヌが夫を夢中にさせるのか知りたくて、わざわざディアンヌの部屋の天井裏に忍び込み、天井に穴をあけ、2人が絡み合っている様子を観察したと伝えられている。
 王妃のようにゴテゴテ着飾った人間が、屋根裏で音もなく気が付かれずに歩くという、そんな忍者のような真似ができたかどうか、はなはだ疑問である。

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ヘンリー8世の愛人たち①エリザベス・ブロント [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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ヘンリー・フィッツロイ/オーフォード伯コレクション

  1、エリザベス・ブラント
    Elizabeth Blount
   (1502~1539
           
 上の版画、何となく目元かキムタクっぽい少年…実はヘンリー8世の息子である。フィッツロイという単語は、古語で「王の息子」という意味がある。「ヘンリー・フィッツロイ」という名前は個人の洗礼名であるのと同時に、「王の息子ヘンリー」という生い立ちを意味していた。
 皇太子としてエドワード(後のエドワード6世)が生まれるまで、彼はヘンリー8世のたった一人の息子だった。周囲からは「王位を継ぐかも知れない」と密かに期待されていた。

 しかし、母は当時王妃だったキャサリン・オブ・アラゴンではない。
 ヘンリー・フィッツロイを生んだのは、ヘンリー8世の愛人エリザベス・ブロントという若い宮廷女官だった。
 エリザベスは1512年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女見習いとして、宮中へ上がった。 わずか10歳だった。貴族の娘が行儀作法を学ぶために、幼くして宮廷に使えるのは珍しくなかった。行儀作法だけでなく、大貴族とのコネクションも作れるし、あわよくば玉の輿に乗れるかも知れない!…そんな期待を込めて、親達は娘を宮中に送り込んだ。
 
 父のジョン・ブラントは国王付きの護衛(King's Spears)だったので、その関係から王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。
  1514年、キャサリン王妃は王子を産んだが、一月もしないうちに王子は亡くなってしまった。
 エリザベス・ブラントは、悲しむ王妃を慰めるために唄い踊った、という。
 時にはヘンリー王とペアを組んで踊ることもあった。ヘンリー8世は、しだいにエリザベスに惹かれていった。
 実はヘンリーの愛人はエリザベス・ブラントが最初ではなかった。
 エリザベスの友人でもあるブライアン家の娘(エリザベス・ブライアン)は、いち早くヘンリーの愛人となり、降るような贈り物(ダイヤモンドの首飾りにミンクのコートなどなど)の他、母親にまで500ポンドもの大金が贈られていた。
 エリザベス・ブラントもまた高価な贈り物とともに、父ジョン・ブラントの地位が護衛(King's Spears)から、王の寝室付き護衛官(Esquire of the Body)へと出世した。
 1518年10月、愛人となったエリザベス・ブラントとヘンリー8世とともに、メアリー王女(後のメアリー1世)とフランス皇太子との婚約式に出席した(後に婚約解消)
 キャサリン王妃は、ちょうど7回目の妊娠中で、大事をとって静養中だった。
 エリザベスはヘンリー8世のためだけに唄い、踊った。その時、すでにエリザベスはヘンリー8世の子を身ごもっていた。
 翌年1519年6月15日、エセックス州のジェリコ修道院で、男の子が産まれた。
 父の名にちなんで、「ヘンリー・フィッツロイ」と名付けられた 。
 ヘンリー8世はしばしばエリザベス母子を訪ねては、「ジェリコに行ってきた!」と冗談交じりに嬉しそうに語っていたという。
 しかし、そんなヘンリー8世の愛も長続きしなかった。
 やがて彼の愛情はエリザベスから、ブーリン家の姉妹メアリーとアンへと移っていった。
 そのため、エリザベスはギルバート・タルボーイズという男との結婚を強要され、お払い箱となってしまった。ルバートはエリザベスを妻に迎える代償に、ナイトの称号とリンカシャー保安官に任命された。
 1525年、エリザベスは夫について、リンカシャーヘ移り住んだ。

 一方エリザベスの産んだ「ヘンリー・フィッツロイ」は国王に引き取られ、リッチモンド公の称号を与えられた。皇太女(Princess of Wales)だった異母姉メアリーに次ぐ王位継承者と見なされ、「王子」と呼ばれていた。
 エリザベスは1530年夫ギルバード・
タルボーイズに先立たれ、息子を頼って宮中へ戻ってきた。
 しかし、そこにはすでに新たな愛人として、アン・ブーリンが権力を握っていた。
 アンは王妃キャサリンやメアリー王女、ヘンリー・フィッツロイのみならず、エリザベスまで目障りだとして、宮中から追い出したのだった。4年後の1534年、エリザベスは、亡父の所領の隣に地所を持っていたクリントン卿と再婚した。

 一方フィッツロイはフランス宮廷へ留学に出された。
 1533年10月、アン・ブーリンの兄ジョージがフランス宮廷に着き、フィッツロイと面会した。
 その直後、同じワインを飲んでいたフィッツロイとその友人が倒れた。
 2人を看た医師は、ただちに何らかの毒物による典型的な中毒だと診察した。
 フィッツロイが倒れた直後、ジョージ・ブーリンは単身英国へと逃げ帰っていた。
 後にジョージの妻は、アンとジョージの2人が、「フィッツロイの毒殺を計画していた」と告白したという。
 その後、アン・ブ—リンは1533年11月、自分に忠実な一族メアリー・ハワード(3代目ノーフォーク公の娘)をヘンリ—・フィッツロイに嫁がせた。2人はまだ14歳になったばかりで、結婚するには若すぎた。監視させる意味合いがあったのかもしれない。
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 1536年、アン・ブ—リンが反逆罪で裁かれて処刑された。
 ヘンリー8世はフィッツロイを呼び、涙ながらにアンの企みが成功しなかったことを喜んだ。
「王は涙を浮かべ、彼と、彼の姉(メアリー)が呪われた娼婦(アン・ブーリン)
 の毒殺の魔の手から逃れたことを神に感謝した。(King, with tears in his eyes said that both he and his sister ought to thank God for having escaped from the hands of that accursed whore who had planned their death by poison.)」
 だがフィッツロイは同年7月、結婚したばかりの若い妻メアリー・ハワードを残して突然早世してしまう。17歳の誕生日を迎えたばかりであった、
 
 リンカシャーでは、ヘンリー8世の離婚のゴタゴタから生じた宗教改革から王室への不満が高まり、それが後に「恩寵の巡礼」と呼ばれる反乱に繋がることになる。

 反乱と突然の息子の死・・それがエリザベスに深い衝撃を与えたのか、1539年2月、世を去った。

 享年37歳。

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リッチモンド公爵夫人メアリー・ハワード
  (ホルバインの下絵/1536年?)

 

 

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名門ではなかった「ブ—リン家の姉妹」/第二王妃アン・ブ—リンの家系 [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]

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ある男の出世の物語
トーマス・ブーリン
Thomas.Boleyn
(1470~1539)

~ ブーリン家の興亡~
 
 映画「ブ—リン家の姉妹」という映画をご存じだろうか。原作は「もう1人のブ—リン家の娘」という歴史小説で、ヘンリー8世の王妃となった長女アンと、愛人となった妹メアリーの物語である。
 姉のアンは娘エリザベスがたまたま女王になったので有名になったが、妹(または姉/諸説あり)メアリーは無名のままだった。
 ネット検索していてエリザベス女王のことを調べていると、その母アン・ブーリンの実家について「かなり身分が高かった」という記述にぶつかる時がある。
 何を持って「身分が高い」というかについては議論の余地があるが、少なくとも爵位という点において、ブーリン家は名門ではなかった。

 ブーリンの家系は、15世紀初頭まで遡ることができる。ただ「サフォーク州サリーの一族」というだけで、どこまでいっても貴族であった痕跡は見つからない。富農からロンドンへ出て商人となり、トーマスの祖父ジョアフリーの代にロンドン市長を勤めている。薔薇戦争の最中であった。その功績で「サーsir」の称号を与えられている。
 初めて貴族の端くれになったのだ。

 さてロンドン市長に出世したジョアフリー(又はジェフリー)には3男4女がいた。そのうち19歳の次男のウィリアムと12歳の少女マーガレット・バトラーとの間に生まれたのが、トーマス・ブーリン、すなわち「ブ—リン家の姉妹」の父親となるト—マス・ブ—リンだった。

 1490年、20歳でコーンウォールの反乱鎮圧に従軍したトーマスは、その才能を第2代ノーフォーク公に認められ、その娘エリザベスと結婚した。

 ノーフォーク公ハワード家は名門である。ブーリン家は結婚によって、この名門と縁続きになった。逆「玉の輿』に乗って、初めて中央貴族の末席に連なった。そしてその縁で、ヘンリー8世の戴冠式に出席し、ナイトの称号を与えられた。国王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に王子が産まれると(1511年)、祝祭のトーナメントにも出場した。

 トーマスにとっては未来は薔薇色に見えただろう。
 だが、実を言うと、本格的な出世はそこからである。
 1519年から2年間、駐仏大使として活躍し、ついでにフランス王妃となった王妹メアリー内親王の侍女として、二人の娘メアリーとアンをフランスに送った。これが映画「ブ—リン家の姉妹」のモデルとなった。
 娘は2人ともヘンリー8世の愛人となったが、なぜか容姿で劣っていた次女のアンがヘンリーの寵愛を独占し、男子を産んで失った王妃の代わりに、王子を産むと宣言して、王妃の座を要求したのである。

 アンに夢中だったヘンリー8世は離婚を考えるが、これといって落ち度も無いキャサリン王妃の離婚には法王を始めとして国中が反対した。離婚係争は延々と6年に渡って続いた。ヘンリー8世はアンの気を引くために、アン自身にペンブルック侯爵位を贈った他、父のトーマスにもウイルトーシャー、オーマンドの二か所の伯爵領を与えた。
 ついにトーマスは念願の伯爵になった。

 幸運はまだまだ続く。
 アンは1533年、ヘンリーの子を身ごもり、その年の5月、ついに王妃の座を獲得したのだった。

 だが4か月後、アンが王女エリザベスを産んだ頃から雲行きが怪しくなる。
 男子出生を焦る一方、わが子エリザベスの王位継承のために、アンは兄ジョージらを巻き込んで前王妃の娘メアリーの暗殺を謀る。そして何とか王子を産むために、何人もの側近(兄も含む)と不倫に及んだ、という。
 ヘンリー8世は、アンの暗躍を「不義密通」と断定して、兄ジョージらをアンともども処刑してしまった。

 この時、不思議なことに、父トーマスは何ら子供達を弁護できなかった。
 あるいはトーマス自身も加担していたのかもしれない。かろうじてブーリン家は全滅を逃れたが、嗣子ジョージが処刑されたために、ブーリン家の断絶は避けられなかった。
 1537年、アンの死後王妃となったジェーン・シーモアがめでたく王子を出産すると、その洗礼式に出席し、周囲から嘲笑の視線を浴びた、という。

 トーマスは宮中を退いて自分の城であるヒーヴァー・キャッスルに隠遁し、1539年3月、失意のうちに亡くなった。
 ブーリン一族。それはチューダー王朝の始まりとともに出世し、そして孫のエリザベス朝の直前に失墜した、ある意味時代を反映した一族といえよう。
   

               参考資料/
         The Tudor place by Jorge H. Castelli
         Tudor World Leyla . J. Raymond
         Tuder History Lara E. Eakins
         The Tudors  Petra Verhelst
         英国王妃物語 森 護 三省堂選書

 

ヒーヴァー・キャッスル 公式サイトhttp://www.hevercastle.co.uk/


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敗者の運命/マーガレット・ソールズベリー伯爵夫人 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 ソールズベリー伯爵夫人マ—ガレットのデッサン/作者不詳/大英博物館蔵
             (1473~1541)

 マーガレットの父は、エドワード4世の実弟クラレンス公ジョージ。
 母親は「キング・メーカー」と呼ばれたウォーリック伯の娘・イザベラ・ネヴィルであった。この2人の間に、1473年8月14日、誕生した。
 5歳の時、父はエドワード4世の命令で反逆者としてロンドン塔内で処刑された。

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 前王朝プランタジュネット家の王子は、長引く内乱やその後即位したヘンリー7世によって、ほとんど全てが粛清されていた。姫君は反逆を企てる危険性も低かったためか、粛清から逃れた。マーガレットもその1人であった。
 エドワード4世崩御の後、その王子達が庶子の決定を受けて王位継承権を無くした上に、後を継いだリチャード3世の皇太子もまた早世したために、マーガレットは王位継承権を有する身となった。

 しかしヨーク王朝はすでに終焉を迎えていた。ヘンリ—・チュ—ダ—は新王朝を開いてヘンリー7世として即位した。その後マーガレットは恩赦され、1491年にはソールズベリー伯リチャード・ポールに嫁がせた。
(リチャード・ポ—ル=ヘンリー7世の従兄弟)

 
 14年後、夫のリチャードが亡くなったとき、マガレットにはヘンリー、レジナルド、ジェフリー、アーサー、ウルスラの5人の子供たちが残された。このうち2男レジナルドは法王から枢機卿に任命された。
 

 マーガレットはチューダー王朝でも優遇された。特にヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと仲が良かった。第1王女メアリー(後のメアリー1世)が誕生した時には洗礼式に付き添って名付け親を務め、王女の世話役にも任命された。
 メアリーは王女として実母の手から離れて、マーガレットに育てられた。
 母のキャサリンは「娘を呼べば、すぐに応じてくれるよう」マーガレットと密に連絡を取り合っていた、という。メアリーが3歳で神聖ローマ皇帝カール5世との縁談が壊れた時には、マーガレットの息子レジナルドとの縁談も浮上した。
 このままいけば、マーガレットは新女王の義母として、権勢を握ったかもしれない。

 しかし再び時代は変わり始めた。ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚問題は、メアリー王女に影響を与えずにはいられなかった。
 新王妃アン・ブーリンが第2王女エリザベスを生むと、第1王女メアリーは王位継承権を奪われた上に、強制的にエリザベスの侍女にされてしまった。
 マーガレットもまた養母の地位を剥奪され、蟄居せざるをえなくなった。

 メアリーを王女と呼ぶ事は禁止されたにもかかわらず、マーガレットはメアリーを王女と呼び続けた。そして自分の紋章には、夫ポール家の紋章スミレの花に加えて、メアリーの紋章であるマリーゴールドの花を添え、王女への忠誠を表した。
 ヘンリー8世はレジナルド枢機卿を懐柔しようと試みた。もしキャサリンとの離婚を承諾するなら、ヨークの大主教の座とウィンチェスター主教区の支配を約束しようと申し出るが、レジナルドはそれを蹴って1532年、フランスに亡命、パリとイタリアのパドヴァを行き来しつつ、ヘンリー8世に反論する論文を書き続けた。

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ソ—ルズベリー伯爵夫人マーガレット
作者不詳/ナショナルポートレートギャラリー蔵
 1536年アン・ブーリンが没落すると、マーガレットは許されて、再び宮廷に戻った。しかし2男レジナルド枢機卿はバチカンを代表して、ヘンリー8世の宗教改革に正面から抵抗してみせた。1537年の「恩寵の巡礼の乱」でも、レジナルドは反乱の首謀者に支援を与えていた。

                 
 1538年11月、4男のジェフリーと、母方の従兄弟エドワード・ネヴィル及びニコラス・カルー卿が反逆罪容疑のために逮捕された。翌年1月、ジェフリーを除く2名がロンドン塔で処刑された。
 ジェフリー逮捕の10日後、マーガレットもまた反逆罪で逮捕となり、サザンプトン伯とイーリー主教の取り調べを受けたが、彼女は口を閉ざしたままだった。マーガレットはさらに取り調べが続いた。

 ヘンリー8世は、マーガレットが「5つのキリストの傷をモチーフにした刺繍」のある白いチェニックを持っていた事に目をつけた。その紋章は「恩寵の巡礼」反乱軍の旗印でもあったので「マーガレットもまた反乱に関与している」と断定した。また、マーガレット専属の神父が海外に脱出していた事も、「ヨーロッパにいるレジナルド枢機卿と連絡を取り合っている」と見なされた。
 そのためマーガレットはロンドン塔に2年間幽閉される事になるのだが、塔内での待遇は悪く、常に衣服の粗末さと寒さとに苦しめられていた、という。

 1540年5月27日(または28日)、マーガレットは突然処刑を告げられた。
 「私は無実です!反逆などしていません!」
 そういって抵抗し、処刑台に上がることを拒否するマーガレットを、処刑人は斧で後ろから首を切りつけた。

 ロンドン市長を含む150人の立ち会い人の目の前で、絶叫するマーガレットの首に、何度も斧が振り下ろされた。夥しい血が飛び散った凄惨な処刑だった。
 それは実際、ヘンリー8世によるレジナルド枢機卿への復讐だった。ヨーロッパでバチカンの庇護を受け、手出しできないレジナルドの代わりに、腹いせで母親のマーガレットを惨殺したのだった。
 母の死を聞いたレジナルド枢機卿は、こう語ったという。
「私は母の死を恐れない」

 ヘンリー8世とアン・ブ—リンとの略奪婚、その結果生じた英国国教会は、無数の犠牲者を生んだが、マーガレットもその1人だった。
 それから数世紀を経た1886年、時の法王レオ8世は、マーガレットを殉教聖者の列に加え、命日の5月28日を祝日に決めたという。

             参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        The Catholic Encyclopedia


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②薔薇戦争/いがみ合うヨ—ク家とランカスター家 [英国通史]

 

   
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  ②薔薇戦争/いがみ合うヨ—ク家とランカスター家


 皇太子ブラック・プリンスの家系断絶にかわって、エドワード3世の第3王子ゴーントの子、ヘンリー4世が即位した。ランカスター王朝の始まりである。
 ゴーントには他にも側室キャサリン・スウィンフォードに産ませた息子がいて、その血統が後にチューダー王朝につながっていく。

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 一方エドワード3世の次男坊エドマンドの血統が、ヨーク王朝を成立させる。
 このランカスターとヨークこそ、次の戦争である薔薇戦争の主人公である。
 なぜ薔薇かというと、ヨーク家の紋章が白いバラ、ランカスター家の紋章が赤いバラだったというのが一般的な説であるが、実際薔薇の紋章を使っていたのはヨーク家のみであった。

 従兄弟リチャード2世を暗殺してのし上がったヘンリー4世は、天罰なのか、ハンセン氏病に感染して悶死する。その後を継いだヘンリー5世も、フランス王女との間に王子が生まれて半年もたたないうちに、フランスで病死。この王子、ヘンリー6世の母方の祖父が狂気のシャルル6世であった。そのせいかヘンリー6世も心が弱く、ヨーク家のリチャードが王位簒奪のために挙兵した。

 薔薇戦争の始まりである。

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 薔薇戦争の最中にヨーク公リチャードは戦死、その亡骸には紙の王冠を被せられるという侮辱を与えられた。

 あやうく難を逃れたその息子エドワードは、姉の嫁ぎ先のブルゴーニュ公国に身を寄せ、1461年英国にカムバックして力づくで王位を奪い取った。
 ここにエドワード4世が即位し、ヨーク王朝が成立した。

 しかしエドワード4世の治世は決して安定したものではなかった。有力貴族や海外の王家との縁組みをしなかった彼は孤立し、元は平民の未亡人だった王妃エリザベスの一族を重用した事も重なって、次々と重臣や弟達が背いた。
 中でも末の弟のリチャード3世は兄亡き後、兄の子供とエリザベス王妃を追放し、王位を奪った。

 その頃すでに対立していたランカスター家も断絶同然だった。
 エドワード3世の第3王子ゴーントは、嫡子ヘンリー4世の他に、側室キャサリンとの間に4子があり、後顧の憂いを無くすために王位継承権から除外されていた。
 しかし、その末裔であるサマーセット公ジョンは、早世したヘンリー5世の王妃がウェールズ出身の侍従と同棲して産んだ庶子・エドマンド・チューダー(リッチモンド伯)に娘マーガレットを嫁がせる。
 二人の間に生まれたのが、父と同じくリッチモンド伯を名乗った、後のヘンリー7世である。こうして誕生した新興一族チューダー家は、1485年、ボズワースの戦いでチャード3世を戦死させる。
 リッチモンド伯はヘンリー7世として即位し、ここに16世紀を通して英国を支配したチューダー王朝が始まるのであった。
            
 1460年 エイクフィールドの戦いでヨーク公リチャード戦死
 1461年 ヨーク公長男エドワード4世即位(ヨーク王朝)
 1470年 エドワード4世、ランカスター側に敗れてフランスへ亡命
     ヘンリー6世復位
 1471年 エドワード4世復位、幽閉中のヘンリー6世暗殺
 1483年 エドワード4世早世 リチャード3世即位
 1485年 ボズワースの戦いでリチャード3世戦死、ヘンリー7世即位
     (チューダー王朝成立) 


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百年戦争と薔薇戦争からチューダー王朝の成立まで①百年戦争 [英国通史]

   百年戦争と薔薇戦争からチューダー王朝の成立まで
         ①百年戦争


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 この時代の英国史の特徴は、ダラダラと続く王位継承をめぐる戦争にある。
 まずは英国とフランスの間の「100年戦争」。
 もともと中世フランスは封建領主が寄り集まって各地を支配しており、それ
を束ねる役として国王が存在していたに過ぎない。「象徴として国王」であって
も後世のような絶対君主を想像してはならない。 封建領主は家系の断絶や閨閥
関係から、時に領主がイギリス人だったりする場合もあった。


 そのいい例がアリエノール・ダキテーヌ。アキテーヌ地方の女領主で最初はフラ
ンス王妃だったが、後に結婚を解消して英国王ヘンリー2世と再婚したので、アキテ
ーヌは英国領の一部となった。

 またフランス王位もまた、1453年シャルル4世の死でカぺー朝が断絶し、新たに
ヴァロア王朝が成立したが、時の英国王エドワード3世はシャルル王の甥である事を
理由に、フランスに対して王位継承戦争を起こした。百年戦争である。

 英仏は戦ったり休戦したりと、1339年から1454年まで足かけ115年に渡って反目
していたのである。


 1339年スロイス沖海戦で英軍勝利
 1346年クレシーの戦いで英軍勝利
 1347年カレー占領
 1356年ポワティエの戦いで英軍勝利 フランス王ジャン2世捕虜

 英国側は1415年フランスのアジャンクールでアルマニャック派軍を大破し、庶子
疑惑のあったシャルル6世の皇太子シャルル(後のシャルル7世)を南部フランスへ
放逐し、北部フランスを手中に収めた。

 そんな時現れたジャンヌ・ダルクが「神の名の下に」皇太子の庶子疑惑を払拭さ
せ、フランス王シャルル7世に冊立した。


 以降英国側は何度もの講和を重ねた末、カレー港を残してフランスから撤退する。
 1453年ボルドーの返還によって、英国側は逆転敗北した。


 1415年 アジャンクールの戦い
 1420年 トロワ条約
 1422年 ヘンリー5世早世
 1429年 オルレアン解放 シャルル7世即位
 1436年 パリ解放
 1454年 ボルドー解放


 一方英国では、百年戦争の英雄ブラックプリンス(百年戦争を始めたエドワード
3世の皇太子)が早世したので、その息子のリチャード2世が即位したが暗殺され、
跡継ぎもいないことから、プランタジュネット本家は滅亡する。

  

             (つづく)


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ジェーン・グレイのギャラリー [チューダー王朝の国王たち]

いろいろな時代のジェーン・グレイ

夏目漱石をして「ジェイン・グレイの運命に涙せぬ者はおるまい」と言わしめた
「9日間の女王ジェーン」については、各時代でいろんな女優が、その時の最先端
のファッションに身を包んでジェーンを演じた。
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9日間の女王/ジェーン・グレイ③(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]


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 トマス・ワイアット。この男の気の荒さには定評があった。
 彼はケントの豪族として、父親から広大な領地を相続していたが、故郷でじっとしているような男ではなかった。ロンドンでは暴動鎮圧のおり、上官であるハワードに逆らった廉(とが)で投獄されている。

 その後許されてヨーロッパを周遊し、おそらく1549年頃帰国した。
 時の権力者ノーサンバーランド公に対して、ロンドンの治安維持について提言をしたものの、ノーサンバーランドの失脚でご破算となった。
 ジェーンが即位した時には、ロチェスターでメアリー支持の宣言を出した。
 気性は激しく排他的な愛国者。彼がいつ頃からスペイン人を憎み始めたかは定かではない。一説によれば、スペインを旅した時、地元の教会関係者から恐迫されたからだともいう。

 1554年1月、メアリー女王がスペイン王子フェリペとの結婚を発表すると、愛国者達は一斉に反発した。
 中でもワイアットはケントのロチェスターを本拠に、4000名を率いて挙兵した。
 いわゆる「ワイアットの乱」である。反乱軍は、国民からまったく支持されず、ロンドンへの入場すら阻止される有り様だった。しかし強引にゲートを通過したワイアット勢は、女王のいる聖ジェームス宮殿を目指して挫折。2月7日、捕えられてロンドン塔に送られている。

 悪いことに、この反乱に、ジェーンの父/ヘンリー・グレーが関与していた。
 ヘンリーは藁の下に身を隠しながら必死に逃亡したが、自分の領地に逃げ込む寸前で捕えられた。
夫を熱愛していた妻フランシスは、半狂乱になって女王に泣きついた。

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           苦悩しながら処刑命令書にサインする
           メアリー1世(19世紀の歴史画)
 
 しかし今まで、明らかに反乱を企てた者が許されたためしはない。いくらメアリー女王といえども、見逃すことは難かしかった。だが、メアリーには君主として、ヘンリー・グレイよりも先に倒さねばならない存在がいた。
 裏切られた悲哀と苦渋のうちに、メアリーは「反逆者ギルフォード・ダッドリーと、その妻」の処刑命令書にサインする。ヘンリー・グレイの浅はかな行為が、自身のみならず、娘のジェーンの運命まで決定してしまったのである。

「お父様・・・・お父様、なんて事を」
 ジェーンは両手で顔を覆ってすすり泣いた。グレイ家は女系家族であり、父は唯一の男として一家の心の支えだった。母は娘たちよりも夫を愛していた。
 その父が死ぬ。死んでしまう。そう思う時、ジェーンの全身から潮が引くように生きる力が失せていった。父が獄中で、娘のために嘆き悲しんでいると伝え聞き、ジェーンは手紙を書いた。

「愛するお父様、私はあなたによって死ぬことで、神様を喜ばせました。
 それによって、私の魂は生き延びるのです。神様は私に死をお与えになる
 かわりに、この悲惨な日々を終わらせて下さるのです。私には、あなたの
 お嘆きがわかります。神様の前で、私の血は、きっと無実を叫ぶでしょう。
 あなたの従順な娘ジェーン・ダッドリー」

 ヘンリー・グレイの処刑は2月23日と決まった。ジェーンとギルフォードの処刑はそれよりも早く、2月8日の時点で決まっていたものの、ずるずると延びる可能性が高くなった。メアリー女王は大権をもってジェーンを特赦するつもりでいた。何しろジェーンはずっとロンドン塔にいたのだから、実際反乱に加担することなどできるはずがないのだ。今回も前のように、名前を利用されただけではないのか?
 しかし、反逆罪が決まった人間を特赦するには、それなりの名目が必要だった。女王に絶対服従しているという証拠のようなものを・・・・。
 メアリー女王は必死で頭をめぐらした。
 愛する叔母の孫を、この手で殺したくはなかった

 

(夏になったら、ヒースの花が咲く)
 ジェーンは故郷のブレイドゲートの野原を思い出した。
 原生林を切り開いた野原に生えるヒースは、ツツジ科の花だけあって、初夏から夏にかけて、美しい花が咲く。
 ブレイドゲートの館の前にも、ヒースの野が広がっていた。
  父と母、妹たち。家族で馬に乗り、野原を駆け抜けた頃を思い出した。もう2度と、帰ることはない。

 2月8日、女王の特使フェキンハム博士が訪れて、女王の意志を告げた。
「陛下はあなたを特赦したいとお考えです。そのために、どうかカトリッ
 ク信者になって、服従の証を見せていただきたい。そうすれば、処刑から
 終身刑へ変更なさるおつもりです。」

 ジェーンは静かに考えた。仮にここで許されても、一生塔から出ることはできない。それに、また誰かが知らないところで反乱を起こしたとしたら、また死の淵に立たされるのだ。
 後何回、同じ目にあうのだろう。・・・・・生きている限り、それは続くだろう。
(死にたい。)
 ジェーンは、つくづく思った。死んでしまえば、魂だけでも、あのヒースの野を駆けることができるような気がした。

「どんな宗教が正しいとか、そんな無意味な論争をしている時間はありません。
 女王陛下のお情けには感謝します。でも、もう生きていたくないのです。」
 フェキンハム博士は、3日間だけ待つ、と伝えた。その間に連絡をくれたら、女王陛下は特赦なさるでしょう。3日間だけ待つ、と。
 ジェーンは首をふった。もう無意味な時間などいらない。

 別の獄舎にいたギルフォードが、会いたい、と伝えて来た。
 メアリー女王は、2人がよく話し合うように、と面会を許可した。
 しかしジェーンは会わなかった。会えば、決意が弱まるだけなのだ。
 かわりに手紙を書いた。

「もっとすばらしい世界で再会しましょう、ギルバード。その時には、私たちは永遠に1つになって結ばれるの。」
「永遠に・・・・・。」
 ギルバートが答えた。

 2月12日、10時、ビーチャムタワーの窓から、ジェーンは処刑台に向かうギルバートの最期の姿を見つめていた。
 数十分後、血まみれのギルバートの体が板の上に乗せられて、運ばれてきた。
 切断された頭部は、白い布で包まれていた。
「ギルバート!ギルバート!!」
 ジェーンは泣き叫んだ。
「私、恐い、恐い・・・・恐い。」

 1時間後、ついにジェーンの番が来た。ロンドン塔長官に手をとられて、ロンドン塔内にある、教会前の小さな緑地へ向かった。
 処刑台の周辺には、あのフェキンハム博士の、悲しげな顔もあった。
 ジェーンは賛美歌を歌った。それから世話をしてくれた侍女のエレンに形見として、ハンカチと手袋を渡した。エレンは泣きながらジェーンの頭の飾りとスカーフをはずし、マントを脱ぐのを手伝った。
 処刑人はジェーンの前にひざまづき、許しを乞うた。5分間、静寂が続いた。女王からの、最後の特赦を待つ時間だった。しかし、誰も現れなかった。

 5分後、ジェーンは自分の手で目隠しをしてから、パニックに陥った。
 必死で手探りをしながら、助けを求めた。
「どうすればいいの?どこへ行けばいいの?」
 見るに見かねて、立会人だった神父がジェーンを斬首台まで導いた。
 ジェーンはやっと台をみつけると、小さくつぶやいた。
「神様、あなたを誉め讃えます・・・・。」

 最初の一撃で斧は深く首にめりこみ、ショックで肉体は痙攣する。
 さらにもう一撃で、切り損ねた腱を切断する。行き場のなくなった血は、切断面から激しくほとばしり、足元に敷き詰めた藁を深紅に染めた。

 ジェーンの体はその場に4時間放置された後、正面にある聖ピーター教会に葬られた。
 1554年2月12日、16歳と4か月の生涯だった。

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9日間の女王/ジェーン・グレイ②(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]


        
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19世紀の画家ウィリアム・ホーンの描いたジェーン・グレイ

「それ」はジェーンにとって寝耳に水だった。
 1553年5月、グレイ夫妻は娘を呼びつけ、いきなりノーサンバーランド公の息子/
ギルフォード・ダッドリーとの婚約を告げた。
「私、ハットフォード伯が好きだったのに・・」
 ジェーンは弱々しく抵抗した。
「だいじょうぶ、今までの生活は変わらないわ。勉強だって続けていいのよ。」
 母親はそういって説き伏せた。

 世間知らずのジェーンがろくな抵抗もできないうちに、縁談は瞬く間に決まった。
 3週間後(諸説あり)5月21日、ノーサンバーランドの館、テームズ川岸のダー
ラム・ハウスで結婚式が行われた。

 その日、3姉妹は合同結婚式をあげた。次女キャサリンはヘイスティングス卿と。
(翌年離婚)三女メアリーは従兄弟のアーサー・グレイと(翌年離婚)
 花嫁衣装は、王室のものを使用した。ジェーンは、緑のベルベットのドレスに金欄の
マントを身にまとい、美しかった。新郎ギルフォードは、少年王の騎馬試合に出場する
ために、式の直後に宮中へ行ってしまった。ジェーンは両親が自分をダーラム・ハウス
に残して帰ろうとするので、驚いた。
 「ブレイドゲートに帰ってはいけないの?」
 「何ですって!!」
 姑のノーサンバーランド公妃は、激怒して叱ったという。
 ジェーンは亀の子のように首を縮めて、うなだれた。

 少年王エドワードは元々虚弱な上に、持病の結核が重くなり、日に日に衰弱してい
った。
ノーサンバーランドは、瀕死の少年王に詰めより、異母姉のメアリーから王位継
承権を剥
奪するように説得した。

「カトリック教徒のメアリーが即位したら、かならず新教徒が迫害されます。」
 御前会議で、王位は二人の異母姉ではなく、「フランシス・グレイの子供達」即ち
ジェーンら3姉妹に順番に譲られることが決まった。

 1553年7月6日、少年王は崩御した。二人の貴族がジェーンの前にひざまづき、王
の崩御と、王位継承を告げた。ジェーンはただただ赤面して俯いていた。
 グレイ夫妻は「女王になったのよ、認めなさい」と励ました。
 大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが王冠を差し出すと、ジェーンは狼狽して震えな
がら泣き出した。
「私は・・・私は女王なんかじゃありません。王冠は受け取れません。」
 王の死後4日目には、戴冠式のためにロンドン塔へ移った。群衆に姿を見せるため
に、小柄なジェーンはチョビン(靴の下につける上げ底)をつけて水門から塔内に入
った。チューダー家の印である緑と白のドレスをまとっていた。
 しかし群衆は、困惑するばかりで、歓声をあげる者いなかったという。
 一方王位継承権を剥奪されたメアリー王女は、身の危険を感じてノーフォーク州へ
と逃れた。エリザベス王女は、情勢を静観する構えで、沈黙していた。

 ロンドン塔内のホワイトタワーに入ったジェーンは、夫のギルフォードから、自分を
王にしてくれ、と頼まれたが、頬を赤くして困惑するばかりだった。
「私、女王でないのに、そんな事無理です。かわりにクラレンス公ではダメかしら」
 息子が王になれないと知って、姑ノーサンバーランド公妃は怒り出した。

 同じ頃議会は反ノーサンバーランドで意見が一致した。かれらはジェーンの王位を
否定しメアリー王女こそ正当な女王だと発表した。その知らせに、ジェーンの母フラン
シスとノーサンバーランド公妃は口惜しさにすすり泣いた。
 それから数日間、すなわち7月11~13日の間、ジェーンはストレスのために寝込んで
いたらしく、巷には「姑に毒殺された?」という噂が流れた。

 7月14日、いよいよ反撃のためにメアリー王女が挙兵したとのニュースが流れると、
興奮した群衆が、メアリー支持を叫んでロンドン塔に殺到した。
 ジェーンは塔の入り口を閉めさせて、中に閉じこもった。

 4日後、ついに敗北を悟ったジェーンの父/ヘンリー・グレイは、娘に王位を放棄す
るように手紙を送りつけてきた。ヘンリー・グレイがロンドン塔へ来てみると、ジェ
ーンは一人玉座に座っていた。
「もうおまえは、そこには座れなくなった。こっちへおいで」
「お父様!もう私は家に帰ってもいいんですね!」
 ジェーンは嬉し泣きとも悲しみともつかない涙を流しながら、父親に抱きついた。
 しかし7月20日、ジェーンは女王の滞在するホワイト.タワーから、一転して囚人
として、別の塔へ監禁された。

 そこに残酷にも、王冠を差し出したと同じ大蔵大臣ウィリアム・ポーレットが現れ、
王冠の返還、ならびに無くした宝石を弁償するように迫った。
 ジェーンは王冠とともに、自分の金貨をすべて渡したという。

 ノーサンバーランド公も反逆者として、ロンドン塔に投獄された。彼はメアリー女王
に助命すべく、新教徒からカトリック信者になると申し出たが、メアリー女王の怒りは
治まらなかった。結局努力は無駄に終わり、8月23日、処刑された。

 ジェーンは女王の使者に向かって語った。
「許して下さいね。ノーサンバーランド公は悲しい災難と悲劇を運んできました。
 でも彼の改心によって他の人が救われたと期待したいのです・・・・」
 メアリー女王がジェーンを憎んでいたとは思えない。何しろグレイ家は、自分に
も同じ名前を与えてくれた最愛の叔母の家族なのだ。叔母はメアリー女王の母/
キャサリン・オブ・アラゴン王妃の親友でもあった。
 国王から離婚を告げられた時も、必死で庇ってくれた。感謝の気持ちはあっても、
憎む気にはなれなかったにちがいない。もし何事も起こらなければ、ジェーンは故
郷ブレイドゲートにもどり、また静かに勉学の日々を送れたかもしれない。

 もし何事もなければ。
           
               (つづく)


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9日間の女王/ジェーン・グレイ①(ヘンリー8世の妹の孫) [チューダー王朝の国王たち]

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         ジェーン・グレイ/作者不詳/1555~1560 
           ナショナル・ポートレートギャラリー蔵   
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 ブレイドゲート(Bradgate)・・・ロンドンの東、レスターから約8キロ、
小高い丘から谷へと傾斜していくあたりに、グレイ家の所有する館があった。
 
赤いレンガ作りのチューダー王朝風の館は、1537年当時は、まだ新築7年目
であった。
周囲は楡やブナの林で囲まれ、館へと続く丘の斜面には、一面ヒース
が風によいでいた。
テラス式の庭園には、ヨーロッパグミの木や薔薇が茂り、睡蓮
の浮かぶ池には金魚が泳いでいた。
その池で、幼いジェーンはあやうく溺れかけたという。


 グレイ家には3人の娘がいた。
 長女ジェーン(1537年生)次女キャサリン(1540生)三女メアリー(1545生)。
 父はドーセット候(後にサフォーク公)ヘンリー・グレイ。
 母は国王ヘンリー8世の妹メアリーの娘/サフォーク公女フランシスだった。
 1551年、フランシスの実家を継いでいた異母兄が亡くなったため、サフォーク公家
の爵位は、ヘンリー・グレイのものとなった(女性が爵位継承権を持っていた
場合、本人ではなく、夫か息子が爵位を継いだ)このグレイ家、先祖を辿れば、
エドワード4世王妃エリザベス・ウッドビルが、前夫との間にもうけた息子であった。 
 エリザベスの、2度目の結婚=英国王妃となってからで生まれたのが、今の国王
ヘンリー8世の母親エリザベス王女である。
 3姉妹の父母、どちらの系統を辿っても王室とは、深いつながりがあった。
 
女のメアリーは、生まれながら背骨が曲がっている障害があったが、上の二人の
娘は健康だった。

 ジェーンは、英国人にしては小柄で、白い肌には淡いソバカスがあった。
 ジェーンの幼年時代は、ヘンリー8世の娘たちより、ずっと王女らしかったといってもよい。
 何よりも、誰におびやかされることなく、父母の愛に包まれて成長したことは、
女王エリザベスより遥かに恵まれていた。だがその反面、あまりに恵まれた環境が、
ジェーンを現実離れした夢見がちな優等生へと変えていった。

 読み書きなどの教育は、3、4歳の頃から始まっていた。早朝6時のお祈りを済
ませ、パンとエール、肉などの朝食をとった後、夕食までギリシャ語とラテン語の
授業があった。
 夕食が済むと、音楽や読書、ダンスにお裁縫、そして9時には就寝。週に一度は
ハンティングに行くか、近郊の町レスタ-まで出かけて行ったという。

 平和で単調な日々が流れて行った。ジェーンは6歳で聖書を読めるようになり、
7歳でフランス語、イタリア語など4ヶ国語の授業が始まっていた。

 考えてみれば、授業はほとんど語学のみ、後はせいぜい宗教哲学か歴史、体育
(ダンス、乗馬)ぐらいである。単語は違えども、文法的には大した違いも無い。
 語学が達者になるのは道理であった。
 というか、混血社会であるヨーロッパでは、上流階級は必然的にバイリンガル
であった。(もっともフランス王室は18世紀まで、頑ななまでに英語を拒んでいた)

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 1545年、ヘンリー8世が死ぬと、ジェーンと同い年の少年王エドワード6世が即位した。

 

 翌年グレイ夫妻は、宮廷デビューのために、ジェーンをヘンリー8世の第6王妃だ
ったキャサリン・パーの元へ預けた。というのも、キャサリンの再婚相手のトーマス・
シーモアがグレイ家に2000ポンドを支払って、面倒を見させて欲しい、と頼み込んだ
ためである。トーマス・シーモアは少年王の叔父でもあった。グレイ夫妻にとっては、
願ってもない申し出だった。

 
 このトーマスなる男、同時にエリザベス王女(後の女王)も引き取っていたが、孤児
同然という環境につけこんで、手を出したという。エリザベスは、トーマスに抱かれて
いるところを見つかったために、館を追い出されるはめになった。
 ジェーンの場合は両親が健在だったために、さすがに手を出すことはできなかった
が、巧みにグレイ夫妻の耳に、ジェーンと少年王との結婚の可能性を囁いた。
「私には、陛下がジェーン姫以外の方とは結婚なさらない、と保証する勇気がありますよ。」

 1548年8月、トーマス・シーモアと再婚したキャサリン・パー(ヘンリー8世6番目
の王妃)が出産のために死ぬと、なぜかジェーン・グレイが喪主を務めたという。
トーマスは兄サマーセット公との権力闘争に夢中で、妻のことなど頭になかったらしい。

 だが、半年後の1549年3月、兄の手で処刑されてしまった。
 ジェーンは、再び実家のブレイドゲートに戻って来た。
 エリザベスはサマーセット公に憎まれ、しつこくトーマスとの中を詮索されたが、
ジェーンは無事だった。
 ジェーンはよく勉強した。実際、エリザベスの教師だったロジャー・アスカムが絶
句するほど優等生だった。

 だが、その知識には大きな偏りがあった。ジェーンは大切に育てられ過ぎたために、
人間そのものを学ぶ機会がなかった。いかに人の心を読むか、いかに危機に際して対処
するか、現実的な方法を知らな過ぎた。天使のように理想世界をふわふわ漂うだけで、
ふと気付いた時には、陰謀の泥沼に足首を取られていた。にっちもさっちもいかなく
なって、ただ泣くばかりだった。
 エリザベスのように、歯を食いしばって生き残る道を模索するような、強さはなかった。
 もっとも、エリザベスのように弱肉強食に馴れた人間が良いのか悪いのかは、判別
できないが…


                 (つづく)

 


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女王に憎まれたグレイ家の運命/悲しみのキャサリン・グレイ [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]

スクリーンショット 2019-09-27 21.05.42.png
 1561年7月のある晩。ロバート・ダッドリーは珍しく女王のお召しを受けることなく1人寝室で休んでいた。
 と、前触れ無く若い女が密かに訪ねて来た。女は窶れ青ざめており、膨らんだ腹部から、妊娠していることがわかった。
 髪を振り乱して土下座し、震える声で言った。
「ダッドリー様、あなたは私の姉の義弟でいらっしゃいました。どうか・・どうかお願いでございます。女王陛下に、よしなにお取次ぎを!どうか・・・どうか..。」

 彼女こそ、ヘンリー8世王妹メアリー内親王の孫娘であり、「9日間の女王」ジェーン・グレイ の実妹キャサリン・グレイであった。

 王族グレイ家。そう聞いただけで、すでにエリザベスは顔を顰めていた。
 同じチューダー家の系統とはいいながら、歴史的にグレイ家はエリザベスと敵対していた。ヘンリー8世の末の妹メアリー内親王は、兄の反対を押し切ってノーフォーク公チャールス・ブランドンと結婚した。二人の間に産まれた娘のフランシスが、サフォーク公ヘンリー・グレイに嫁いで儲けたのが、ジェーン、キャサリン、メアリーの3姉妹だった。

 このメアリー内親王はエリザベスの母アン・ブーリンを憎んでおり、当然エリザベスのことも快く思ってはいなかった。
 反感はメアリーが亡くなった後も続いた。グレイ家の反感と野心は、ノーサンバーランド公トーマス・ダッドリーの野心と結託した。トーマス・ダッドリーは王位継承権を持つジェーン・グレイを女王に立て、政権奪取を試みた。しかし計画は失敗した。正式な国王として即位した女王メアリー1世(ヘンリー8世の長女)は、ノーサンバーランド公トーマス・ダッドリー、その長男ギルフォード、ジェーン・グレイの3人を順次反逆罪で処刑した。

 しかし女王メアリー1世は、キャサリン・グレイを妹のように可愛がっていた。女王にとって彼女は仲が良かった叔母の忘れ形見なのだ。ノーサンバーランド公によって処刑されたサマーセット公シーモア家の地位も元に戻された。
 いつしかシーモア家とグレイ家は親密な行き来をするようになっていた。
 この時キャサリンは15歳、シーモア家には、3歳年上の黒い髪の美少年/エドワードがいた。
 過去両家を襲った不幸など消え去ったかのように、短い春の日差しに包まれて、至福のひとときが流れていた・・・。

 再びキャサリンの運命に翳りがさし始めたのは、1556年になってからだった。
 保護者のような女王メアリー1世が亡くなった。
 後を継いだエリザベスとグレイ家との確執は、未だに消えていなかった。
 王位継承法によれば、エリザベスの次に王位を継ぐのはグレイ家の次女キャサリンのはずだったが、当然ながらエリザベスは反発した。

 しかし放置しておけば、英国王位を狙うスペイン側に利用される可能性があった。
 スペインがキャサリン・グレイを女王に立て、エリザベスに宣戦布告することも十分ありえた。
 エリザベスは嫌々ながらキャサリンを身近に置いて監視することにした。
 あれほど冷ややかだった女王が、いきなり自分を「娘」と呼び、宮中に専用の部屋を与えてくれる厚遇ぶりに、かえってキャサリンは不吉なものを感じていた。

(会いたい、エドワードに会いたい)
 息苦しい宮廷生活の中で、キャサリンは切実に思った。いくら女王が可愛がっている「ふり」をしても、グレイ家との確執を知らない者はなく、本心では嫌っていると見抜いていた貴族達は、「貧しいキャサリン(poor Catherine)」と嘲笑した。
 そんな彼女に唯一親身になってくれたのが、あのエドワード・シーモアの姉で、女王の侍女でもあったジェーン・シーモア(ヘンリー8世王妃ジェーン・シーモアの同名の姪)だった。

  「エドワードを愛しているの。あの人の妻になりたいの」
 エドワードはその話を姉から聞かされて困惑した。彼とて貴族の端くれである。
 せっかく復活したシーモア家のためにも、女王の不興を買いたくはなかった。
 だが、二人が再会した時、事態は変った。会った瞬間から、エドワードは、すでにずっと昔から、お互いに惹かれていた事・・・・それが歳月によって愛に変っていたことに気付いた。
 彼は24歳、キャサリン21歳の出来事だった。

 ヘンリー8世が1536年に決めた継承法によれば、王族が結婚するには、国王の許可が必要であった。
 無断で式をあげた者は、反逆罪を問われる恐れがあった。
 二人の脳裏には、それぞれ刑死した肉親たちのことが浮かんだ。しかし、2人はもう死をも恐れないほどお互いを求め合っていた。

 エドワードは金の指輪に文字を彫り、キャサリンの指にはめた。
「死が二人を分つまで、いかなる力も我らを引き離すことができないと、言葉にするまでもない」

 1560年10月、二人は反逆を承知で、エリザベスに無断で結婚した。

 1560年12月、二人はホワイトホール宮殿を密かに抜け出て、エドワードの自宅に向かい、そこで初めて愛し合った。たった一時間半の、短い初夜であった。
 エリザベスには、「持病の歯痛のために引き蘢っている」と嘘をついていた。

 しばらくして、ジェーンの様子に女王の侍女レディ・メードが異変に気づいた。
(おかしい。あんなに吐いて窶れるなんて、まるで妊娠したみたい)
 キャサリンも決してずっと秘密にしておくつもりはなかった。しかし女王に打ち明けようにも、頼りにしていた実母サフォーク公夫人フランシス(メアリー内親王の娘)が前年11月に亡くなり、エドワードの姉ジェーン・シーモアも1561年3月、急死してしまった。

 ジェーンが亡くなった直後、キャサリンは自分が身ごもっていることに気付いた。
 おまけにエドワード自身が、ウイリアム・セシルの長男のヨーロッパ周遊旅行に付き添いを命じられてしまった。エドワードは、万が一自分の身に何かあった場合、全財産を譲るという遺言書を残して旅立った。

 7月、すでに妊娠8か月に入り、隠しようが無くなっていた。
 孤立無援のキャサリンは、知り合いの誰彼かまわず女王への取り次ぎを頼んだが、全員に拒否されてしまった。そして行き場がなくなり、ついにエリザベスの寵愛篤いロバート・ダッドリーを頼って来たのだった

 翌朝、ロバートから事情を聞いたエリザベスは直ちに命じた
「反逆である。ロンドン塔に投獄せよ」
 臨月間近な身であろうと、容赦するつもりはなかった。
「あの恥知らずの恩知らずめが!!」
 エリザベスがそう罵りながら調査したところ、結婚の立会人だったジェーン.シーモアは亡くなり、牧師も行方不明だった。そのため二人の結婚は誰にも証明することができず、産まれる子供は庶子と宣告された。二人の間に生まれる子供たちは王位継承権を失った。エリザベスが画策して、正式な結婚の証拠をもみ消した可能性も高い。

 1562年9月、キャサリンは男の子を出産。エドワードと名付けられた。
 ロンドン塔の中は、決して孤独ではなかった。後から投獄されたエドワードと再会し、親子3人ひっそりと幸福に過ごした。だが、それも翌年次男トーマスが産まれるまでの短い時間だった。

 今度こそ心底激怒したエリザベスは、二人を引き離し、5年後キャサリンが孤独のうちに亡くなるまで、ついに再会を許さなかった。

 エリザベスは議会によって、フランス王子との縁談を打ち切られた時、1人寝室に籠って泣いた。
「私には夫を選ぶ権利もない。」
 悲しい時、常にエリザベスは寝室に隠れて泣いたと言う。
 エリザベスの落胆を伝え聞いた
スペイン王フェリペ2世は、底意地悪く「どうせ演技だろう」と笑ったという。(フィクションとの説もある)

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 現在は個人コレクションであるキャサリンと幼いエドワードの肖像画は、悲しみの中に深い幸福感が漂い、見る者の心を揺さぶる。と同時に、エリザベスの悲しみにも思いを馳せる。 キャサリンに向けられたエリザベスの憎悪は、彼女が決して許されなかったもの、愛する男と結ばれ、新しい命を育む「女」という存在そのものだったのかもしれない。

 


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大貴族のルーツ①ジェーン・グレイの一族~女王エリザベスとの確執~ [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]

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 グレイ家は、もともと王家と繋がりの深い一族であった。
 エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドビルは、エドワード4世が2人目の夫だった。
 最初の夫ジョン・グレイは薔薇戦争の最中、ランカスター側の騎士だったためにヨーク側に殺されてしまった。
 エリザベスとの間に2人の男児を残した。
 母が王妃になった後、長男トーマス・グレイは、ドーセット候の爵位を与えられた。
 これがドーセット侯爵グレイ家である。

 エリザベス・ウッドビルはエドワード4世との再婚後、王女エリザベスを生んだ。
 この王女が後にヘンリー7世の妃となり、ヘンリー8世やメアリー内親王の母后となる。(ここではヘンリー7世の次女メアリーを、女王メアリー1世と区別するために、あえて「内親王」と書く)

 メアリー内親王は、後にサフォーク公チャールス・ブランドンと結婚して2子に恵まれた。
 その2子のうちの1人、長女フランシスは初代トーマス・グレイの息子ヘンリー・グレイに嫁いで、ドーセット侯爵夫人となった。16世紀英国では、妻の持っている権利や財産は(妻の血統が繋がっている限り)夫の所有となった。だからグレイ家は、王位継承権を持つフランシスと結婚することで、王家の血筋につらなったのである。ヘンリー8世の娘エリザベス(後の女王エリザベス)はグレイ一家をライバルと見なして忌み嫌い、冷たくあしらっていた。

 グレイ家とエリザベスの確執は、ヘンリー8世の時代から始まる。
 メアリー内親王は、実兄のヘンリー8世と仲が良く、王妃キャサリンの親友でもあった。
 ヘンリー8世は最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれた娘を、妹にちなんで「メアリー」と命名した。(後の女王メアリー1世である。)キャサリンと義妹メアリー内親王は実の姉妹のように親密だった。
 従ってヘンリー8世がキャサリンと離婚して愛妾アン・ブーリン(エリザベス1世の実母)と再婚したいと言い出した時、メアリー内親王は大反対してキャサリン擁護に回った。
 
アン・ブーリンとメアリー内親王との間に、根深い対立が生まれた。
 アンは仕返しとして、権勢の絶頂期にある時、ヘンリー8世にねだってペンブルック女伯の爵位をもらうと、メアリー内親王よりも上座に座った。メアリーはその時すでに結婚していて、表面上は内親王というよりサフォーク公爵夫人であり、ペンブルック女伯より下位にいたからである。

 この一件で、メアリー内親王のアン一族に対する反感は強まった。
 正嫡の内親王が、たかが下級貴族の娘に過ぎないアンの風下に置かれたのだ。
 階級こそ絶対だった当時としては当然の怒りだった。

 メアリー内親王は怒りのあまり、アンの戴冠式への出席を拒んだその直後、娘フランシスを残して、38歳の若さで急死してしまった。
 アンは戴冠式の約4ヶ月後、ヘンリー8世との間に第2王女(後のエリザベス1世)を産んだ。
 母親同士の確執は、メアリー内親王の娘フランシスとアン・ブーリンの子エリザベス王女にも引き継がれた。
 従姉妹とはいいながら、2人の交流は全くなかった。
 前述したとおり、フランシスはやがて2代目ドーセット侯爵ヘンリー・グレイに嫁ぎ、王家の血を引く3人の娘を産んだ。3
人姉妹の長女ジェーン、次女キャサリン、三女メアリーは、いずれも王位継承権を持っていた。
 そのためグレイ家は、庶子扱いで王位継承権が疑わしいエリザベス王女に対して、正統な王位継承者たる意識を持っていた。

 しかし、軍配はエリザベスの側に上がった。
 ノーサンバーランド公が擁立したフランシスの長女ジェーン・グレイは女王として即位したものの、わずか9日間で退位し、その後を継いで英国女王となったメアリー1世も跡継ぎを残さないまま早世したので、王位はエリザベスの手に渡ったのである。

 エリザベスが即位すると、とたんにグレイ家に対する報復が始まった。
 グレイ家の弟筋であるピーゴの系統が、まったく爵位を持てなかった史実から見ても、いかに冷遇されていたか想像できる。

 ところでフランシスとドーセット侯爵ヘンリー・グレイとの間には娘はいたが、爵位を次ぐ男児がいなかった。(ドーセット侯爵は、長女ジェーン・グレイとほぼ同時に処刑されていた。その時点で男児がいなかったので、爵位は次女の夫か、三女の夫が引き継ぐはずだった。)

 本来であれば、ドーセット侯爵位は、次女のキャサリンが受け継ぎ、その夫であるハットフォード伯エドワード・シーモアが名乗るはずであった。
 ところがエリザベスは2人の結婚に立ち会った神父の口を塞ぎ、書類を破棄してまで、結婚を無効にした。
 その上、次女キャサリンには父ドーセット公爵家の相続を許さなかった。

 グレイ家の子孫を事実上王位継承から追い出したのみならず、ドーセット侯爵位すら許さなかったのだ。

 さらにグレイ家姉妹が、母フランシスから受け継いだサフォーク公の領地も奪い、1571年、お気に入りの側近ニコラス・ベイコンに与えてしまった。
 しかもエリザベスは死に際し、大臣ロバート・セシルから、「王位をハットフォード伯とキャサリン・グレイとの間に生まれた息子に譲ってはどうか」という打診を受けた時、「あのあばずれと与太者の子孫になど、誰が王位をくれてやるものか」と答えたという。

 長女、次女が相次いで非業の死を遂げた後には、三女メアリーが残された。
 メアリーは、生まれつき背骨が湾曲している障害があった。背も非常に低かったという記録からすると、成長ホルモン異常の病気があったのかもしれない。しかし障害者であっても、父母や姉たちがいる間は何の心配もなかった。家族の中で愛され、育まれ、差別を知ることもなく成長した。
 8歳の時、姉ジェーンやキャサリンと一緒に、名目だけの結婚式をあげた。
 相手は従兄弟のアーサー・グレイであった。アーサーはグレイ家が没落したと見るや、エリザベス1世に忖度して、ただちにメアリーを離婚した。

 身よりを失ったメアリーは、宮殿の門番だった男やもめ/トーマス・キースという中年男性と知り合い、ひっそりと結婚した。しかし、それを、そっとしておくようなエリザベスではなかった。

 トーマス・キースは遠方の刑務所へ流刑、メアリー自身には死ぬまで自宅蟄居を命じた。
 障害ある身を世話する人さえいない状況だった。メアリーは、せめて子供の頃から身の回りの世話をしてくれた、エイドリアン・ストークと一緒に暮らさせてほしい、と懇願した。
 さすがのエリザベスも、それだけは許可した。
 さらにメアリーは投獄されたトーマス・キースを、先妻の子供が面倒を見ることを許可してほしい、との嘆願書も書いているが、こちらが認められたか否かは定かではない。

 メアリーは1578年4月20日、孤独のうちに亡くなった。33歳だった。
 メアリーが死去したことで、王家の傍流だったグレイ家は断絶したのだった。
 こうしてエリザベス1世は、国内にいた王位継承権を持つグレイ家を滅亡に追いやって微笑した。

                 参考資料/
         The Tudor place by Jorge H. Castelli
         Lady Jane byJennifer Halligan
         Lady Jane Grey by Jane Lambert
         Whos Who in Tudor England (Whos Who
         British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh 


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愛欲のルネサンス②美女の条件 [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

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 ルネサンスの美女の条件は「威厳(majeste)」だった。
 この「威厳(majeste)」という言葉は、12~14世紀/中世の聖母子像のテーマでもあった。
 たくましい人間賛歌の時代は、なよなよしたペット的な愛らしい女性ではなく、愛を献上するに相応しい女王のような美女がもてはやされた。
 風俗年代作家のブラントームは、著書「風流夫人」の中で、最先端の美人について、語っている。

「背の高い、大きな女はあだっぽさ(la belle grece)や、そうした女にそなわる威厳(majeste)だけからいってもすばらしい。たとえば天下の美しい、大きな軍馬をあやつることは、小さなロバをあやつるより、100倍も気持ちよく100倍も愉快であり、騎手に大きな喜びを与える」

 これはヨーロッパ人が、人類の中でもっとも男女の体格差の大きい、長身のゲルマン系が多かったせいでもあろう。また、中世の騎士道精神の影響もあったはずである。
 白馬の王子は、高貴な姫を助けるのと同時に、跪いて忠誠を捧げたのである。

 しかし、人類の中でももっとも男女の体格差が小さいと言われる東アジアでは、こうはいかない。
 唐~宋代の中国絵画では、女性が男性より一回り小さく描かれている。
 私の知っている範囲内では、東洋で男性並に体の大きい女性を好む風潮があった話は聞いたことがない。
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 上は女性が男性より一回り以上も小さく描かれている中国絵画(女史箴図巻/初唐時代の模写/大英博物館蔵)
 熊に襲われそうになった帝の前に立ちふさがる妃の姿が、隣にいる兵士や帝と較べると、子供のように小さい。


 女王エリザベス1世は身長175センチ、スコットランド女王メアリー・スチュアートは180センチあったと伝えられる。
 エリザベスはメアリーが自分より背が高いと聞いて、「それではのっぽ過ぎるわ」と語ったという。
 背が高いのと同時に肉がついていることも、美の条件だった。
「しがみついて巨人を押しつぶすほどの」丸々としたたくましい腕、どっしりしたお尻、豊かな胸」
 この時代、男も女も負けず劣らず、たくましかった。

「その当時(16世紀)のイギリスの若い貴族は、人間の一番気高い産物の1つ、つまり太陽神アポロと一等に当選した種馬との間にできた、あいのこのような人間であった。かれらは自分たちを美術家だと感じるのと同時に、行動の人だとも感じた」(ブランデス)

 同じヨーロッパでも、バロック時代に移ると、フランスやスペインのように絶対君主制/貴族社会ではしだいに女性はペット的な享楽道具と化していったのに対し、市民階級が力を誇ったドイツやオランダ、英国では、女性の健康美が尊ばれた。

「若い娘はまっすぐで、堂々としているぞ。娘はまるで石弓の矢のようにまっすぐに歩く。娘の頭と髪の毛はりっぱな冠だ。そして娘の放つその声は、甘い響きをもっている。若者達が後をつけるのも、もっともだ」(ニュールンベルクの謝肉祭芝居「美人試合」より抜粋)

 好色で知られたフランス王アンリ4世は、生涯100人近い側室を持ったといわれている。そんなアンリ4世の寵愛を一時期独占したのが、ガブリエル・デストレという名の美女だった。
 ガブリエルは、当時好まれた輝くようなブロンドに青い瞳、肌は、着ている白いサテンのドレスよりも白かった、と伝えられる。色白もまた、ルネサンスの絶対的美人の条件の1つだった。

 ガブリエルは、ある時アンリ4世が正式な王妃を迎えると聞き、王妃候補の姫君たちの肖像画を見せられた。
 1人はスペイン王女イザベル・クララの肖像で、黒い髪に小麦色の肌をした、引き締まった逆三角形の顔と細身の肉体だった。
 もう1人は、ぽっちゃり太り気味・色白で金髪ののトスカーナ大公女マリア・ド・メディチの肖像画である。

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         (イザベル・クララ王女/1579年
          サンチェス・コレーリオ作プラド美術館蔵)
 ガブリエルはイザベル・クララの肖像画はブスだと鼻で笑ったが、マリア・ド・メディチは「魅力的で危険なライバル」だと漏らした。
後に、このマリアがアンリ4世に嫁ぎ、マリー・ド・メディシスと呼ばれることとなる。彼女が己の栄光の人生を描かせたルーベンスの大作「マリー・ド・メディシスの生涯」では、乳房を露わなでっぷり太ったマリーの姿がたっぷり見られる。

 愛人ガブリエルも最初の頃はスマートだった。それが引け目となっていた。前の国王アンリ3世は彼女を見たとき、「貧弱な女だ、みっともない」と漏らした。やがてアンリ4世の側室となり、3人の子を生んでぽっちゃりしてくると、「王妃になることを意識してか、堂々とするようになってきた」とやっかみまじりの褒め言葉が囁かれたという。
 やがてガブリエルは、4度目のお産を前に妊娠中毒症になり、26歳で亡くなった。肥満は母体にも胎児にも悪影響を与える。妊娠中毒症と難産の原因になる可能性があるからだ。ガブリエルが早世したのも、急に太ったことが原因だったのかもしれない。

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 ガブリエル・デストレ(右)と妹の肖像/ルーブル美術館蔵。ガブリエルはアンリ4世に結婚を迫り、もらった指輪を示して、王妃になる可能性を示唆している。

                 

                    参考資料
               風俗の歴史 フックス著 光文社 
               歴史の中の女たち 高階秀爾著 文芸春秋社
               狂えるオルランド アリオスト 名古屋大学出版会
               華麗なる二人の女王の闘い 小西章子 朝日文庫
               世間噺後宮異聞   渡辺 一夫 筑摩書房
            

 


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愛欲のルネサンス①美しい乳房 [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

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 生まれたままの姿、本当の自分を人前に晒すこと・・・それは人の心の奥底に眠る妖しい危険な願望かもしれない。
 かつて日本でも、裸体を非礼とする儒教が入る前の昔、裸体は神聖なものだった。
 古事記には、巨大な鼻を持つ異形の神・サルタヒコが現れた時、その邪気を避けるために、女神ウズメノミコトは全裸で迎えたという。美しい裸体には、悪を退けるパワーが秘められていると信じられていた。
 ヨーロッパではどうかといえば、ギリシャの「完全なる肉体を持つ者は完全なる魂を持つ」という思想に基づいて、美女の裸体は至高の存在だった。
 1461年、ルイ11世(シャルル7世の皇太子)がパリを訪問した時、ボンコーの噴水の傍らにひしめく群衆の中に、人魚を模した、ほぼ全裸の3人の美女が混じっていて、誰もがそのスタイルの美しさに感嘆した、という。

 数年後の1468年、ブルゴーニュ公国のシャルル剛胆公がリル市を訪問した時には、3人の美女が全裸で現れ、ギリシャ神話の※「パリスの審判」を模して、誰が一番美しいかを競った。
パリスという羊飼いが3人の女神の中で一番美しい女神に黄金の林檎を与えたというエピソード

 一方英国でも、女王エリザベス1世は行幸先で、ニンフや花の女神を真似た、ほとんど全裸の美女の出迎えを受けた。
 全裸の歓迎は、ただ裸ではつまらない、と思うと、わざとすけすけのベール一枚だけをまとって登場することもあった。
 現在も残る、アンリ2世の側室ディアンヌ・ド・ポワチエの肖像と伝えられる「サビーナ・ポッパエアの肖像(作/フォンテーヌブロー派ジュネーブの美術歴史博物館所蔵/)下の画像」は、頭からすっぽりベールをかぶりながら、全て透けて見えている。
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 6世紀、胸を露出して歩くことを「食卓を開く」と称した。
 最初は売春婦だけの流行だったのに、なぜか身分を問わず、全ての女性に流行った。
 顔はマスクやベールで隠しても、胸だけは丸出しだった。
 アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディチは、乳首をダイヤを散りばめたリングや金のキャップで飾り、金の鎖で2つの乳房を囲むデザインを発明した。

 裸が大嫌いな儒教世界/東北アジアでも、例外的に乳房を出して歩くケースがあった。
 朝鮮では、跡継ぎとなる息子を生んだ女性だけが、チョゴリの胸の部分を切って、乳房を見せる栄誉に恵まれた。李朝朝鮮では、胸は色気よりも母性の象徴だった。
 現在でも、誇らしげに乳房を露出している妻達の記念写真が沢山残っている。
(下の写真は20世紀初頭の韓国女性の写真/サイト「日韓併合前後 朝鮮半島写真館」より)
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 さて、いくら流行とはいっても、胸を露出して公道を歩いて教会まで来られてはかなわない。
 僧侶が大声で不道徳だ、と説教しても無駄だったので、ついに法的に取り締まることとなった。
 17世紀のヴェネチアでは、こんな布告がなされている。
「公的に許された売春婦以外は、何人たりといえども、胸を裸にして外出したり、教会に参詣してはならない。これに反した場合、夫は名誉を剥奪され、罰金を納めなければならない。」
 法律で取り締まるということは、それだけ数が多かった事実を物語る。
 もっとも、最初から露出したわけではなく、襟ぐりを広く開けていって、コルセットとベルトで下から胸を締めて押し上げた結果、ポロリと乳房が露出してしまったのが、案外うけたのがきっかけであったのだろう。
 イエスにお乳を与える聖母子像は、中世からルネサンスまで、好まれたテーマであった。
 乳房は卑猥さではなく、母性のシンボルであり、ニュールンベルクの「青春の泉」のように、お乳の吹き出す女性像は噴水のテーマによく使われた。

 この胸ポロリで有名な肖像画が、アントワープ美術館蔵「ムーランの聖母子」だろう(下の画像)
 モデルはシャルル7世の側室で、「こんな美人見たことがない」と絶賛されたアニュス・ソレル。
 真っ赤な天使という異様な背景に、スキンヘッズの美女が豪華な冠をかぶり、無表情に膝の上の幼児を見つめている。乳房はほとんど脇の下から生えている(?)と思われるほど、非現実的なまでに上部にあるのは、それがこの時代の理想的な乳房の形だったからである
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 「卵より立派な乳房よ、薔薇も顔負けの乳房よ、おまえを見る時は、手でおまえに触れ、おまえをつかまえたいという、たまらない気持ちを誰にでもおこさす」(クレマン・マロが乳房に捧げた詩「全集」)
       

                 

                   参考資料
              風俗の歴史 フックス著 光文社 
           歴史の中の女たち 高階秀爾著 文芸春秋社


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