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②薔薇戦争/いがみ合うヨ—ク家とランカスター家 [英国通史]

 

   
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  ②薔薇戦争/いがみ合うヨ—ク家とランカスター家


 皇太子ブラック・プリンスの家系断絶にかわって、エドワード3世の第3王子ゴーントの子、ヘンリー4世が即位した。ランカスター王朝の始まりである。
 ゴーントには他にも側室キャサリン・スウィンフォードに産ませた息子がいて、その血統が後にチューダー王朝につながっていく。

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 一方エドワード3世の次男坊エドマンドの血統が、ヨーク王朝を成立させる。
 このランカスターとヨークこそ、次の戦争である薔薇戦争の主人公である。
 なぜ薔薇かというと、ヨーク家の紋章が白いバラ、ランカスター家の紋章が赤いバラだったというのが一般的な説であるが、実際薔薇の紋章を使っていたのはヨーク家のみであった。

 従兄弟リチャード2世を暗殺してのし上がったヘンリー4世は、天罰なのか、ハンセン氏病に感染して悶死する。その後を継いだヘンリー5世も、フランス王女との間に王子が生まれて半年もたたないうちに、フランスで病死。この王子、ヘンリー6世の母方の祖父が狂気のシャルル6世であった。そのせいかヘンリー6世も心が弱く、ヨーク家のリチャードが王位簒奪のために挙兵した。

 薔薇戦争の始まりである。

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 薔薇戦争の最中にヨーク公リチャードは戦死、その亡骸には紙の王冠を被せられるという侮辱を与えられた。

 あやうく難を逃れたその息子エドワードは、姉の嫁ぎ先のブルゴーニュ公国に身を寄せ、1461年英国にカムバックして力づくで王位を奪い取った。
 ここにエドワード4世が即位し、ヨーク王朝が成立した。

 しかしエドワード4世の治世は決して安定したものではなかった。有力貴族や海外の王家との縁組みをしなかった彼は孤立し、元は平民の未亡人だった王妃エリザベスの一族を重用した事も重なって、次々と重臣や弟達が背いた。
 中でも末の弟のリチャード3世は兄亡き後、兄の子供とエリザベス王妃を追放し、王位を奪った。

 その頃すでに対立していたランカスター家も断絶同然だった。
 エドワード3世の第3王子ゴーントは、嫡子ヘンリー4世の他に、側室キャサリンとの間に4子があり、後顧の憂いを無くすために王位継承権から除外されていた。
 しかし、その末裔であるサマーセット公ジョンは、早世したヘンリー5世の王妃がウェールズ出身の侍従と同棲して産んだ庶子・エドマンド・チューダー(リッチモンド伯)に娘マーガレットを嫁がせる。
 二人の間に生まれたのが、父と同じくリッチモンド伯を名乗った、後のヘンリー7世である。こうして誕生した新興一族チューダー家は、1485年、ボズワースの戦いでチャード3世を戦死させる。
 リッチモンド伯はヘンリー7世として即位し、ここに16世紀を通して英国を支配したチューダー王朝が始まるのであった。
            
 1460年 エイクフィールドの戦いでヨーク公リチャード戦死
 1461年 ヨーク公長男エドワード4世即位(ヨーク王朝)
 1470年 エドワード4世、ランカスター側に敗れてフランスへ亡命
     ヘンリー6世復位
 1471年 エドワード4世復位、幽閉中のヘンリー6世暗殺
 1483年 エドワード4世早世 リチャード3世即位
 1485年 ボズワースの戦いでリチャード3世戦死、ヘンリー7世即位
     (チューダー王朝成立) 


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敗者の運命/マーガレット・ソールズベリー伯爵夫人 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 ソールズベリー伯爵夫人マ—ガレットのデッサン/作者不詳/大英博物館蔵
             (1473~1541)

 マーガレットの父は、エドワード4世の実弟クラレンス公ジョージ。
 母親は「キング・メーカー」と呼ばれたウォーリック伯の娘・イザベラ・ネヴィルであった。この2人の間に、1473年8月14日、誕生した。
 5歳の時、父はエドワード4世の命令で反逆者としてロンドン塔内で処刑された。

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 前王朝プランタジュネット家の王子は、長引く内乱やその後即位したヘンリー7世によって、ほとんど全てが粛清されていた。姫君は反逆を企てる危険性も低かったためか、粛清から逃れた。マーガレットもその1人であった。
 エドワード4世崩御の後、その王子達が庶子の決定を受けて王位継承権を無くした上に、後を継いだリチャード3世の皇太子もまた早世したために、マーガレットは王位継承権を有する身となった。

 しかしヨーク王朝はすでに終焉を迎えていた。ヘンリ—・チュ—ダ—は新王朝を開いてヘンリー7世として即位した。その後マーガレットは恩赦され、1491年にはソールズベリー伯リチャード・ポールに嫁がせた。
(リチャード・ポ—ル=ヘンリー7世の従兄弟)

 
 14年後、夫のリチャードが亡くなったとき、マガレットにはヘンリー、レジナルド、ジェフリー、アーサー、ウルスラの5人の子供たちが残された。このうち2男レジナルドは法王から枢機卿に任命された。
 

 マーガレットはチューダー王朝でも優遇された。特にヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと仲が良かった。第1王女メアリー(後のメアリー1世)が誕生した時には洗礼式に付き添って名付け親を務め、王女の世話役にも任命された。
 メアリーは王女として実母の手から離れて、マーガレットに育てられた。
 母のキャサリンは「娘を呼べば、すぐに応じてくれるよう」マーガレットと密に連絡を取り合っていた、という。メアリーが3歳で神聖ローマ皇帝カール5世との縁談が壊れた時には、マーガレットの息子レジナルドとの縁談も浮上した。
 このままいけば、マーガレットは新女王の義母として、権勢を握ったかもしれない。

 しかし再び時代は変わり始めた。ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚問題は、メアリー王女に影響を与えずにはいられなかった。
 新王妃アン・ブーリンが第2王女エリザベスを生むと、第1王女メアリーは王位継承権を奪われた上に、強制的にエリザベスの侍女にされてしまった。
 マーガレットもまた養母の地位を剥奪され、蟄居せざるをえなくなった。

 メアリーを王女と呼ぶ事は禁止されたにもかかわらず、マーガレットはメアリーを王女と呼び続けた。そして自分の紋章には、夫ポール家の紋章スミレの花に加えて、メアリーの紋章であるマリーゴールドの花を添え、王女への忠誠を表した。
 ヘンリー8世はレジナルド枢機卿を懐柔しようと試みた。もしキャサリンとの離婚を承諾するなら、ヨークの大主教の座とウィンチェスター主教区の支配を約束しようと申し出るが、レジナルドはそれを蹴って1532年、フランスに亡命、パリとイタリアのパドヴァを行き来しつつ、ヘンリー8世に反論する論文を書き続けた。

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ソ—ルズベリー伯爵夫人マーガレット
作者不詳/ナショナルポートレートギャラリー蔵
 1536年アン・ブーリンが没落すると、マーガレットは許されて、再び宮廷に戻った。しかし2男レジナルド枢機卿はバチカンを代表して、ヘンリー8世の宗教改革に正面から抵抗してみせた。1537年の「恩寵の巡礼の乱」でも、レジナルドは反乱の首謀者に支援を与えていた。

                 
 1538年11月、4男のジェフリーと、母方の従兄弟エドワード・ネヴィル及びニコラス・カルー卿が反逆罪容疑のために逮捕された。翌年1月、ジェフリーを除く2名がロンドン塔で処刑された。
 ジェフリー逮捕の10日後、マーガレットもまた反逆罪で逮捕となり、サザンプトン伯とイーリー主教の取り調べを受けたが、彼女は口を閉ざしたままだった。マーガレットはさらに取り調べが続いた。

 ヘンリー8世は、マーガレットが「5つのキリストの傷をモチーフにした刺繍」のある白いチェニックを持っていた事に目をつけた。その紋章は「恩寵の巡礼」反乱軍の旗印でもあったので「マーガレットもまた反乱に関与している」と断定した。また、マーガレット専属の神父が海外に脱出していた事も、「ヨーロッパにいるレジナルド枢機卿と連絡を取り合っている」と見なされた。
 そのためマーガレットはロンドン塔に2年間幽閉される事になるのだが、塔内での待遇は悪く、常に衣服の粗末さと寒さとに苦しめられていた、という。

 1540年5月27日(または28日)、マーガレットは突然処刑を告げられた。
 「私は無実です!反逆などしていません!」
 そういって抵抗し、処刑台に上がることを拒否するマーガレットを、処刑人は斧で後ろから首を切りつけた。

 ロンドン市長を含む150人の立ち会い人の目の前で、絶叫するマーガレットの首に、何度も斧が振り下ろされた。夥しい血が飛び散った凄惨な処刑だった。
 それは実際、ヘンリー8世によるレジナルド枢機卿への復讐だった。ヨーロッパでバチカンの庇護を受け、手出しできないレジナルドの代わりに、腹いせで母親のマーガレットを惨殺したのだった。
 母の死を聞いたレジナルド枢機卿は、こう語ったという。
「私は母の死を恐れない」

 ヘンリー8世とアン・ブ—リンとの略奪婚、その結果生じた英国国教会は、無数の犠牲者を生んだが、マーガレットもその1人だった。
 それから数世紀を経た1886年、時の法王レオ8世は、マーガレットを殉教聖者の列に加え、命日の5月28日を祝日に決めたという。

             参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        The Catholic Encyclopedia


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名門ではなかった「ブ—リン家の姉妹」/第二王妃アン・ブ—リンの家系 [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]

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ある男の出世の物語
トーマス・ブーリン
Thomas.Boleyn
(1470~1539)

~ ブーリン家の興亡~
 
 映画「ブ—リン家の姉妹」という映画をご存じだろうか。原作は「もう1人のブ—リン家の娘」という歴史小説で、ヘンリー8世の王妃となった長女アンと、愛人となった妹メアリーの物語である。
 姉のアンは娘エリザベスがたまたま女王になったので有名になったが、妹(または姉/諸説あり)メアリーは無名のままだった。
 ネット検索していてエリザベス女王のことを調べていると、その母アン・ブーリンの実家について「かなり身分が高かった」という記述にぶつかる時がある。
 何を持って「身分が高い」というかについては議論の余地があるが、少なくとも爵位という点において、ブーリン家は名門ではなかった。

 ブーリンの家系は、15世紀初頭まで遡ることができる。ただ「サフォーク州サリーの一族」というだけで、どこまでいっても貴族であった痕跡は見つからない。富農からロンドンへ出て商人となり、トーマスの祖父ジョアフリーの代にロンドン市長を勤めている。薔薇戦争の最中であった。その功績で「サーsir」の称号を与えられている。
 初めて貴族の端くれになったのだ。

 さてロンドン市長に出世したジョアフリー(又はジェフリー)には3男4女がいた。そのうち19歳の次男のウィリアムと12歳の少女マーガレット・バトラーとの間に生まれたのが、トーマス・ブーリン、すなわち「ブ—リン家の姉妹」の父親となるト—マス・ブ—リンだった。

 1490年、20歳でコーンウォールの反乱鎮圧に従軍したトーマスは、その才能を第2代ノーフォーク公に認められ、その娘エリザベスと結婚した。

 ノーフォーク公ハワード家は名門である。ブーリン家は結婚によって、この名門と縁続きになった。逆「玉の輿』に乗って、初めて中央貴族の末席に連なった。そしてその縁で、ヘンリー8世の戴冠式に出席し、ナイトの称号を与えられた。国王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に王子が産まれると(1511年)、祝祭のトーナメントにも出場した。

 トーマスにとっては未来は薔薇色に見えただろう。
 だが、実を言うと、本格的な出世はそこからである。
 1519年から2年間、駐仏大使として活躍し、ついでにフランス王妃となった王妹メアリー内親王の侍女として、二人の娘メアリーとアンをフランスに送った。これが映画「ブ—リン家の姉妹」のモデルとなった。
 娘は2人ともヘンリー8世の愛人となったが、なぜか容姿で劣っていた次女のアンがヘンリーの寵愛を独占し、男子を産んで失った王妃の代わりに、王子を産むと宣言して、王妃の座を要求したのである。

 アンに夢中だったヘンリー8世は離婚を考えるが、これといって落ち度も無いキャサリン王妃の離婚には法王を始めとして国中が反対した。離婚係争は延々と6年に渡って続いた。ヘンリー8世はアンの気を引くために、アン自身にペンブルック侯爵位を贈った他、父のトーマスにもウイルトーシャー、オーマンドの二か所の伯爵領を与えた。
 ついにトーマスは念願の伯爵になった。

 幸運はまだまだ続く。
 アンは1533年、ヘンリーの子を身ごもり、その年の5月、ついに王妃の座を獲得したのだった。

 だが4か月後、アンが王女エリザベスを産んだ頃から雲行きが怪しくなる。
 男子出生を焦る一方、わが子エリザベスの王位継承のために、アンは兄ジョージらを巻き込んで前王妃の娘メアリーの暗殺を謀る。そして何とか王子を産むために、何人もの側近(兄も含む)と不倫に及んだ、という。
 ヘンリー8世は、アンの暗躍を「不義密通」と断定して、兄ジョージらをアンともども処刑してしまった。

 この時、不思議なことに、父トーマスは何ら子供達を弁護できなかった。
 あるいはトーマス自身も加担していたのかもしれない。かろうじてブーリン家は全滅を逃れたが、嗣子ジョージが処刑されたために、ブーリン家の断絶は避けられなかった。
 1537年、アンの死後王妃となったジェーン・シーモアがめでたく王子を出産すると、その洗礼式に出席し、周囲から嘲笑の視線を浴びた、という。

 トーマスは宮中を退いて自分の城であるヒーヴァー・キャッスルに隠遁し、1539年3月、失意のうちに亡くなった。
 ブーリン一族。それはチューダー王朝の始まりとともに出世し、そして孫のエリザベス朝の直前に失墜した、ある意味時代を反映した一族といえよう。
   

               参考資料/
         The Tudor place by Jorge H. Castelli
         Tudor World Leyla . J. Raymond
         Tuder History Lara E. Eakins
         The Tudors  Petra Verhelst
         英国王妃物語 森 護 三省堂選書

 

ヒーヴァー・キャッスル 公式サイトhttp://www.hevercastle.co.uk/


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ヘンリー8世の愛人たち①エリザベス・ブロント [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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ヘンリー・フィッツロイ/オーフォード伯コレクション

  1、エリザベス・ブラント
    Elizabeth Blount
   (1502~1539
           
 上の版画、何となく目元かキムタクっぽい少年…実はヘンリー8世の息子である。フィッツロイという単語は、古語で「王の息子」という意味がある。「ヘンリー・フィッツロイ」という名前は個人の洗礼名であるのと同時に、「王の息子ヘンリー」という生い立ちを意味していた。
 皇太子としてエドワード(後のエドワード6世)が生まれるまで、彼はヘンリー8世のたった一人の息子だった。周囲からは「王位を継ぐかも知れない」と密かに期待されていた。

 しかし、母は当時王妃だったキャサリン・オブ・アラゴンではない。
 ヘンリー・フィッツロイを生んだのは、ヘンリー8世の愛人エリザベス・ブロントという若い宮廷女官だった。
 エリザベスは1512年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女見習いとして、宮中へ上がった。 わずか10歳だった。貴族の娘が行儀作法を学ぶために、幼くして宮廷に使えるのは珍しくなかった。行儀作法だけでなく、大貴族とのコネクションも作れるし、あわよくば玉の輿に乗れるかも知れない!…そんな期待を込めて、親達は娘を宮中に送り込んだ。
 
 父のジョン・ブラントは国王付きの護衛(King's Spears)だったので、その関係から王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。
  1514年、キャサリン王妃は王子を産んだが、一月もしないうちに王子は亡くなってしまった。
 エリザベス・ブラントは、悲しむ王妃を慰めるために唄い踊った、という。
 時にはヘンリー王とペアを組んで踊ることもあった。ヘンリー8世は、しだいにエリザベスに惹かれていった。
 実はヘンリーの愛人はエリザベス・ブラントが最初ではなかった。
 エリザベスの友人でもあるブライアン家の娘(エリザベス・ブライアン)は、いち早くヘンリーの愛人となり、降るような贈り物(ダイヤモンドの首飾りにミンクのコートなどなど)の他、母親にまで500ポンドもの大金が贈られていた。
 エリザベス・ブラントもまた高価な贈り物とともに、父ジョン・ブラントの地位が護衛(King's Spears)から、王の寝室付き護衛官(Esquire of the Body)へと出世した。
 1518年10月、愛人となったエリザベス・ブラントとヘンリー8世とともに、メアリー王女(後のメアリー1世)とフランス皇太子との婚約式に出席した(後に婚約解消)
 キャサリン王妃は、ちょうど7回目の妊娠中で、大事をとって静養中だった。
 エリザベスはヘンリー8世のためだけに唄い、踊った。その時、すでにエリザベスはヘンリー8世の子を身ごもっていた。
 翌年1519年6月15日、エセックス州のジェリコ修道院で、男の子が産まれた。
 父の名にちなんで、「ヘンリー・フィッツロイ」と名付けられた 。
 ヘンリー8世はしばしばエリザベス母子を訪ねては、「ジェリコに行ってきた!」と冗談交じりに嬉しそうに語っていたという。
 しかし、そんなヘンリー8世の愛も長続きしなかった。
 やがて彼の愛情はエリザベスから、ブーリン家の姉妹メアリーとアンへと移っていった。
 そのため、エリザベスはギルバート・タルボーイズという男との結婚を強要され、お払い箱となってしまった。ルバートはエリザベスを妻に迎える代償に、ナイトの称号とリンカシャー保安官に任命された。
 1525年、エリザベスは夫について、リンカシャーヘ移り住んだ。

 一方エリザベスの産んだ「ヘンリー・フィッツロイ」は国王に引き取られ、リッチモンド公の称号を与えられた。皇太女(Princess of Wales)だった異母姉メアリーに次ぐ王位継承者と見なされ、「王子」と呼ばれていた。
 エリザベスは1530年夫ギルバード・
タルボーイズに先立たれ、息子を頼って宮中へ戻ってきた。
 しかし、そこにはすでに新たな愛人として、アン・ブーリンが権力を握っていた。
 アンは王妃キャサリンやメアリー王女、ヘンリー・フィッツロイのみならず、エリザベスまで目障りだとして、宮中から追い出したのだった。4年後の1534年、エリザベスは、亡父の所領の隣に地所を持っていたクリントン卿と再婚した。

 一方フィッツロイはフランス宮廷へ留学に出された。
 1533年10月、アン・ブーリンの兄ジョージがフランス宮廷に着き、フィッツロイと面会した。
 その直後、同じワインを飲んでいたフィッツロイとその友人が倒れた。
 2人を看た医師は、ただちに何らかの毒物による典型的な中毒だと診察した。
 フィッツロイが倒れた直後、ジョージ・ブーリンは単身英国へと逃げ帰っていた。
 後にジョージの妻は、アンとジョージの2人が、「フィッツロイの毒殺を計画していた」と告白したという。
 その後、アン・ブ—リンは1533年11月、自分に忠実な一族メアリー・ハワード(3代目ノーフォーク公の娘)をヘンリ—・フィッツロイに嫁がせた。2人はまだ14歳になったばかりで、結婚するには若すぎた。監視させる意味合いがあったのかもしれない。
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 1536年、アン・ブ—リンが反逆罪で裁かれて処刑された。
 ヘンリー8世はフィッツロイを呼び、涙ながらにアンの企みが成功しなかったことを喜んだ。
「王は涙を浮かべ、彼と、彼の姉(メアリー)が呪われた娼婦(アン・ブーリン)
 の毒殺の魔の手から逃れたことを神に感謝した。(King, with tears in his eyes said that both he and his sister ought to thank God for having escaped from the hands of that accursed whore who had planned their death by poison.)」
 だがフィッツロイは同年7月、結婚したばかりの若い妻メアリー・ハワードを残して突然早世してしまう。17歳の誕生日を迎えたばかりであった、
 
 リンカシャーでは、ヘンリー8世の離婚のゴタゴタから生じた宗教改革から王室への不満が高まり、それが後に「恩寵の巡礼」と呼ばれる反乱に繋がることになる。

 反乱と突然の息子の死・・それがエリザベスに深い衝撃を与えたのか、1539年2月、世を去った。

 享年37歳。

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リッチモンド公爵夫人メアリー・ハワード
  (ホルバインの下絵/1536年?)

 

 

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愛慾のルネサンス③アソコ [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

愛慾のルネサンス③アソコ
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 16世紀のヨ—ロッパ人は自分の妻を褒めちぎった。
 「愚妻」などとへりくだったりしない。他人に向かっても恥ずかしいほど自慢した。
 「赤いイチゴで飾られた素晴らしい手まり」「念入りに作られた白い腿」
「女の体を可愛らしく飾る、黄金色の、ちぢれた絹のような産毛」(何処の部分を褒めているか、勝手に想像して下さい)
 中世ドイツの卑猥な民謡に「白い野バラ」という作品があるが、笑えるというか、かなりシュールな内容である。

「この世には不思議なことがたくさん起こりますが、世間の人はそんなこと、信じようとしません。」
 これはホントの話ですよ?で、物語は始まる。

 あるところに1人の若い娘がいて、白い野バラを大切に育てていた。
「ものを言えない唖(おし)の口に、ある植物と入れますと、うまくしゃべったり、話をしたりするという、そういう力を持った植物がこの世にあるということは、世間の人がよくご存じです。」
 その通り、娘がいつものように花の世話をしようとしゃがんだところ、魔法の草が股間に入り込み、あら不思議、娘の股間がモゾモゾしたかと思うと、女性の秘所であるアソコがしゃべり始めたのである。

「あなたはあなたの体の中に、立派な部屋を持っておられます。でも、私に対して、感謝も好意も示されませんわ。」

 娘はびっくりした。
「私がおまえの声を聞くなんて初めてだ!」

 アソコは娘が大事に扱ってくれないのを、怒っている様子だった。
「男の人がどこでもあなたに言い寄るのは、私というものがあるおかげですわ!あなたが万が一私を失われたなら、あなたの値打ちなど無くなってしまうでしょう。」

 娘も怒って、アソコに言い返した。
「男の人があたしの言い寄るのはおまえのおかげだって?そんなの信じられないわ。男の人は私を美しいと思うからよ。私の顔が見たい、私に奉仕したいって、たえず噂するのを私は聞いている。誰がおまえなんか褒めるだろうか。おまえの顔はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開けている。もし男の人におまえの顔を見せねばならないなら、恥ずかしくて穴にでも入りたいわ。」

 するとアソコは「怒りのためにちぢれ毛を逆立てて」
「私のどす黒さはいやらしいものではありません!。その色からいって、男の人には気持ちがいいものです!。私はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開いています。それが私の姿でしょうよ。ご主人様、あなたの顔はなるほどバラ色でいきいきしています。しかし全ては私あってのあなたでございますわ。」

 娘は股間をのぞき込んで、言い返した。
「憎らしい!いい加減にお黙り。まるで海の怪物みたいに毛深い呪われた黒いお化け!おまえは何て嫌らしい形に作られたの。私からサッサと出てお行き!」

 そして両者は喧嘩のあげく、アソコは娘から出て行ってしまった。
 娘はせいせいして、いつも自分を口説いている男のところへ行き、アソコが出ていったことを話した。
 男はがっかりして、世間に言いふらした。娘は「アソコのないヤツ」だと国中の笑い者になった。
 一方、出ていったアソコの方はというと、いつもガマガエルと間違われて踏んづけられたり、石を投げられたり、自分の姿を見てもらおうと男性の側に行くと、蹴飛ばされる有様だった。
 アソコは軽率に出てきたことを嘆き、娘は何とかしてアソコにもどってきて欲しいと思った。両者は野原でバッタリ出会い、懐かしさのあまり抱き合って、再会を喜んだ。

「そこで娘さんに忠告しました。アソコは粗末にしてはなりません。私(語り手)は娘さんとアソコに頼まれましたので、元の場所に戻してあげました。」(ハーゲン「冒険全集」より中世ドイツ民話「白いのバラ」)

 フランス宮中記録係ブラントームの書き記した噂話によれば、アンリ2世王妃のカトリーヌ・ド・メディシスは、美しい侍女たちを裸にして眺めては、四つんばいにしてお尻を叩いたという。ある時はドレスを着たままの侍女のお尻だけを露出させ、平手で叩いたりした。やがてそれでは飽き足らなくなり、鞭で叩くようになった。
 ブラントームによれば、カトリーヌは子供の頃母親に鞭で叩かれるなどの虐待を受け、それが原因で他人を叩くことに快感を覚えるようになったという。
 しかし、カトリーヌの実母マドレーヌ・ド・ラ・トゥールは出産後すぐに亡くなっているので、この話は捏造か、または養育係の乳母のほら話だったのかもしれない。

 カトリーヌには他にも変質的な噂が多い。
 夫のアンリ2世にはディアンヌ・ド・ポワチエという年上の愛人がいた。
 カトリーヌは何故ディアンヌが夫を夢中にさせるのか知りたくて、わざわざディアンヌの部屋の天井裏に忍び込み、天井に穴をあけ、2人が絡み合っている様子を観察したと伝えられている。
 王妃のようにゴテゴテ着飾った人間が、屋根裏で音もなく気が付かれずに歩くという、そんな忍者のような真似ができたかどうか、はなはだ疑問である。

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