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エリザベス女王から愛人を奪った女/レティス・ノウルズ [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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               レティス・ノウルズ
               バ—ス・コレクション 

 レティスは官能的な美女と伝えられている。しかし現代の感覚で肖像画は見ると、当時流行った化粧のせいで、かなり奇妙な感じがするのを否定できない。
 白粉で顔を真っ白に塗って、下唇にぽってりとル—ジュを塗っている。眉毛は薄い方が良いとされていたので、とても薄い。首の回りにはお皿のように大きなラフ襟… 
 しかし顔立ちをよく見ると、
切れ長のセクシーな瞳、細い鼻筋、どこか東洋的美を漂わせる端麗な顔立ちは、化粧を落としてみると、ルーカス・クラナッハの描く美女に似ていたのではなかろうか。

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聖母子/ルーカス・クラナッハ1529年
バーゼル美術館蔵

 レティスはヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの姉/メアリー・ブーリンの孫だった。
 女王エリザベス1世にとっては、従姉妹の娘にあたる。
 アンとメアリーは姉妹とはいいながら、国王の寵愛を争うライバル同士であった。
 ヘンリー8世は美貌のメアリーではなく、アンを選んで結婚した。
 メアリーは既にキャリーという男の妻だったからだ。人妻の身で、国王にも身を任せていたのである。
 そんな因縁を持った姉妹の血を引くのが、女王エリザベスとレティスであった。

 レティスは1562年、この当時の感覚としてはやや遅い、22才で初代エセックス伯ウォルター・デヴァルーに嫁いだ。
 1572年、夫エセックス伯は1200名を率いて、アイルランド反乱鎮圧に出撃した。
 
4年後の1576年9月22日、反乱は完全に終結しないまま、エセックス伯はダブリンの地で赤痢に罹り、亡くなった。
 夫が戦場に行っている間、レティスにはある「情事」の噂がつきまとっていた。

 夫が不在中、レティスはテムズ川の岸辺にあるダーラム・ハウスに住んでいた。
 近所には、女王エリザベスの愛人レスター伯ロバート・ダッドリーの屋敷があった。
 宮中では顔見知り程度に過ぎなかった2人が急速に接近して人の噂になり始めたのは、レスター伯がケニワースでの女王御幸の祭典に着用するために、
ダーラム・ハウスに礼服を借りに来て、レティスが応対に出た事がきっかけだったという。
 当時の中傷パンフレットには、レスター伯と不倫していたレティスは、夫が一時帰国する寸前、愛人の子を堕胎していた噂が載っていた。
 真偽のほどは不明である。しかしレスター伯が、女王の愛人という危険な立場も忘れて、レティスに惚れ込んだのは事実であろう。
 その時点で、レティスは夫との間にペネロープ、ロバート(後の第2代エセックス伯/エリザベス1世の愛人、後に処刑)、ドロシー、ウォルターという4人の子供をもうけていた。

 1575年スペイン人デ・グアラスの報告によれば、レスター伯とエセックス伯はアイルランド問題をめぐって深い対立があったという。
 女王エリザベスは寵愛するレスター伯の言うがままに、エセックス伯のやり方を非難し、口を挟んできたからであった。
 1576年、エセックス伯はダブリンで赤痢のために亡くなったが、巷では「レスター伯が暗殺したのではないか」と囁かれていた。

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女王の愛人レスター伯ロバート・ダッドリ—
ニコラス・ヒリヤ—ド作/ナショナルポートレートギャラリー

 夫の死後約2年が経過した1578年9月21日、レティスとロバート・レスター伯はレティスの父の立ち会いのもと、ひっそりと再婚した。新郎は先妻を事故で失っていたので、再婚だった。先妻の死もまた、陰謀による暗殺ではないか、と噂されていた。
 女王エリザベスは2人の結婚に驚き、激しく怒った。
 「まさかロバートがレティスと再婚なんて…私は一言も聞いていない!ロンドン塔へ投獄しなさい!」
 これには周囲も強く反対した。2人は結婚歴はあるが今は独身であり、また王族でないので、結婚を女王に申告せねばらない義務もなかった。それを無視して投獄することも不可能ではなかったが、感情的過ぎる行為だった。「女王が嫉妬した」と国民の笑いの的になるのが関の山だった。

 1579年、レティスはレスター伯の唯一の息子を産む。父親と同じ「ロバート」と名付けられた。この少年は、デーンビー男爵の称号を与えられながら、わずか5才で亡くなってしまった。

 後に女王エリザベスはレティスの長男/第2代エセックス伯を愛人にしたものの、相変わらずレティスを無視し続けた。愛人の頼みに折れて、何度かレティスと会う約束をするが、途中で気が変わって約束を破っていた。あるパーティー会場で、レティスは300ポンドもする高価な宝石を持参して女王に献上すべく待機していたが、結局会うのは取りやめとなってしまった。
 しばらくして、エリザベスは自分の依怙地さを恥じたのか、レティスを招いた。
 レティスは万感の思いを込めて、遠縁にあたる女王の手と胸に接吻し、抱きしめた。
 女王エリザベスもまた、レティスを抱きしめて接吻し返したという。

 1585年、ロバート・レスター伯はオランダにおける対スペイン戦に派遣され、翌年の1月、オランダ総督に任命された。その頃から、レティスはまた、別の男性と浮き名を流し始める。
 今度は当時の主馬頭(しゅめのかみ/女王の馬を管理する長官)だったクリストファー・ブラントがお相手だった。
 1588年9月4日、レスター伯が亡くなると、翌年の7月にはすでに
クリストファー・ブラントと再婚している。しかし3度目の夫のブラントは、第2代エセックス伯が没落してクーデターを起こした時、共謀者として処刑された。レティスは長男と3人目の夫を同時に失ったのだった。

 レティスと最初の夫との間に生まれた娘のペネロープは、英国1の美女との誉れ高かった。
 ロバート・リッチなる男に嫁いだが夫婦仲は悪く、ペネロープはフィリップ・シドニーと不倫の愛に陥った。
 シドニーが亡くなった後は、マウントジョイ卿と愛し合い、夫のリッチが離婚に同意したにも関わらず、ジェームス1世王の怒りを買って再婚を禁じられた。
 そのため、ペネロープは
マウントジョイ卿の愛人のまま生涯を送り、その墓はただ名前のみを記した粗末なものであった。

 3人の夫の死を見送り、息子たちを失い、娘の不幸な結婚を見届けてもなお、レティスは生き続けた。
 そして1634年、当時としては驚異的な95才という長寿を全うした。
 すでに女王エリザベスは崩御し、次のジェームス1世すらなく、時代は動乱のチャールス1世の治世を迎えていた。

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   参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス ストレイチー著 中央文庫
ルネッサンスの女王エリザベス 石井美樹子 朝日新聞社

 


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