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アン・ブーリンAnne .Boleyn(1507?~1536)/ヘンリー8世の2番目の妻 [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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 アン・ブーリンは、在フランス大使トーマス・ブーリンとノーフォーク公女エリザベス・ハワードとの間の次女として生まれた。
 生年月日ははっきりせず、1501年という説もあれば、1507年生まれとの説もある。アンに関して、公式な記録や年代記など、詳細な記録が残っているのは、ヘンリー8世と愛人関係が成立して以降の事実ばかりである。

  同時代の人々はこう語っている。
「'not one of the handsomest women in the world.
 She is of middling stature,with a swarthy complexion,
 long neck, wide mouth, bosom not much raised,
 and in fact has nothing but the King's great appetite,
 and her eyes, which are black and beautiful -
 and take great effect on those who served the Queen
 when she was on the throne.
 She lives like a queen, and the King accompanies
  her to Mass - and everywhere
(In the early 1530s, the Venetian ambassador
 Savorgnano wrote)」
(彼女は、世界で最も美しい女の1人とはいえない。中肉中背、浅黒い顔色、首が長く
 大きな口、胸も大きいとは言えないが、その黒く美しい瞳に国王がご執心なのは事実
 である。また、彼女は王妃の地位に、多大なる影響力を持ち合わせている。
 王の行くところ、ミサだろうとどこだろうと同伴し、まるで王妃のようだ。
 1530年初頭、ベネチア大使サヴァログナーノの記述/くに訳)

 いつ頃ヘンリー8世が、アンに惹かれ始めたかについては、不明である。
 1520年以前ではありえない。なぜならその頃アンは英国にいなかったからだ。

 アンは始め王妹メアリー王女の侍女として、姉妹のメアリー・ブーリンとともにフランス宮廷で仕えていた。  1521年オーマンド伯爵の跡継ぎとの縁談のために帰国し、翌年の3月1日、宮中の仮面舞踏会に出席したのが宮中での最初の記録であった。
 その後ノーサンバーランド伯の子息ヘンリー・パーシーとの縁談があったものの、すでにアンに気のあったヘンリー8世が、ウルジー枢機卿に命じて圧力をかけ、破談させてしまった。その頃パーシーとは別に、トーマス・ワイアット(ワイアットの乱の首謀者の父)とも恋人関係にあったと伝えられている。

  ヘンリー8世はアンを口説こうとしたものの、アンの答えははっきりしていた。
「Queen or nothing(王妃になるか、一切をご破算にするか)」
 1527年、ヘンリー8世は「後継者を儲けるため」という大義名分のもとに、王妃キャサリンを離婚し、アンと結婚することを画策し始めた。

  法王との離婚許可交渉は難航を極め、5年もの歳月が流れた。その間ヘンリーは1529年 宗教改革会議、1532年法王に対する各種の税の支払いの拒否など、着々と英国の宗教的 独立に向けて準備を進めていった。
 その傍ら、アンに対しては1532年9月1日、ペンブルック女侯爵の地位を贈り、同年10月のフランス王フランソワ1世との会見の場にも同行するなど、王妃同然に扱った。

「Your Majesty must root out the Lady and her adherents....
 This accursed Anne has her foot in the stirrup, and will do
 the Queen and the Princess all the harm she can.
 She has boasted that she will make the Princess her lady-in-waiting,
 or marry her to some varlet.
(The Imperial ambassador, Eustace Chapuys, described circumstances
 in early 1533 to his master, Charles V)」
(陛下はあのレディ(アン)とその支持者を根絶しなければなりません。
 この呪われたアンめは、王女と王妃に及ぶ限りの災いをもたらすべく、その足を
 鐙(あぶみ)にかけております。あの女は王女を侍女にするか、ならず者の嫁にして
 やる、と自慢しておりました。」
(神聖ローマ帝国大使がカール5世に送った手紙/1533年/くに訳)
 
 1533年1月、アンが妊娠した事がわかると、その年の5月23日、キャサリン王妃との結婚は 無効であったとの宣言がなされた。続く6月1日、聖霊降臨祭日の木曜日、ウェストミンスター大聖堂で、アンの戴冠式が強行された。
 ロンドン塔から楽団付きの華やかな艀(はしけ)に乗って到着したアンの一向だが、迎える市民達は困惑の中で口を閉ざすか、罵声を上げるかの、どちらかだったという。

 1533年9月7日、アンはグリニッジ宮殿で第2王女エリザベスを出産した。
3 日後の9月10日、王女の洗礼式と同時に、第1王女メアリーの王位継承権は奪われ、かわりにエリザベス王女が皇太女となった。
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                                             アンのスケッチ/ハンス・ホルバイン/
                                                 ウィンザー城王立図書館所蔵

 アンをきっかけにした宗教における「絶対主義」の流れは、もはやアンとは関わりなく、怒濤のごとく驀進していった。
 エリザベスが生まれたその年のうちに、「国王至上法」が発令され、「英国王を英国国教会の唯一の首長と解し、認めかつ見なす」とされた。しかしアンの幸運は、エリザベスの誕生を境に、下り坂になっていく。


 なかなか王子が生まれない事に苛立ったヘンリーは、アンとの離婚を考えるようになる。王族であるキャサリンすら王妃の座から引きずり下ろされたくらいだから、下級貴族の娘 アンの地位など、吹いて消えるが如くであった。
 その頃アンの周辺には、不義密通やメアリー王女暗殺未遂を含めた、暗い噂が流れていた。
 それを知ったヘンリーは、大法官クロムウェルに調査を命じた。その結果、1536年4月30日、アンの愛人と目された音楽家マーク・スミートン、ヘンリー・ノリス卿、また叛逆の共謀者としてアンの実兄ロチフォード卿  ジョージ・ブーリンらが逮捕された。アン自身は遅れること3日、5月1日に逮捕された。
 かつて愛人だったとの噂のあるトーマス・ワイアットも逮捕されたが、証拠不十分として解放された。

 5月15日、アンとジョージの2人はロンドン塔グレートホールで裁判にかけられた。
 2人は有罪になったが、アンは火刑から、ジョージはタイバーンでの四肢切断刑から
 それぞれ単純な斬首へと減刑された。
 2日後の17日、ジョージが処刑され、アンも後を追うように19日に処刑された。

 アンは処刑台の上から、見物人たちにむかって、こう語りかけたという。
「'Good Christian people, I am come hither to die,
 for according to the law,and by the law I am judged to die,
 and therefore I will speak nothing against it.
  I am come hither to accuse no man, nor to speak anything of that,
 whereof I am accused and condemned to die,
 but I pray God save the king and send
 him long to reign over you.(made by the Tudor chronicler Edward Hall.) 」
(良きキリスト教徒のみなさん、私は死の判決が下り、死ぬためにここに来ました。 
 そのことについて何も言うことはありません。私は誰かを非難するためにここに来た
 わけでもなければ、何かを語ったり、また、死について抗議するために来たわけでは
 ないのです。しかし、神が王を護り、その御世が長からんことを祈ります。
 チューダー王朝年代記編纂者/エドワード・ヒル/1536年)

  昔の恋人であったノーサンバーランド伯トーマス・パーシーは、アンがメアリー王女を暗殺しようと考えていたのは事実だろう、と語った。
 またヘンリー8世もアンの処刑後、庶子のヘンリー・フィッツロイとメアリー王女を抱きしめながら、「これでおまえたちを害そうとする魔女はいなくなった」と告げたという。しかしアンの死で最も救われるはずだったキャサリン前王妃は、その4ヶ月前に亡くなっていた。

 1519年5月19日、伝承によれば、ヘンリー8世はリッチモンドのエッピングという森、テムズ川に突き出た小高い丘に立って、反逆者アンの処刑の知らせを聞いた、と伝えられている。今もリッチモンド公園には、ヘンリー8世が立っていたというカシの林が残されている。狩猟中、カシの木の下に立ち止まったヘンリーの耳に、アン処刑の合図であるロンドン塔の大砲の音が響いたのである。
と同時に、ロンドン塔の上には反逆者滅亡を示す旗が翻った。

 アンの遺体はその日のうちに処刑場の正面にある聖ピーター・アドビンキュラ教会の墓穴 に、葬式もなく放り込まれるように埋葬された。それが反逆者の宿命だった。
                                       
(アン・ブーリン人間相関図)

メアリー王女←(主君/侍女)→アン・ブーリン
   ↑            ↑
  (兄弟)         (姉妹)
    ↓            ↓
ヘンリー8世←(愛人)→メアリー・ブーリン
    ↑
  (親子)
    ↓
女王メアリー1世
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                             アン・ブーリンの埋葬地/聖ピーター・アドビンキュラ教会

                
           
                    参考資料/
                                       The Tudor place by Jorge H. Castelli
                                       Tudor World Leyla . J. Raymond
                                       Tuder History Lara E. Eakins
                                       The Tudors  Petra Verhelst
                                       薔薇の冠 石井美樹子著 朝日新聞社
                                       英国王妃物語 森 護 三省堂選書
    
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キャサリン・オブ・アラゴンChatherine of Aragon(1485~1536) ヘンリー8世一人目の妻       [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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キャサリン・オブ・アラゴン/1525ルーカス・ホルネボルト作
             ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
           
キャサリンは1485年12月15日、マドリードのアルカーラ・デ・ヘナレス宮殿で誕生した。父はアラゴン王フェルナンド2世、母はカスティーリア女王イザベラ1世。「カトリック両王」といわれるこの夫妻の間の、末娘であった。
キャサリンは1488年わずか3歳で、時の英国皇太子アーサーと婚約していた。

1501年10月2日、キャサリンは16歳で、初めて夫となる人の国/プリマス港の土を踏んだ。それから一月後の11月14日、アーサーとキャサリンはセントポール大聖堂において、華やかに挙式を挙げた。しかしアーサーが病弱であったために、肉体関係を結ぶことなく、半年後の1502年4月20日、滞在先のウェールズにおいて、アーサーは亡くなってしまった。

結婚が形式上だった事や、持参金が半分不払いだったこともあり、英国とスペイン間の話し合いはこじれた。持参金を手放したくないために、ヘンリー7世は2年後次男のヘンリー(8世)とキャサリンを形だけ婚約させたが、実行するつもりはなかった。

しかしキャサリンを愛していたヘンリー8世は、1509年父王が没した一月後の6月3日、立ち会い人1人のもとにグリニッジ宮殿の礼拝堂でひっそりと結婚し、8日後、ウェストミンスター大聖堂で盛大な戴冠式を挙げたのだった。
当時の年代記録では、その時の模様をこう伝えている。

「翌日日曜日は、聖ヨハネの祝祭日だった。高貴なる王子は時間通りウェストミンスター
 にむかって宮殿を出発した。シンクポート男爵が天蓋を支える中、ロイヤルカップルは
 大聖堂に入った。内部では、神聖なる伝統、古代からの習慣によって貴族達や高位聖職
 者らの見守る中、カンタベリー主教の手によって、優美に油を注ぐ儀式が行われた。
 詰めかけた人々は大声で2人を祝福した。」
(チューダー朝/宮中年代編纂者/エドワード・ホール著1509年)
 
しかしこうした華やかさと裏腹に、キャサリンは習慣性の流産に苦しめられていた。
1511年、やっと出産するも王子は一月後には逝去、その2年後に生まれた王子もまた生まれてすぐに亡くなった。妊娠、流産を繰り返した後の1516年2月18日、ようやく健康な王女メアリーを授かった。

そうした悲しみの中でも、キャサリンはよく夫を支え、ヘンリーがフランスに遠征中の1513年9月、スコットランドからの侵略を食い止めた。キャサリンの派遣した英国軍は、9月9日のフロッドンの会戦においてスコットランド軍に圧勝し、敵王ジェームス4世を討ち取るという快挙を果たした。

が、国際的状況はキャサリンにとって不利に動いていた。スペインとの同盟は破棄され、
今まで敵国であったフランスと英国の間で講和が結ばれた。
その頃ヘンリー8世は愛人アン・ブーリンとの結婚を望んだために、キャサリンが王子を産まなかったことを理由に離婚を言い出した。
キャサリンが以前、兄のアーサーと名目だけの結婚をしていた事を根拠に、聖書の禁忌に触れるとして、1527年、法王に結婚解消を願い出たのであった。
しかし時の法王クレメンス7世は、2人の結婚が法王の許可をえて行われたもの、だとして離婚の許可を出さなかった。また、法王に対して強い発言権を持つ神聖ローマ帝国皇帝カール5世もまた、キャサリンの甥として、反対した。
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         キャサリン・オブ・アラゴン/1530年作者不詳
          ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

1533年5月23日カンタベリー主教クランマーによって、キャサリンとヘンリー8世の結婚は無効であった、と宣言され、翌年の11月、正式にキャサリンの王妃の称号が剥奪された。それ以降、公式には「アーサー皇太子未亡人」と呼ばれる事になる。

キャサリンは、アンが日の出の勢いで王妃への道を邁進している頃、宮中から追放され、アントヒルに監禁された。
その後1534年5月、キムボルトン城へと移送された。

その年、愛人アン・ブーリンは国民の反対を押し切って王妃になっていた。
アンの策謀により、一人娘メアリーを奪われ、アンの生んだ第2王女エリザベスの王位継承を認めるよう迫られたが、命をかけて拒否した。

そして1536年1月7日、最期まで側にいた侍女マリア・デ・サリナスの腕の中で、息を引き取った。死因は癌、心臓病、あるいはアンとヘンリー8世による毒殺なのか、はっきりしない。
アン・ブーリンに好感を持つ歴史家は必死でキャサリンが病死であった、と主張しているが、その一方、アン・ブーリンがキャサリンを「毒殺したい」と日頃から口にしていたのも事実であった。もしアン・ブーリンが王子を産んでいたら、キャサリンとメアリー母娘は、反逆罪の濡れ衣を着せられ、処刑されていた事は間違いないだろう。
幸か不幸か、アンが最初に生んだのは娘エリザベス(後のエリザベス1世)だった。
アンはキャサリンの死の知らせを聞いて、侮蔑を示す黄色いドレスに身を包み、ヘンリーと手を取り合って喜びのダンスを踊ったという。

キャサリンは自分が日増しに衰弱していく中、死を予見し、どんな仕打ちを受けても最期まで愛し抜いたヘンリー8世に、遺言ともいえる手紙をしたためた。
          
「My most dear lord, king and husband,
私の最も愛するロード、王よ、そして我が夫よ

「The hour of my death now drawing on, the tender love I owe you forceth me,
  my case being such, to commend myself to you, and to put you in remembrance
  with a few words of the health and safeguard of your soul which you ought to
  prefer before all worldly matters, and before the care and pampering of your body,
  for the which you have cast me into many calamities and yourself into many troubles.
For my part, I pardon you everything, and I wish to devoutly pray God that He will
  pardon you also. For the rest, I commend unto you our daughter Mary, beseeching
  you to be a good father unto her, as I have heretofore desired. I entreat you also,
 on behalf of my maids, to give them marriage portions, which is not much, they being
  but three. For all my other servants I solicit the wages due them, and a year more,
  lest they be unprovided for. Lastly, I make this vow, that mine eyes desire you
  above all things

                            Katharine the Quene」.

「私にも最期の時がやってまいりました。優しい愛が、あなたへの義務を果たします。
 このような場合ですから、あなたに対して、あらゆる雑事よりも、あなた自身の身
 よりも、あなたの魂の安全と健康とを心がけるようお願いするために、わずかな
 言葉をあなたの記憶の中に残したいと存じます。
 あなたは多くの災いとトラブルとを、私に投げかけましたけれど、私は全てを赦し、
 神もまたあなたをお赦し下さいますよう、信心深くお祈りいたします。
 我らの娘であるメアリーのために、良き父であるようお願いいたします。
 また、侍女たちを代表して、彼女たちのために、多くとは申しませんから、どうぞ結婚
 資金を用意してあげて下さい。また、一年に渡って無償で私に仕えてきた下僕達にも、
 給料をお支払い下さいますように。
 最後に、私の目があなたの姿を一目見たいと何よりも望んでいることを、お誓いします。」
                     署名 キャサリン王妃
               (キャサリン最期の手紙1536年1月7日/くに訳)

キャサリンの遺体は、キムボルトンから40キロ離れたピーターバラ聖堂に葬られた。
その葬列には、ヘンリー8世に禁じられていたにもかかわらず、一般市民500人が参列し、キャサリンへの敬意と哀悼を捧げたという。
今その墓標には、誇り高く「英国王妃キャサリン」と掲げられている。
生前キャサリンを足蹴同然にしながらも、最後は反逆者として抹殺され、まともな墓すら持てなかったアン・ブーリンとは、あまりにも対照的であった。
              「Katheren Queen of England」の墓碑
aragongrave.JPG
 
              ピーターバラ聖堂/Lara E. Eakins撮影



               
         (キャサリン・オブ・アラゴン人間相関図)

         キャサリン←(主君/侍女)→アン・ブーリン
                ↑            
                  (夫婦)         
                    ↓            
              ヘンリー8世←(兄弟)←→アーサー皇太子
                    ↑
                  (親子)
                    ↓
                 女王メアリー1世

                  
       参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
薔薇の冠 石井美樹子著 朝日新聞社
英国王妃物語 森 護 三省堂選書
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 ジェーン・シーモア Jane.Seymour(1507?~1537)/ヘンリー8世の3番目の妻 [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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ジェーン・シーモア/ハンス・ホルバイン原画を17世紀に模写/
 ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

シーモアの家系は古く、11世紀ウィリアム征服王に従って英国に渡ったフランス貴族の血を引いていた。ジェーンはジョン・シーモア卿の9人の子のうちの3番目の子であったが、出生年についてははっきりしていない。
ヘンリー8世がジェーンに目を留めたのは、1535年9月ウィルトシャーにあるシーモア家の邸宅(ウルフホール邸)に泊まったときではないか、と言われている。その時、ヘンリーの接待に出たのがジェーンだった。
といっても初対面ではなく、すでにキャサリン・オブ・アラゴンとアン・ブーリンの
2人の王妃の元で、侍女として仕えた経歴があった。
ヘンリーとの仲が噂されるようになったのは、1536年の2月頃からである。
その年の1月、アンは流産をして気が立っており、ジェーンが国王から贈られた
ペンダントをしているのを見て逆上し、首から引ったくった、という。

アン・ブーリンが反逆罪で捕らえられた頃、ジェーンは実家のウルフホール邸に蟄居
していた。ヘンリーはアンの処刑の知らせを受け取ると、直ちにジェーンの元を訪れた。
5月30日シーモア家において、2人は密かに結婚式を挙げた。6月4日、正式にジェーン
が王妃である宣言がなされた。29日には、ジェーンはマーシー・ホールの窓辺に立ち、
ロンドン市民に向かって初めて王妃として顔見せをした。

季節は夏だった。例年のごとくロンドンでは疫病が流行し、戴冠式どころでは
なかった。ヘンリーもまた前回の結婚で派手な戴冠式にはこりごりだったので
戴冠式も公式の結婚式も行われなかった。
自己顕示欲が強く、戴冠式を強く望んだアンに比べ、ジェーンは王妃であるだけで
満足だったようである。

ジェーンはアンに虐待されていたメアリー王女にも優しく接し、王室に一時的な
家庭らしさを取り戻した。また、ジェーンは宮中を華やかにすることを好んだ。
残されたライル家の資料によると、ジェーンは高位の女官が真珠で飾られた胴衣を
着るように言ったために、ライル夫人は実家に頼んで真珠を取り寄せようとした。
しかし120個もの真珠を揃える事はできなかった、という。

結婚から一年後、ジェーンが身ごもった。

「On 27 May 1537, Trinity Sunday, there was a Te Deum sung in St Paul's
 cathedral for joy at the queen's quickening of her child, my lord chancellor,
  lord privy seal and various other lords and bishops being then present; the
  mayor and aldermen with the best guilds of the city being there in their
  liveries, all giving laud and praise to God for joy about it
 (The London chronicler Edward Hall /1537)
(1537年5月27日、聖三位一体の祝日、王妃が懐妊したという祝報に、セントポール
 大聖堂において、大法官、王室紋章官、ギルドのトップの面々他貴族たちが出席して、
 その喜びを祝い、神に感謝するために、デ・デウムが詠唱された。
 チューダー王朝年代編纂者/エドワード・ホール/1537/くに訳)

1537年10月12日、聖エドワード祝日の前夜、ジェーンは難産の末、ハンプトン・コート
で待望の王子を出産した。洗礼式は3日後の夜、松明の灯りのもとで行われた。
ジェーンは・・といえば、ベッドで静養しているわけにいかなかった。
ヘンリー7世母后マーガレット・ボーフォートの決めたルールによれば、王妃たる者、
すべての儀式に出席せねばならなかったのだ。
さすがに立って歩くわけにはいかなかったために、王家の紋章入りの赤いベルベットの
毛皮で縁取られたソファに乗せられて、ハンプトン・コートの王室礼拝堂へと運ばれた。
皮肉にも、その式典にはトーマス・ブーリンとエリザベス王女が参列し、侮蔑と哀れみ
の視線を浴びていたという。

未明まで続いた儀式で疲れ切ったジェーンは、翌日から体調を崩した。
ひどい熱だった。だが医者は瀉血して、ワインとお菓子を与えただけだった。
出産から12日後の10月24日深夜、ジェーンは高熱のために息を引き取った。

深い悲しみの中、ジェーンの遺体は防腐処置され、11月12日まで安置された後、
ウィンザー城の聖ジョーンズ・チャペルに葬られた。
ヘンリー8世もまた、己の死後はジェーンの隣に葬られることを望んでやまなかった。
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         ジェーンの墓碑銘
       「Here lies Jane, a phoenix
        Who died in giving another phoenix birth.
        Let her be mourned, for birds like these Are rare indeed.」
     (新たな不死鳥を生むために死せる不死鳥ジェーン、ここに眠る。
      この希なる鳥のために哀れみ給え/くに訳)

              
       (ハンプトン・コートにあるヘンリー8世家族の肖像にあるジェーンの姿)
          
                 

               
       参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
薔薇の冠 石井美樹子著 朝日新聞社
英国王妃物語 森 護 三省堂選書

アン・オブ・クレーフェAnne of Cleves(1515~1557)/ヘンリー8世の4番目の妻 [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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アン・オブ・クレーフェ/ハンス・ホルバイン/ルーブル美術館所蔵

1537年3番目の妻ジェーンが王子を残して他界した後、一月経つか経たないかのうちに、ヘンリー8世は、他国との王室と縁組みすべく、ヨーロッパ中に根回しした。
3年の歳月をかけて浮かんできた花嫁候補は3人。1人はフランス大名門ギーズ家のマリー、デンマークのクリスティーン王女、オランダとドイツ国境線上にあるプロテスタント国クレーフェ公国の公女アンだった。
確かに、英国国教会は「プロテスタント」だった。それは法王がヘンリー8世の離婚を認めてくれなかったためであって、決してプロテスタントが好きだったためではない。

1521年にはルターを非難する声明文を発表して法王庁から絶賛されていたし、絶対王政
を擁護するカルヴァン派らピューリタンも嫌いだし、ましてや「自由、平等」を主張する
独立派など、見つけしだい火あぶりにするほどの弾圧ぶりであった。
ヘンリー8世が良心から「宗教改革」をした、などと「絶対に」考えてはならない。

ともあれ英国の孤立を打開すべく、ヘンリーはカトリック王国との縁組みを望んだ。
特にギーズ家のマリーはロングヴィル公との間に3人の子のある未亡人であり、
これからも子供を産んでくれそうな気配だった。
しかし、マリーはきっぱりと拒絶し、代わりにヘンリーの甥、スコットランド王
ジェームス5世に嫁いだ。政略結婚であるにも関わらず、女性がキチンと自分の意思を
表明したことは、注目に値する。

一方デンマークのクリスティーン王女もまた、拒絶の意思を示した。
表向きにはクリスティーンの母がキャサリン王妃の姪だったので、キリスト教的タブー
に触れるから、という理由であったが、明らかに個人的にヘンリーを嫌ったからである。
すでにこの頃、ヘンリーはヨーロッパ中の嘲笑と悪評にまみれていた。
最初の王妃キャサリンを虐待死させ、2度目の王妃には裏切られた腹いせに殺害し、
3番目の王妃は、「腹を割いて子供を取り出したため」死んだ、という噂が広まっていた。
結局大法官クロムウェルの斡旋により、クレーフェ公国のアンが乗り気であった。
なぜならクレーフェはその地理的条件により、歴史的にハプスブルク家と対立しており、
英国という味方が必要だったからである。

1539年8月、クロムウェルの派遣した画家ホルバインの手による肖像画が、ヘンリー
の手元に届けられた。今までの3人の妻よりも美貌であった。そこでヘンリーは2ヶ月後
の10月6日、正式にクレーフェ公国と縁組みの契約を交わした。
同年12月、アンはカレー港で順風を待って2週間そこに足止めを食っていた。
12月27日、ようやくドーバー海峡を渡って、翌年の元日、ロチェスター館に入った。
その頃ヘンリーもまた、新しい妻の顔が見たくて、密かにロチェスターを訪れていた。
しかし2人の出会いは、良いものとは言い難かった。

「And on New Years Day in the afternoon the king's grace with five of
his privy chamber, being disguised with mottled cloaks with hoods so that
they should not be recognized, came secretly to Rochester, and so went up
into the chamber where the said Lady Anne was looking out of a window to see
the bull-baiting which was going on in the courtyard, and suddenly he embraced
and kissed her, and showed here a token which the king had sent her for New
Year's gift, and she being abashed and not knowing who it was thanked him,
and so he spoke with her. But she regarded him little, but always looked out
the window....(The accounts at right were written by the Spanish ambassador
Eustace Chapuys/1540)」
(元日の午後、王はロチェスター館にこっそり来て、その5つ目の部屋で、隠し持った時計
 とともにフードで変装し、上の階の窓から庭にいるレディ・アンを、草をはむ牛を眺める
 が如く観察したが、ばれる様子がなかったので、急いでアンのところに言って抱きしめ
 キスして、新年のお年玉プレゼントの時計を与えた。アンは当惑してろくろくお礼も
 言えず、さらにヘンリーが話しかけても、ほとんど注意を払ってもらえず、アンは窓を
 見るばかりだった・・・(スペイン大使エスタス・チャピウスの記録/1540年/くに訳)

アンは時に24歳、デュセンドルフで生活していて、ヘンリーの趣味である音楽にも読書に
もほとんど興味がなく、英語も下手だった。
12夜前日、つまり1月6日、グリニッジ宮殿の「女王のクローゼット」の間で結婚式を
あげたが、新婚初夜はうまくいかなかったらしい。
ヘンリーはこう答えた。
「I liked her before not well, but now I like her much worse」
(前からあの女は好きでなかったが、今はなおさら嫌いだ!/くに訳)

一方アンの方も、本国の兄に向けた手紙の中で、こんな感想を漏らしていた。
「The King's highness whom I cannot have as a husband is nevertheless a most
  kind, loving and friendly father and brother.」
(私が夫にはできなかった高貴な王様は、でもとても親切で、フレンドリーな愛すべき
 父か兄弟といったところですわ。/くに訳)

ヘンリーはさっそく離婚準備に取りかかった。アンは1530年代にフランスのロレーヌ公
フランソワと婚約していたが、うやむやのまま流れてしまったので、正式にはまだ婚約
破棄されていないと解釈して、結婚は成立しなかった、と決定した。
同年7月9日、議会は結婚の無効を認め、新たに「王妹」の称号を与えた。
この離婚の怨みは、アンを斡旋した大法官クロムウェルに向けられ、その年の7月28日
ロンドン塔で処刑された。

アンはあっさり離婚を承諾した見返りに、処刑されたクロムウェルの領地の一部と、アン
ブーリンの実家だったヒーヴァー城を含む2つの邸宅、及び4000ポンドもの年金を受け取った。

その後アンは、1557年チェルシーで亡くなるまで、王家の人々と交流しつつ、悠々自適
に暮らした。ヘンリー8世の6人の妻のうち、最も幸福かつ自由な人生を送った女性であったといえよう。
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               クレーフェのアンの肖像
            ブリューム工房作/オックスフォード大学蔵
 
        
                
               
       参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
英国王妃物語 森 護 三省堂選書
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 キャサリン・ハワード Katherine.Howard(1522~1542)/ヘンリー8世の5番目の妻 [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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          伝キャサリン・ハワード/ハンス・ホルバイン/The Tudorより

 キャサリンは1522年、名門ハワード家の三男エドマンドと最初の妻ジョイス・カルペパーとの間に生まれた。 名門出身とはいえ、決して恵まれていたとは言い難かった。
 父のエドマンドは2代目ノーフォーク公の第3子で、兄のトーマスがノーフォーク公爵位を継承したのに対して、エドマンドは兄の下で暮らす、冷や飯食いの身分だった。
 しかも、実家を仕切っていたのは実母ではなく、祖父の後妻であるアグネスだった。キャサリンの母のジョイス・カルペパーも、1527年、娘が5つの時に亡くなっていた。

 父のエドマンドは「もし庶民に生まれていたら、土を掘り返して人生を送っていたかもしれない」
とこぼしていた、という。キャサリンの兄ヘンリーは、妹の非業の死の後、ノーフォークの田舎に蟄居してしまった事からもわかるように、キャサリンの家族はヘンリー8世に関わった家族の中でもっとも出世欲の薄い人々だった。

 義理の祖母アグネスは、特別キャサリンを厳しく教育しなかった。この当時の女性の教育は、しばしば体罰とセットとなっていたので、ある意味キャサリンは孤独な自由を満喫していたといえる。
 もしそのまま家に留まっていれば、恋人でもあった従兄弟のトーマス・カルペパーか、またはもう1人の恋人フランシス・デラハムと結婚していただろう。
 しかし運命は残酷に動いた。

 従姉妹に当たるアン・ブーリンが戴冠したのは、キャサリン・ハワード13歳の時だった。
 アン・ブーリンの母エリザベス・ハワードは、エドマンドの姉だった。
 つまりアンとキャサリン・ハワードは従姉妹に当たるのである。しかし世俗的関心の薄かったであろうエドマンドの一家は、これといった恩恵も受けなかったようである。

 貴族の娘に生まれた宿命として、キャサリンは義祖母アグネスの斡旋で、第4王妃アン・オブ・クレーフェの侍女として仕えた。しかし第4王妃アンを嫌っていたヘンリー8世は、キャサリンを見かけて、たちまち見初めてしまったのである。
 1540年、時にヘンリー49歳、かたやキャサリン18歳、2倍以上の年の差があった。

「The King's affection was so marvelously set upon that gentlewoman
  [Catherine], as it was never known that he had the like to any woman.
 Thomas Cranmer's secretary, Ralph Morice, in a letter to his master, 1540」
(国王の愛情は、これほど女性に対してはっきりした好みがあったのかと疑うまでに
 この高貴な女性キャサリンに驚くほど注がれました。
クランマーの秘書官ラルフ・モリスが主に送った手紙/1540年/くに訳)

 アン・ブーリンのような野心のないキャサリンにとって、それはある意味法外な幸運であるのと同時に、困惑するような出世であったに違いない。
 キャサリン自身、または父のエドマンドがどう考えようと、伯父のノーフォーク公にとっては、またとないチャンスであった。
 伯父の強い勧めもあり、1540年7月28日、ヘンリー8世はキャサリンとハンプトン宮殿で、5回目の結婚式を挙げた。今回も派手な戴冠式は無かった。

 キャサリンは誰をも傷つけず、誰の死も望んでいなかったにもかかわらず、必要以上に悪女化された。
 キャサリンの死後、さしたる証拠もないのに、いろんな男と寝る尻軽女であるかの如く語られているのは、あまりにも哀れである。
 アン・ブーリンが罪もない前王妃やメアリー王女の死を望み、実際暗殺を企てているのに対し、キャサリンは、あまりに善良で無邪気だった。
 おそらくアン・ブーリンを擁護する人間は、自由恋愛と殺人未遂の罪の重さの区別もつかないのである。
(ただし、自由恋愛を罪と呼ぶならば、という前提で)

 実際にはキャサリンは、義理の娘であるメアリーに、同年代の友達のように話しかける明るい女性だった。
 だが、王妃になってからも、本心は恋人のトーマス・カルペパーとフランシス・デラハムとの間で揺れ動いていたようだ。
 1541年8月、デラハムがキャサリンの秘書として仕えている一方、トーマス・カルペパーに対して送った手紙が残されている。

「Master Culpeper,
I heartily recommend me unto you, praying you to send me word how that you do.?
It was showed me that you was sick, the which thing troubled me very much till
such time that I hear from you praying you to send me word how that you do, for
I never longed so much for a thing as I do to see you and to speak with you,
the which I trust shall be shortly now.
(カルペパー様。私はあなたが手紙を書いて下さることを祈っており、心から懇願します。
 あなたは病気に見えます。私は決してあなたと話したいとか会いたいとか望めません
 ので、あなたから便りが来るまでとても心配でした)
(英文は原文通り記載/キャサリンの手紙/くに訳)

 1541年11月1日、キャサリンは伯父のノーフォーク公の口から叛逆の嫌疑を受けている事実を聞かさ
れた。翌日万霊節のミサに参加しているヘンリー8世の元に、例の手紙が届けられた。
 4日、側近のロチフォード夫人が審問を受けて、キャサリンが不倫をしていたと証言した。カルペパーとデラハムはロンドン塔のボーシャム・タワーで拷問の末、不倫をしていた、と証言させられた。
 クランマーは直々にキャサリンを尋問したが、キャサリン自身は確かに王妃となる前はデラハムと愛し合い、夫婦のように暮らしていた時期はあったけれど、王妃となってからは誰とも不倫はしていない、と答えた。
           
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           キャサリンの肖像/作者不詳/
         ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
        最近の研究では、キャサリンではない、との説がある。

 ヘンリー8世は激怒し、5日ハンプトン・コートを出てホワイト・ホール宮殿に移ったが、キャサリンは置き去りにされたまま、王との面会も許されなかった。
 一週間部屋に監禁された後、11月12日、キャサリンは正式に逮捕されて、サイアンハウス邸に移送された。誰もが自分だけは救われたい一心で、キャサリンを擁護する者も、無実を証言する者もいかった。


「I found her in such lamentation and heaviness, as I never saw no creature,
so that it would have pitied any man's heart in the world, to have looked
upon her.
( Thomas Cranmer describes visiting Catherine after her arrest, 1542)」
(私はこれほど哀れな生き物を見たことが無かったために、世界中の男性の心がそう感じた
 のと同じく、深い憐憫と重さをもって彼女を見た。
 逮捕後のキャサリンと謁見したクランマーの証言/1542/くに訳)

 キャサリンは11月22日、王妃の称号を剥奪され、2日後
「abominable, base, carnal,voluptuous and vicious life」
(非常に不愉快で卑しく汚らわしく、淫乱な生活)の罪で起訴された。

 1541年12月10日、フランシス・デラハムは絞首刑の後、完全に死ぬ前に四肢切断の刑、トーマス・カルペパーは斬首となり、2人の首は1546年まで反逆者としてロンドンブリッジに晒されていた、という。
 翌年1月21日、王の意思を受けて貴族院はキャサリンの私権を剥奪し、罪人としてロンドン塔で処刑されることが決定したのである。
 2月10日、キャサリンはサイアン・ハウスから艀(はしけ)でロンドン塔に連行されようとした時、抵抗した。 サフォーク公は強引にキャサリンを乗せ、艀は「反逆者の門」を通ってロンドン塔内に入った。
 処刑場であるタワー・グリーンの正面にあるクイーン・ハウスに入ったキャサリンは3日後処刑される、と聞かされると、断頭台を持ってくるように頼んだ。
「たった一度の最後の行為なのだから、落ち着いて臨みたい」

 1542年2月13日、朝7時、キャサリンは静かに処刑台に上った。
 ヘンリー8世にとって、自分が王という以外に愛される価値もない事を痛感させる出来事だった。
 キャサリンは最後に「私は王妃としてではなく、カルペパー様の妻として死にたかった」と、発言したからである。
「ヘンリー8世など愛していませんでした」というに匹敵するほど堂々たる宣言をした彼女の最期には、むしろ清々しささえ感じる。
 キャサリンは先に処刑されたカルペパーを愛していて、それはヘンリーの権力をもってしても止める事はできなかった。この時、キャサリンはわずか20歳。ある意味、ヘンリー8世の「被害者」だった。

                
                   参考資料/
             The Tudor place by Jorge H. Castelli
             Tudor World Leyla . J. Raymond
             Tuder History Lara E. Eakins
             The Tudors  Petra Verhelst
             The Culpepper Family History Site
             英国王妃物語 森 護 三省堂選書
    
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キャサリン・パー Katherine Parr(1508~1548)/ヘンリー8世の6人目の妻 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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若いキャサリンの肖像「レディ・ボロウ」/ハンス・ホルバイン作の模写/
The Tudor Placeより

 キャサリン・パーの父は、王室所有のケンダル城の護衛兵指揮官だった。
1508年12月10日、彼女はロンドンのブラックフライアーズ邸で生まれたが、父はキャサリンが9歳の時に亡くなった。
 母親のモード・グリーンは夫亡き後、若いながらもよく家を支え、娘が3、4歳になった頃から、ギリシャ語やラテン語の教育を始めた。1526年、キャサリンは最初の夫であるエドワード・ボロウ卿と結婚した。


 この人物はリンカシャーの豪族で50代半ばであった、という以外、ほとんど分かっていない。結婚後3年目には亡くなっている。

 2年後の1531年、ラティマー卿ジョン・ネヴィルと再婚する。今度もまた相手は42歳
で2度も妻に先立たれている男性だった。キャサリンはロンドンから遠く離れたヨーク州
のスナップ邸で、静かに暮らした。
 しかし1536年、ラティマー卿がアン・ブーリンの反逆罪に連座しそうになり、危うい
ところを逃れた事から、同年、第3王妃ジェーン・シーモア懐妊を機に、宮中へ上がる
事となった。
 ラティマー卿もまた、キャサリンとの間に子供を残すことなく、1542年亡くなった。

 ヘンリー8世が新たに必要としていた妻は、子供を産む「女」ではなかった。
 病気がちなヘンリーを看護して、気を紛らわせ、癒しを与えてくれるような
世慣れた貴婦人が求められた。そして選ばれたのが、キャサリン・パーだった。
 前王妃キャサリン・ハワードが処刑されて1年半年後の1543年7月12日、ヘンリー
は6人目の妻を迎えた。

 キャサリンは王妃になるなり、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンのように、政治
的手腕を発揮した。
 同年12月、キャサリンの助言により、庶子として王位継承権を持たなかったメアリー
とエリザベスの2人が、エドワード皇太子に継ぐ王位継承者と認められた。
 翌1544年7月、ヘンリーのフランス遠征に際しては、摂政として国政を任された。

 キャサリンは有能であったが、否、有能であったがゆえに、時として政治的陰謀に巻き
こまれかねなかった。ヘンリー8世がプロテスタント嫌いだったのは、前述した通りで
ある。1546年、プロテスタント独立派を弾圧すべく、トーマス・フロセスリーが
大法官に任命された。同年5月24日、アン・アスキーという女性宗教家が異端者として
逮捕され、拷問のあげく、キャサリン王妃との関係を自白させられそうになったが、
アンは頑として口を割らなかった。7月16日、アン・アスキーは火刑に処せられた。
 キャサリンは危険を察知して、アンの著書を全て処分した。

 ヘンリー8世はしばしばガウン姿でキャサリンの膝にもたれ、足の潰瘍の手当もキャサ
リン以外うけつけなかった。しかしある時、たわいのない会話から宗教論議となり、
アン・アスキーら、プロテスタント独立派に賛同するかのような発言をしてしまった。
 大法官フロセスリーは直ちにキャサリンを陥れるべく、策動した。
 キャサリンが異端者であるかの如く、ヘンリーに密告したのである。

 それを知ったキャサリンはヘンリーを懐柔した。ヘンリーの意見全てに賛同して、
「女はこの世の始めから、男に従うように作られています。(women by their first creation were made subject to men)夫は妻を教育すべく全てに指図するものです。
(men out to instruct their wives, who would do all their learning from them)」
と囁いた。「あなたは優れた教養と知性の王子ですわ」
 翌日キャサリンを異端者として逮捕すべくフロセスリーらが現れると、ヘンリーは怒
って肩や頭を殴りつけた、という。

 その年の終わりから衰弱が激しくなったヘンリーは、翌年の1月28日、ホワイト・ホー
ル宮殿で、ついに息を引き取った。キャサリンはその最後を看取ることはなかった。
 王からの感染を恐れて、前年のクリスマスからリッチモンド宮殿に退去させられていた
からだ。年が明けた10日、一度だけヘンリーの病床を見舞ったが、以来、二度とそばに
寄ることはできなかった。

 ヘンリーから解放されたキャサリンは、その年のうちに、昔恋仲にあったトーマス・
シーモアと再婚した。今まで3回も結婚していながら、一度も子供を持たなかった
彼女だったが、今回はなぜか、半年もたたないうちに妊娠した。
 決して幸せな結婚ではなかった。新しい夫トーマスは野心的な男で、王家の姫君を
2人養女として引き取り、そのうちの1人、エリザベス王女(後の女王)と関係を
持ったらしい。
 翌年の1548年8月30日、キャサリンは、グロセスターのサデリー城で女の子メアリー
を出産・・・産後の肥立ちは悪く、高熱にうなされて、不倫の噂のあったエリザベスと
夫を激しく罵った。そして6日後の9月5日、ついに亡くなった。

 トーマスは妻を看取らなかったばかりか、葬式にも参列しなかった。
 喪主も赤ん坊の洗礼も、もう1人の養女ジェーン・グレイが務めたという。
 遺体は近くの聖メアリー教会に葬られた。

                
ParrCatherine02.JPG

                
               キャサリン・パーの肖像
              作者不詳/ランベス宮殿蔵/
 かつてはジェーン・グレーの肖像と言われていたが、最近の研究で否定され、つけているアクセサリーからキャサリンの肖像だと確定した。

Catherinetombclose.JPG

                 
               キャサリンの墓/サデリーの聖メアリー教会
                    Lara E. Eakins撮影

                
                   参考資料/
             The Tudor place by Jorge H. Castelli
             Tudor World Leyla . J. Raymond
             Tuder History Lara E. Eakins
             The Tudors  Petra Verhelst
             英国王妃物語 森 護 三省堂選書
    
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 ヘンリー7世 King Henry 7/狐のごとく [チューダー王朝の国王たち]

   
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     ヘンリー7世胸像/トリジアーノ作/ビクトリア&アルバート美術館蔵
     
     1457年1月28日、ウェールズのペウンブルックシア城で誕生
      1485年8月22日、ボズワースの戦いで英国全土を掌握
      1485年10月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
      1486年1月18日、王妃エリザベス・オブ・ヨークと結婚
      1509年4月21日、リッチモンド宮にて崩御 享年53歳

ヘンリー7世ことリッチモンド伯ヘンリー・チューダーの家系は、三代に渡ってヨーク家
との死闘を繰り返した系譜であった。
彼の祖父オーウェンは、元ウェールズ王家に仕える宰相の家系であったが、15世紀初頭
の「ウェールズの反乱」に連座して後、英国王室に臣従した。
後に彼は、1461年のモーティマーズ・クロスの戦いでヨーク側の捕虜となり、処刑された。
オーウェンの息子であり、ヘンリーの実父エドマンドは1456年、やはりヨークとの戦いに
敗れ、斬首されている。
1457年1月28日、ヘンリーがウェールズのペウンブルックシア城で誕生した時、すでに
父はこの世にいなかった。

母の実家・ボーフォート家は王室の血を引いているといっても、庶子の家系であって、
王位継承権は持っていなかった。しかし流血夥しい薔薇戦争の最中、本家ランカスター家
は崩壊した。

1471年時のランカスター本家の国王ヘンリー6世は、バーネットの戦いに敗れた後、ほどなくヨーク側に殺害されていた。
分家の息子/幼いヘンリー・チューダーもまた、ヨーク側の人質として、1468年頃まで捕らえられていたという。
やがて伯父によって助け出されたヘンリーは、14歳でフランス・ブルゴーニュ地方へと亡命した。

1485年25歳の時、ついに逆襲に出た。8月7日、ウェールズに上陸した彼は味方を集め、8月22日、ボズワースの戦いにおいて、ヨーク王朝最後の王リチャード3世を敗死させた。

同年10月30日、ついにヘンリーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世として即位した。
議会は、彼の王位継承を認める条件として、早くヨーク家の王女と結婚するよう促した。
翌年の1486年1月18日、ウェストミンスター寺院において、王女エリザベスを正式の王妃に冊立した。これによって、ついに対立するヨーク家とランカスター家が合流し、薔薇戦争は終結したのだった。

24年の治世の間、10回の議会が招集されたが、いずれも国王に従順な者ばかり・・。
ヘンリー7世はヨーク側として戦った貴族を反逆者としてその領地を没収し、王室の財産を増やし、地方大貴族の勢力を殺ぐのと平行して各地に治安判事を置き、中央の意向を反映させた。

            ヘンリー7世のライバル達
   ヨーク公リチャード=========================シセリー・ネヴィル
            |     |     |     |     |
 エリザベス===エドワード4世 ジョージ エリザベス マーガレット リチャード3世
     | |    (クラレンス公)  |   (ブルゴーニュ公妃)
エドワード5世 リチャード     |  ジョン・デ・ラ・ポール
(ランバート (パーキン    エドワード (リンカーン伯)
 シムネル?) ウオーベック?)(ウォーウイック伯)


しかしヘンリー7世にはまだ倒すべき敵が残っていた。
ヨーク王朝は最後の王リチャード3世が倒れたとはいえ、まだ王位継承権を持つ者が何人も存在していたからである。その1人、リチャード3世の兄クラレンス公ジョージの息子ウォーウィック伯エドワードである。彼は一説によれば知的障害者と言われており、挙兵することもなく、ヘンリー7世によってロンドン塔に幽閉されていた。

もう1人は、リチャード3世の姉エリザベスの息子リンカーン伯ジョン・デ・ラ・ポールである。
1487年、ジョンはランバート・シムネルなるオックスフォードの商人の息子を行方不明の「エドワード5世」だと称して、これを旗印にダブリンで挙兵した。
しかし反乱軍は同年6月16日、ストークの戦いで敗れ、ジョンは戦死。
「エドワード5世」として担ぎ上げられていたシムネルの方は、許されて宮廷の調理場で焼き串を回す仕事に従事した、という。

もしジョン自身が、自ら王と名乗って挙兵していたら、ヘンリー7世を打倒することも可能だったかもしれない。なぜそうしなかったのか、謎である。

1495年、今度はパーキン・ウォーベックなる男が、「ヨーク公リチャード」を名乗って挙兵した。
前回とは異なり、パーキンはブルゴーニュ公妃マーガレットから本物である、というお墨付きをもらい、スコットランド王や神聖ローマ皇帝からも支持を得ていた。
1497年、エクセターでの会戦でパーキンは敗れ、ロンドン塔へ幽閉された。
これに懲りたヘンリー7世は、2年後パーキンとウォーウィック伯エドワードの2人を処刑した。

しかしながら外交面では、ヘンリー7世の活躍はめざましかった。
長年の宿敵だったスコットランドへ長女マーガレットを嫁がせ、逆にスペインから皇太子妃として王女キャサリン・オブ・アラゴンを迎えた。

ヘンリー7世は、いかにも王朝の開祖にふさわしく、狡猾にして残忍、したたかで計算高く、徳川家康をタヌキというならば、さしずめ狐と呼ぶに相応しい。
しかしながら、この男の経済感覚があったからこそ、英国はその後商業国家として栄える
のであり、また中央集権的政治体制の強化は、統一国家としての基盤を強めたのである。
この男こそ、英国が中世から近世へと移り変わる、時代を生み出した君主であった。

          
HenryVIIIfamily1.jpg

   ヘンリー7世夫妻とヘンリー8世夫妻/ホルバイン作模写/ハンプトン・コート/オリジナルは焼失
             
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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ヘンリー8世king Henry8/別名「率直王」 [チューダー王朝の国王たち]

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ヘンリー8世/ハンス・ホルバイン/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

ヘンリー8世。その名が英国では「率直王」というあだ名で呼ばれる事に違和感を感じる人は少なくなかろう。

ヘンリーはチューダー王朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベスとの間に生まれた。1491年6月24日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいた。
5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立されており、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーとしか映らなかった。

ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽ヨーク公であった彼が皇太子に立てられた。彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて育った子供であった。音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたという。
12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・オブ・アラゴンと婚約した。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は女官長他側近達も証言する事実であった。
しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかった。
そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを正式な王妃に迎えたのであった。

ヘンリー8世は俗に「ヘンリー8世と6人の妻たち」といわれるように、6回結婚したことで知られている。最初の王妃キャサリンとは父王の反対を押し切っての恋愛結婚、2度目のアン・ブーリンとはバチカンと決別してまでの不倫掠奪婚、3度目ジェーン・シーモアは2番目の妻を処刑しての恋愛結婚、5度目のキャサリン・ハワードも恋愛結婚、6度目のキャサリンパーも恋愛結婚である。
いずれもヘンリー8世自身が見そめて、恋をし、妃に迎えた女性ばかりであった。
わずかに4度目のアン・オブ・クレーフェのみ、政略の意味もあって妻にした女性であったが、それとてホルバインの描いた肖像画の美貌に惹かれたという理由もあった。

恋愛結婚したはずの王妃たちの運命は決して幸福なものではなかった。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの故国スペインは、最初英国の同盟国であったが、1519年に
神聖ローマ帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となった。
カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであった。
危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃キャサリンの立場は弱まった。
おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリンに魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけた。

熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げる。
「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させた。

1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・シーモアを娶り、後のエドワード6世が生まれた。同年から国内の法王領である修道院の財産没収に着手した。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となった。
政情不安から、36年には「恩寵の巡礼」なる大反乱が勃発している。

37年、ジェーン王妃が産褥が亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード家のキャサリンと結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまう。
その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びた。

1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せると、ホワイトホール宮で息を引き取った。1547年1月28日のことだった。

              ヘンリー8世年表
             
1490年 英国王ヘンリー7世の次男として生まれる
1501年 兄のアーサー、キャサリン・オブ・アラゴンと形式的に結婚
1502年 アーサー死去
1503年 母エリザベス王妃死去
1509年 父ヘンリー7世死去 
     ヘンリー8世即位 
     キャサリンと結婚
1517年 長女メアリー生まれる
1532年 キャサリンと離婚
     アン・ブーリンと結婚
     二女エリザベス生まれる
1534年 英国国教会成立
1535年 トーマス・モアなど重臣の処刑
1536年 アン・ブーリン処刑
     ジェーン・シーモアと結婚
     修道院廃止
1537年 皇太子エドワード生まれる
     ジェーン・シーモア死去
1539年 アン・オブ・クレーフェと結婚
     翌日離婚
1540年 キャサリン・ハワードと結婚
1542年 キャサリン・ハワード処刑
1543年 キャサリン・パーと結婚
1547年 死去 享年56歳

              
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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エドワード6世King Edward 6/小さな独裁者 [チューダー王朝の国王たち]

 
Edward2.JPG
エドワード6世/ホルバイン作1543/NYメトロポリタン美術館蔵
        
      1537年10月12日、ハンプトン宮で誕生
      1547年2月25日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
      1553年7月6日、グリニッジ宮にて崩御 享年15歳

エドワードはヘンリー8世にとって、かけがえのない長男であった。
息子を得るためだけに、ヘンリーは3度結婚し、3人目の妻ジェーン・シーモアによって、ようやくエドワードが誕生した。しかし母のジェーンは、出産後12日目に亡くなった。

エドワードは非常に勤勉な少年であった。歴史、地理、宗教、言語を学び、とりわけ地理
と宗教を好んだ。英国、スコットランド、フランスの全ての港の位置と潮の関係、出航に
適した風の条件などに精通していた。
宗教においても聖書をよく暗記し、周囲の影響を受けて熱心なプロテスタントに成長した。

一見幼く愛らしく見えるエドワードであるが、その体内に流れる父や祖父の残忍なる気質
は変えようがなかった。レジナルド・ポールが聞いた話によれば、ある時エドワードは家
庭教師の目の前で、生きているハヤブサを惨殺した、という。
1547年、父のヘンリー8世が死に、自分が新国王となった事を知らされた時、エドワー
ドは異母姉のエリザベスと抱き合って泣いた。

ヘンリー8世の遺言により、摂政サマーセット公を始めとする協議会が、新王エドワー
ド6世が、16歳になるまで補佐することになっていた。
しかしエドワードは14歳で、すでに持ち前の独裁的性格を見せ始めた。
伯父である摂政サマーセット公と、もう1人の叔父トーマス・シーモアが対立した時、
彼はトーマス・シーモアを反逆者として逮捕させた。弟を処刑することに躊躇する摂政
に、エドワードは協議会を通して処刑するよう命じている。
彼が叔父トーマスを憎んだのは、一説によれば、愛犬を射殺されたからだ、という。
後にエドワードは叔父の摂政よりも、ノーサンバーランド公ジョン・ダッドリーを信頼
し、伯父である摂政サマーセット公をも失脚・処刑させた。

異母姉のエリザベスは、一般的には仲の良い異母姉弟、とされているが、エドワードを
弟よりも国王として敬った。エドワードの前ではかならず跪き、手紙には「陛下の慎ま
しい姉にして下僕」と署名した。
2人は一緒に暮らしていた事もあったが、即位の後は完全に離ればなれとなり、会食に
同席するおりには、エリザベスは「5度弟の前に跪き」平伏した、という。
エドワードもまた飾り気のない異母姉を「私の禁欲的なお姉様」とからかって呼んだという。
しかし16歳で、死神が近づいていた。医師は「肺に化膿する腫瘍」があると診断した。
腕や足は異様にふくれあがり、肌は黒ずみ、髪が抜け落ちていった。
激しい咳と痛みの下で、エドワードは2人の異母姉ではなく、自分と同じように熱心なプ
ロテスタントだった遠縁のジェーン・グレイに王位を譲るとして、父の決めた王位継承法
を訂正する遺言状を作らせた。
1553年7月6日、エドワードは祈りの言葉を呟きながら息を引き取った。

             
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
女王エリザベス ヒバート 原書房
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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