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愛慾のルネサンス③アソコ [ルネサンス・カルチャー・イン・チューダー]

愛慾のルネサンス③アソコ
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 16世紀のヨ—ロッパ人は自分の妻を褒めちぎった。
 「愚妻」などとへりくだったりしない。他人に向かっても恥ずかしいほど自慢した。
 「赤いイチゴで飾られた素晴らしい手まり」「念入りに作られた白い腿」
「女の体を可愛らしく飾る、黄金色の、ちぢれた絹のような産毛」(何処の部分を褒めているか、勝手に想像して下さい)
 中世ドイツの卑猥な民謡に「白い野バラ」という作品があるが、笑えるというか、かなりシュールな内容である。

「この世には不思議なことがたくさん起こりますが、世間の人はそんなこと、信じようとしません。」
 これはホントの話ですよ?で、物語は始まる。

 あるところに1人の若い娘がいて、白い野バラを大切に育てていた。
「ものを言えない唖(おし)の口に、ある植物と入れますと、うまくしゃべったり、話をしたりするという、そういう力を持った植物がこの世にあるということは、世間の人がよくご存じです。」
 その通り、娘がいつものように花の世話をしようとしゃがんだところ、魔法の草が股間に入り込み、あら不思議、娘の股間がモゾモゾしたかと思うと、女性の秘所であるアソコがしゃべり始めたのである。

「あなたはあなたの体の中に、立派な部屋を持っておられます。でも、私に対して、感謝も好意も示されませんわ。」

 娘はびっくりした。
「私がおまえの声を聞くなんて初めてだ!」

 アソコは娘が大事に扱ってくれないのを、怒っている様子だった。
「男の人がどこでもあなたに言い寄るのは、私というものがあるおかげですわ!あなたが万が一私を失われたなら、あなたの値打ちなど無くなってしまうでしょう。」

 娘も怒って、アソコに言い返した。
「男の人があたしの言い寄るのはおまえのおかげだって?そんなの信じられないわ。男の人は私を美しいと思うからよ。私の顔が見たい、私に奉仕したいって、たえず噂するのを私は聞いている。誰がおまえなんか褒めるだろうか。おまえの顔はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開けている。もし男の人におまえの顔を見せねばならないなら、恥ずかしくて穴にでも入りたいわ。」

 するとアソコは「怒りのためにちぢれ毛を逆立てて」
「私のどす黒さはいやらしいものではありません!。その色からいって、男の人には気持ちがいいものです!。私はどす黒く、おまけに毛深く、お腹の下に大きな口を開いています。それが私の姿でしょうよ。ご主人様、あなたの顔はなるほどバラ色でいきいきしています。しかし全ては私あってのあなたでございますわ。」

 娘は股間をのぞき込んで、言い返した。
「憎らしい!いい加減にお黙り。まるで海の怪物みたいに毛深い呪われた黒いお化け!おまえは何て嫌らしい形に作られたの。私からサッサと出てお行き!」

 そして両者は喧嘩のあげく、アソコは娘から出て行ってしまった。
 娘はせいせいして、いつも自分を口説いている男のところへ行き、アソコが出ていったことを話した。
 男はがっかりして、世間に言いふらした。娘は「アソコのないヤツ」だと国中の笑い者になった。
 一方、出ていったアソコの方はというと、いつもガマガエルと間違われて踏んづけられたり、石を投げられたり、自分の姿を見てもらおうと男性の側に行くと、蹴飛ばされる有様だった。
 アソコは軽率に出てきたことを嘆き、娘は何とかしてアソコにもどってきて欲しいと思った。両者は野原でバッタリ出会い、懐かしさのあまり抱き合って、再会を喜んだ。

「そこで娘さんに忠告しました。アソコは粗末にしてはなりません。私(語り手)は娘さんとアソコに頼まれましたので、元の場所に戻してあげました。」(ハーゲン「冒険全集」より中世ドイツ民話「白いのバラ」)

 フランス宮中記録係ブラントームの書き記した噂話によれば、アンリ2世王妃のカトリーヌ・ド・メディシスは、美しい侍女たちを裸にして眺めては、四つんばいにしてお尻を叩いたという。ある時はドレスを着たままの侍女のお尻だけを露出させ、平手で叩いたりした。やがてそれでは飽き足らなくなり、鞭で叩くようになった。
 ブラントームによれば、カトリーヌは子供の頃母親に鞭で叩かれるなどの虐待を受け、それが原因で他人を叩くことに快感を覚えるようになったという。
 しかし、カトリーヌの実母マドレーヌ・ド・ラ・トゥールは出産後すぐに亡くなっているので、この話は捏造か、または養育係の乳母のほら話だったのかもしれない。

 カトリーヌには他にも変質的な噂が多い。
 夫のアンリ2世にはディアンヌ・ド・ポワチエという年上の愛人がいた。
 カトリーヌは何故ディアンヌが夫を夢中にさせるのか知りたくて、わざわざディアンヌの部屋の天井裏に忍び込み、天井に穴をあけ、2人が絡み合っている様子を観察したと伝えられている。
 王妃のようにゴテゴテ着飾った人間が、屋根裏で音もなく気が付かれずに歩くという、そんな忍者のような真似ができたかどうか、はなはだ疑問である。

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ヘンリー8世の愛人たち①エリザベス・ブロント [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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ヘンリー・フィッツロイ/オーフォード伯コレクション

  1、エリザベス・ブラント
    Elizabeth Blount
   (1502~1539
           
 上の版画、何となく目元かキムタクっぽい少年…実はヘンリー8世の息子である。フィッツロイという単語は、古語で「王の息子」という意味がある。「ヘンリー・フィッツロイ」という名前は個人の洗礼名であるのと同時に、「王の息子ヘンリー」という生い立ちを意味していた。
 皇太子としてエドワード(後のエドワード6世)が生まれるまで、彼はヘンリー8世のたった一人の息子だった。周囲からは「王位を継ぐかも知れない」と密かに期待されていた。

 しかし、母は当時王妃だったキャサリン・オブ・アラゴンではない。
 ヘンリー・フィッツロイを生んだのは、ヘンリー8世の愛人エリザベス・ブロントという若い宮廷女官だった。
 エリザベスは1512年5月、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女見習いとして、宮中へ上がった。 わずか10歳だった。貴族の娘が行儀作法を学ぶために、幼くして宮廷に使えるのは珍しくなかった。行儀作法だけでなく、大貴族とのコネクションも作れるし、あわよくば玉の輿に乗れるかも知れない!…そんな期待を込めて、親達は娘を宮中に送り込んだ。
 
 父のジョン・ブラントは国王付きの護衛(King's Spears)だったので、その関係から王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。
  1514年、キャサリン王妃は王子を産んだが、一月もしないうちに王子は亡くなってしまった。
 エリザベス・ブラントは、悲しむ王妃を慰めるために唄い踊った、という。
 時にはヘンリー王とペアを組んで踊ることもあった。ヘンリー8世は、しだいにエリザベスに惹かれていった。
 実はヘンリーの愛人はエリザベス・ブラントが最初ではなかった。
 エリザベスの友人でもあるブライアン家の娘(エリザベス・ブライアン)は、いち早くヘンリーの愛人となり、降るような贈り物(ダイヤモンドの首飾りにミンクのコートなどなど)の他、母親にまで500ポンドもの大金が贈られていた。
 エリザベス・ブラントもまた高価な贈り物とともに、父ジョン・ブラントの地位が護衛(King's Spears)から、王の寝室付き護衛官(Esquire of the Body)へと出世した。
 1518年10月、愛人となったエリザベス・ブラントとヘンリー8世とともに、メアリー王女(後のメアリー1世)とフランス皇太子との婚約式に出席した(後に婚約解消)
 キャサリン王妃は、ちょうど7回目の妊娠中で、大事をとって静養中だった。
 エリザベスはヘンリー8世のためだけに唄い、踊った。その時、すでにエリザベスはヘンリー8世の子を身ごもっていた。
 翌年1519年6月15日、エセックス州のジェリコ修道院で、男の子が産まれた。
 父の名にちなんで、「ヘンリー・フィッツロイ」と名付けられた 。
 ヘンリー8世はしばしばエリザベス母子を訪ねては、「ジェリコに行ってきた!」と冗談交じりに嬉しそうに語っていたという。
 しかし、そんなヘンリー8世の愛も長続きしなかった。
 やがて彼の愛情はエリザベスから、ブーリン家の姉妹メアリーとアンへと移っていった。
 そのため、エリザベスはギルバート・タルボーイズという男との結婚を強要され、お払い箱となってしまった。ルバートはエリザベスを妻に迎える代償に、ナイトの称号とリンカシャー保安官に任命された。
 1525年、エリザベスは夫について、リンカシャーヘ移り住んだ。

 一方エリザベスの産んだ「ヘンリー・フィッツロイ」は国王に引き取られ、リッチモンド公の称号を与えられた。皇太女(Princess of Wales)だった異母姉メアリーに次ぐ王位継承者と見なされ、「王子」と呼ばれていた。
 エリザベスは1530年夫ギルバード・
タルボーイズに先立たれ、息子を頼って宮中へ戻ってきた。
 しかし、そこにはすでに新たな愛人として、アン・ブーリンが権力を握っていた。
 アンは王妃キャサリンやメアリー王女、ヘンリー・フィッツロイのみならず、エリザベスまで目障りだとして、宮中から追い出したのだった。4年後の1534年、エリザベスは、亡父の所領の隣に地所を持っていたクリントン卿と再婚した。

 一方フィッツロイはフランス宮廷へ留学に出された。
 1533年10月、アン・ブーリンの兄ジョージがフランス宮廷に着き、フィッツロイと面会した。
 その直後、同じワインを飲んでいたフィッツロイとその友人が倒れた。
 2人を看た医師は、ただちに何らかの毒物による典型的な中毒だと診察した。
 フィッツロイが倒れた直後、ジョージ・ブーリンは単身英国へと逃げ帰っていた。
 後にジョージの妻は、アンとジョージの2人が、「フィッツロイの毒殺を計画していた」と告白したという。
 その後、アン・ブ—リンは1533年11月、自分に忠実な一族メアリー・ハワード(3代目ノーフォーク公の娘)をヘンリ—・フィッツロイに嫁がせた。2人はまだ14歳になったばかりで、結婚するには若すぎた。監視させる意味合いがあったのかもしれない。
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 1536年、アン・ブ—リンが反逆罪で裁かれて処刑された。
 ヘンリー8世はフィッツロイを呼び、涙ながらにアンの企みが成功しなかったことを喜んだ。
「王は涙を浮かべ、彼と、彼の姉(メアリー)が呪われた娼婦(アン・ブーリン)
 の毒殺の魔の手から逃れたことを神に感謝した。(King, with tears in his eyes said that both he and his sister ought to thank God for having escaped from the hands of that accursed whore who had planned their death by poison.)」
 だがフィッツロイは同年7月、結婚したばかりの若い妻メアリー・ハワードを残して突然早世してしまう。17歳の誕生日を迎えたばかりであった、
 
 リンカシャーでは、ヘンリー8世の離婚のゴタゴタから生じた宗教改革から王室への不満が高まり、それが後に「恩寵の巡礼」と呼ばれる反乱に繋がることになる。

 反乱と突然の息子の死・・それがエリザベスに深い衝撃を与えたのか、1539年2月、世を去った。

 享年37歳。

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リッチモンド公爵夫人メアリー・ハワード
  (ホルバインの下絵/1536年?)

 

 

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