名門ではなかった「ブ—リン家の姉妹」/第二王妃アン・ブ—リンの家系 [大貴族たちのルーツ ~チューダー王朝の名脇役たち]
ある男の出世の物語
トーマス・ブーリン
Thomas.Boleyn
(1470~1539)
姉のアンは娘エリザベスがたまたま女王になったので有名になったが、妹(または姉/諸説あり)メアリーは無名のままだった。
何を持って「身分が高い」というかについては議論の余地があるが、少なくとも爵位という点において、ブーリン家は名門ではなかった。
ブーリンの家系は、15世紀初頭まで遡ることができる。ただ「サフォーク州サリーの一族」というだけで、どこまでいっても貴族であった痕跡は見つからない。富農からロンドンへ出て商人となり、トーマスの祖父ジョアフリーの代にロンドン市長を勤めている。薔薇戦争の最中であった。その功績で「サーsir」の称号を与えられている。
さてロンドン市長に出世したジョアフリー(又はジェフリー)には3男4女がいた。そのうち19歳の次男のウィリアムと12歳の少女マーガレット・バトラーとの間に生まれたのが、トーマス・ブーリン、すなわち「ブ—リン家の姉妹」の父親となるト—マス・ブ—リンだった。
1490年、20歳でコーンウォールの反乱鎮圧に従軍したトーマスは、その才能を第2代ノーフォーク公に認められ、その娘エリザベスと結婚した。
ノーフォーク公ハワード家は名門である。ブーリン家は結婚によって、この名門と縁続きになった。逆「玉の輿』に乗って、初めて中央貴族の末席に連なった。そしてその縁で、ヘンリー8世の戴冠式に出席し、ナイトの称号を与えられた。国王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に王子が産まれると(1511年)、祝祭のトーナメントにも出場した。
トーマスにとっては未来は薔薇色に見えただろう。
だが、実を言うと、本格的な出世はそこからである。
1519年から2年間、駐仏大使として活躍し、ついでにフランス王妃となった王妹メアリー内親王の侍女として、二人の娘メアリーとアンをフランスに送った。これが映画「ブ—リン家の姉妹」のモデルとなった。
娘は2人ともヘンリー8世の愛人となったが、なぜか容姿で劣っていた次女のアンがヘンリーの寵愛を独占し、男子を産んで失った王妃の代わりに、王子を産むと宣言して、王妃の座を要求したのである。
アンに夢中だったヘンリー8世は離婚を考えるが、これといって落ち度も無いキャサリン王妃の離婚には法王を始めとして国中が反対した。離婚係争は延々と6年に渡って続いた。ヘンリー8世はアンの気を引くために、アン自身にペンブルック侯爵位を贈った他、父のトーマスにもウイルトーシャー、オーマンドの二か所の伯爵領を与えた。
ついにトーマスは念願の伯爵になった。
幸運はまだまだ続く。
アンは1533年、ヘンリーの子を身ごもり、その年の5月、ついに王妃の座を獲得したのだった。
だが4か月後、アンが王女エリザベスを産んだ頃から雲行きが怪しくなる。
男子出生を焦る一方、わが子エリザベスの王位継承のために、アンは兄ジョージらを巻き込んで前王妃の娘メアリーの暗殺を謀る。そして何とか王子を産むために、何人もの側近(兄も含む)と不倫に及んだ、という。
ヘンリー8世は、アンの暗躍を「不義密通」と断定して、兄ジョージらをアンともども処刑してしまった。
この時、不思議なことに、父トーマスは何ら子供達を弁護できなかった。
あるいはトーマス自身も加担していたのかもしれない。かろうじてブーリン家は全滅を逃れたが、嗣子ジョージが処刑されたために、ブーリン家の断絶は避けられなかった。
1537年、アンの死後王妃となったジェーン・シーモアがめでたく王子を出産すると、その洗礼式に出席し、周囲から嘲笑の視線を浴びた、という。
トーマスは宮中を退いて自分の城であるヒーヴァー・キャッスルに隠遁し、1539年3月、失意のうちに亡くなった。
ブーリン一族。それはチューダー王朝の始まりとともに出世し、そして孫のエリザベス朝の直前に失墜した、ある意味時代を反映した一族といえよう。
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors Petra Verhelst
英国王妃物語 森 護 三省堂選書
ヒーヴァー・キャッスル 公式サイトhttp://www.hevercastle.co.uk/
敗者の運命/マーガレット・ソールズベリー伯爵夫人 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]
ソールズベリー伯爵夫人マ—ガレットのデッサン/作者不詳/大英博物館蔵
(1473~1541)
マーガレットの父は、エドワード4世の実弟クラレンス公ジョージ。
母親は「キング・メーカー」と呼ばれたウォーリック伯の娘・イザベラ・ネヴィルであった。この2人の間に、1473年8月14日、誕生した。
5歳の時、父はエドワード4世の命令で反逆者としてロンドン塔内で処刑された。
前王朝プランタジュネット家の王子は、長引く内乱やその後即位したヘンリー7世によって、ほとんど全てが粛清されていた。姫君は反逆を企てる危険性も低かったためか、粛清から逃れた。マーガレットもその1人であった。
エドワード4世崩御の後、その王子達が庶子の決定を受けて王位継承権を無くした上に、後を継いだリチャード3世の皇太子もまた早世したために、マーガレットは王位継承権を有する身となった。
しかしヨーク王朝はすでに終焉を迎えていた。ヘンリ—・チュ—ダ—は新王朝を開いてヘンリー7世として即位した。その後マーガレットは恩赦され、1491年にはソールズベリー伯リチャード・ポールに嫁がせた。
(リチャード・ポ—ル=ヘンリー7世の従兄弟)
14年後、夫のリチャードが亡くなったとき、マガレットにはヘンリー、レジナルド、ジェフリー、アーサー、ウルスラの5人の子供たちが残された。このうち2男レジナルドは法王から枢機卿に任命された。
マーガレットはチューダー王朝でも優遇された。特にヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンと仲が良かった。第1王女メアリー(後のメアリー1世)が誕生した時には洗礼式に付き添って名付け親を務め、王女の世話役にも任命された。
メアリーは王女として実母の手から離れて、マーガレットに育てられた。
母のキャサリンは「娘を呼べば、すぐに応じてくれるよう」マーガレットと密に連絡を取り合っていた、という。メアリーが3歳で神聖ローマ皇帝カール5世との縁談が壊れた時には、マーガレットの息子レジナルドとの縁談も浮上した。
このままいけば、マーガレットは新女王の義母として、権勢を握ったかもしれない。
しかし再び時代は変わり始めた。ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚問題は、メアリー王女に影響を与えずにはいられなかった。
新王妃アン・ブーリンが第2王女エリザベスを生むと、第1王女メアリーは王位継承権を奪われた上に、強制的にエリザベスの侍女にされてしまった。
マーガレットもまた養母の地位を剥奪され、蟄居せざるをえなくなった。
メアリーを王女と呼ぶ事は禁止されたにもかかわらず、マーガレットはメアリーを王女と呼び続けた。そして自分の紋章には、夫ポール家の紋章スミレの花に加えて、メアリーの紋章であるマリーゴールドの花を添え、王女への忠誠を表した。
ヘンリー8世はレジナルド枢機卿を懐柔しようと試みた。もしキャサリンとの離婚を承諾するなら、ヨークの大主教の座とウィンチェスター主教区の支配を約束しようと申し出るが、レジナルドはそれを蹴って1532年、フランスに亡命、パリとイタリアのパドヴァを行き来しつつ、ヘンリー8世に反論する論文を書き続けた。
作者不詳/ナショナルポートレートギャラリー蔵
1538年11月、4男のジェフリーと、母方の従兄弟エドワード・ネヴィル及びニコラス・カルー卿が反逆罪容疑のために逮捕された。翌年1月、ジェフリーを除く2名がロンドン塔で処刑された。
ジェフリー逮捕の10日後、マーガレットもまた反逆罪で逮捕となり、サザンプトン伯とイーリー主教の取り調べを受けたが、彼女は口を閉ざしたままだった。マーガレットはさらに取り調べが続いた。
ヘンリー8世は、マーガレットが「5つのキリストの傷をモチーフにした刺繍」のある白いチェニックを持っていた事に目をつけた。その紋章は「恩寵の巡礼」反乱軍の旗印でもあったので「マーガレットもまた反乱に関与している」と断定した。また、マーガレット専属の神父が海外に脱出していた事も、「ヨーロッパにいるレジナルド枢機卿と連絡を取り合っている」と見なされた。
そのためマーガレットはロンドン塔に2年間幽閉される事になるのだが、塔内での待遇は悪く、常に衣服の粗末さと寒さとに苦しめられていた、という。
1540年5月27日(または28日)、マーガレットは突然処刑を告げられた。
「私は無実です!反逆などしていません!」
そういって抵抗し、処刑台に上がることを拒否するマーガレットを、処刑人は斧で後ろから首を切りつけた。
ロンドン市長を含む150人の立ち会い人の目の前で、絶叫するマーガレットの首に、何度も斧が振り下ろされた。夥しい血が飛び散った凄惨な処刑だった。
それは実際、ヘンリー8世によるレジナルド枢機卿への復讐だった。ヨーロッパでバチカンの庇護を受け、手出しできないレジナルドの代わりに、腹いせで母親のマーガレットを惨殺したのだった。
母の死を聞いたレジナルド枢機卿は、こう語ったという。
「私は母の死を恐れない」
ヘンリー8世とアン・ブ—リンとの略奪婚、その結果生じた英国国教会は、無数の犠牲者を生んだが、マーガレットもその1人だった。
それから数世紀を経た1886年、時の法王レオ8世は、マーガレットを殉教聖者の列に加え、命日の5月28日を祝日に決めたという。
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
The Catholic Encyclopedia