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エリザベス・オブ・ヨーク(ヘンリー8世の母)Elizabeth of York [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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          エリザベス・オブ・ヨーク/1500年作・作者不詳
          ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
                    
 エリザベスは1466年2月11日、ウェストミンスター宮殿で生まれた。
 再婚の母・エリザベス・ウッドビルにとっては3人目の子、父エドワード4世には隠し妻との間に2人の子がいたので、父にとっても3人目の子という事になる。
 しかし、正式な王と王妃の間に生まれた子としては、エリザベスが最初である。
 エドワード4世は、この隠し妻エリノア・タルボット(またはバトラー)との結婚を公式には隠したまま、王妃エリザベスを迎えたので、純然たる重婚であった。
 その事をエドワードは生前隠し通し、死後になってバースの僧正スティリントンが告白して、初めて公にされた。

 これが後に、重大な結果をもたらす事になる。
 エリザベスは5歳の時、ノーサンバーランド伯ジョン・ネヴィルと婚約していた。
 しかしジョン・ネヴィルの父、ベッドフォード公がランカスター側に寝返ったため婚約は解消となり、次にフランス皇太子との縁組みも考えれたが、これもご破算になった。
 最後に敵側のリッチモンド伯ヘンリー(後のヘンリー7世)との縁談も持ち上がったが、当初ヘンリー側は、ヨーク側に取り込まれる恐れを感じて拒否した。皮肉な話である。

 1483年エドワード4世が亡くなった時、エリザベスの一家は父王がエリノア・タルボットという別の妻がいたことを理由に、「庶子」の烙印を押されてしまう。
 少年王エドワード5世と、ヨーク公リチャードはロンドン塔に監禁され、エリザベスもその後を追っていくはずだったが、直後に2人の王子は行方不明になったという。
 この2人の王子がどうなったのかについては、闇の中である。
 現在では、ヘンリー7世によって抹殺されたとの説もあれば、弟のヨーク公だけが生き残り、トーマス・モアの手で育てられた、との説もある。いずれも明白ではない。

 1483年、リッチモンド伯ヘンリーは、以前エドワード4世在世中には拒否したエリザベスとの縁談を政治的に利用することを考えた。そして同年12月24日、ブルターニュのレンヌ大聖堂で、「私が王位についたら、エリザベス王女を妃に迎える」と宣言した。

 1485年8月、ヘンリーがミルフォードヘブンに上陸した時、エリザベスはヨークシャーに隣接したグロスターで、保安官ハットン卿の保護下にいた。
 8月22日、ボズワースの決戦でリチャード3世が味方の裏切りのために戦死し、ヨーク王朝が断絶すると、エリザベスは否応もなくヘンリーの妃にならざるをえなくなった。
 当初ヘンリーは結婚の約束を遅らせていたが、クリスマス直前、英国下院はヘンリーの王位を認める代わりに、早々にエリザベス王女を妃にするよう要請した。そのため年が明けた1486年1月18日、ローマ法王の認可も下り、ウェストミンスター大聖堂
で結婚の儀が執り行われた。
 これによって、ランカスター側とヨーク側が1つになり、薔薇戦争は終結したのである。

 エリザベスが幸福であったかどうか、簡単には判断できない。
 後世語られているほど、この時代リチャード3世が悪役だったはずもなく、2人の弟の死については、ヘンリー7世自身の手で抹殺されたのではないか、との根強い噂もあったはずである。しかも猜疑心の強いヘンリーは、アイルランドでの反乱に、エリザベス・ウッドビルが関係しているとの咎で、義母をバーマンジーの修道院に幽閉してしまう。

夫妻の間には、アーサー、マーガレット、ヘンリー、メアリーと4人の子が生まれ、一見王家は安泰のように見えた。

 しかし長男で皇太子アーサーは1502年 4月2日、ウェールズで急死した。悲しみの中で、エリザベス王妃は再び身ごもり、1503年2月11日、ロンドン塔の産室で最後の王女キャサリンを出産 し、そのまま亡くなった。
 新生児キャサリンもまた、数ヶ月後には死んだ。

 エリザベスがどのような女性であったか、ほとんど記録に残っていない。
 ただ音楽を愛し、グレートハウンドを飼い、狩りを好んで自らも弓矢をとった、という長身の活発な女性だった、という逸話が残るのみである。
    

                  参考資料/
           The Tudor place by Jorge H. Castelli
           英国王妃物語 森 護 三省堂

 

 


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エリザベス・ウッドヴィル(ヘンリー8世の祖母)Elizabeth Woodville [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

 

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            エリザベス・ウッドビル/作者不詳/
            ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
 
 キャサリン・オブ・ヴァロワが亡くなったその年・・・・
 ヘンリー5世の弟ベッドフォード公の未亡人ジャクリーヌ(またはジャケッタ)もまた、ボディガードの1人だった身分の低い騎士リチャード・ウッドヴィルと密かに通じていた。
 やがて妊娠してしまい、リチャードは高貴な女性を犯した罪で投獄、ジャクリーヌ自身も罰金刑が科せれている。1437年6月6日(または7日)生まれたのが、後に王妃となるエリザベス・ウッドヴィルである。
 
ジャックリーヌとリチャードとの間には、エリザベスの兄アンソニーを含めて、15人もの子供に恵まれている。
 

 父母が美男美女だったせいか、エリザベスは美しかった。
 残された肖像画は、現代人の目から見ても大変な美人である。
 エリザベスは始めヨーク側の貴族と婚約していたが、結局ランカスター側に組みするグレイという騎士と結婚し、トーマスとリチャード2人の男の子をもうけた。
 薔薇戦争が始まるとヨークとランカスターの対立は激しさを増し、グレイはセント・オールバンズの戦いで重傷を負ったところを捕らえられ、なぶり殺しにされてしまった。所領もまた、ヨーク側に没収された。

 勝利したヨーク側から1461年、国王エドワード4世が即位する。
 エドワードはある時ベッドフォード公未亡人ジャクリーヌを訪ねたが、その時母の元に身を寄せていたエリザベスのあまりの美貌に一目惚れしてしまった。そうとも知らないエリザベスは、奪った所領を返して欲しいと訴えた。
 返ってきたのは予想外の答えだった。
「私の愛人になって欲しい」
 相手は亡き夫の仇である。エリザベスは憤慨してこう答えたという。

「私は王妃になるには身分が低すぎますが、愛人になるにはプライドが高すぎます。」
 俗説によれば、エリザベスは狩りの途中にエドワード4世の前に身を投げ出し、没収された所領を返して欲しい、と訴えた、ともいう。

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 20世紀描かれた「エドワード4世の前に出ようとするエリザベス」1999-2000 www.arttoday.com

 その頃若きエドワードにはフランスやスペインから降るような縁談があり、臣下たちが権力拡大を絡めて縁談成立に奔走している最中だった。
 だがエドワードはそれらの動きを無視して、エリザベスに求婚した。
 リスクを負ってまで、自分に恋するエドワードを前に、エリザベスの方も折れた。
 2人は1468年5月1日、母ジャクリーヌだけが見守る中、2人だけで式を挙げた。
 4ヶ月後、正式に王妃になると発表された時、宮廷は大混乱に陥った。
 特にスペインとの縁組みに熱心だった権力者ウオーリック伯の怒りは激しかった。
 しかも悪いことに、エドワードはエリザベスの前夫の息子達や弟を側近に取り立てて、怒りに油を注いでしまった。
 1469年ウオーリック伯は、エドワードのすぐ下の弟ジョージとランカスター側の援助をえて、反旗を翻した。

 エドワードはあっさり負けて捕らえられた。ウオーリック伯も殺すまでは考えておらず、両者は一旦は和解したかに見えた。 しかしランカスター側の逆襲もあって、翌1470年エドワードは、ついに王位を追われてフランスに逃亡した。
 ウオーリック伯は、ランカスター家の皇太子を王位につけることを宣言した。
 その時身重だったエリザベスは、先に生まれていた2人の王子を連れて、ウエストミンスター寺院領に逃れた。
この時、エリザベスを助けて差し入れをしたのは、宮中に出入りしていた肉屋だけだったという。
 
フランスに逃げたエドワードはというと、そこで姉の嫁ぎ先であるブルゴーニュ公の支援を受け、1471年逆襲、ウォーリック伯を戦死させ、ランカスター家の皇太子を処刑した。
 エドワードが王位に返り咲いたとはいいながら、エリザベスの存在はヨーク王家に暗い影を落としていた。 王弟ジョージは反逆罪を理由にロンドン塔に幽閉されて処刑・・・兄を恐れて口には出さないものの、末弟リチャードもまたエリザベスを憎んでいた。
 エリザベスは夫に頼んで、自分の弟を始め、ウッドヴィル一族に大貴族並の爵位を与えたのだ。

 1483年4月、エドワード4世が急死した。
 ついにリチャードの復讐の機会が来たのだ。
 まずエリザベスの弟で、姉のお陰で出世したリヴァーズ伯を急襲して処刑。
 それからエリザベスの生んだ後継者エドワード5世とヨーク公リチャードを捕らえてロンドン塔に幽閉した。
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        ロンドン塔に幽閉されたエドワード5世とヨーク公リチャード
        ポール・ドラロッシュ作/1831年/ルーブル美術館蔵

 
 その後、リチャードは兄エドワードがエリノア・タルボットという女性と先に結婚しており、未だにエリノアが生存しているために、エリザベスが正式の王妃ではなかったと宣言。エリザベスの生んだ12人の子供達の王位継承権を剥奪してしまった。
 それを知ったエリザベスは、復讐を決意する。
 彼女はランカスター側のヘンリー・チューダー(ヘンリー7世)が、娘のエリザベス王女に結婚を申し込んできたのをチャンスだと思った。

 敵側に寝返ったのだ。いや・・それは裏切りとは呼べないかも知れない。
 もともとエリザベスはランカスター側の妻ではなかったのか。
 ボズワースの戦いでヨーク家の王リチャード3世が戦死し、ヨーク王朝が滅びたのを知ったとき、エリザベスは呟いただろう。
「これでよかったのだ・・」と。
 1492年6月7日、おりしも55歳の誕生日の日に、エリザベスは亡くなった。
 皮肉なことに、ヘンリー7世によって叛逆の疑いをかけられ、マーバンジー修道院に幽閉されている最中のことだった。

                 参考資料/
        Womens History By PRIMEDIA Company
        英国王妃物語 森 護著 三省堂選書

 

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キャサリン・オブ・フランス(ヘンリー8世の曾祖母)Catharin Varois of France [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

               
 

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          キャサリン・オブ・フランス/1792年/作者不詳/
          ナショナルポートレートギャラリー

 15世紀はじめのフランスは、事実上2つの国に別れていた。
 1つはブルゴーニュ公国。もう一つは、いわゆる「ヴァロワ朝フランス王国」
 どちらもフランス全土の覇権をもくろんで、英国を味方につけようと躍起になっていた。
 「我が方に援軍を送れば、ブルゴーニュ公の娘をあなたの王妃に・・」
 「我が方に味方すれば、フランス王女をあなたの王妃に・・」

 かつてイギリスの物だったアキテーヌ領の回復と王室乗っ取りのために、英国王ヘンリー5世は、フランス王女を妻に迎えることにした。
 「よかろう、フランス王室に味方する。ただし・・・」
 ヘンリー5世はとんでもないことを言い出した。

「1,アキテーヌのみならず、かつて英国が所有していた全領土を
   こちらに引き渡せ。
 2,皇太子シャルル(後のシャルル七世)を廃位せよ。
 3,フランス王位をよこせ。」

 こんな要求を飲んでいたら、英国を味方に付ける意味がない。
 両者の交渉は決裂・・・・・アジャンクールの地で闘い、フランス側は大敗した。
 

「仕方がない・・・。」
 フランス側は一部領地の明け渡しと、持参金の上乗せに応じて、王女を嫁がせることに決めた。
 王女の名をカトリーヌ(英国名キャサリン)。父は強度の分裂症で有名なシャルル6世、母は同じく悪女で有名な美貌のイザボー王妃だった。
 カトリーヌは性格は母に似ず、美貌だけ母から受け継いだ。
 流れるように繊細なブロンド、澄んだ青い瞳・・・英国側はその美しさ故に「キャサリン・ザ・フェア(麗人キャサリン)」と呼んだ。
(ちなみに、この時イザボー王妃に廃位を要求されたシャルルを助けて王位につけたのが、あのジャンヌ・ダルクである)
 イザボーは残された彫刻から、ジョディ・フォスター似の美女だったが、宮中の生活費を使い込んだ上に、敵国ブルゴーニュに味方して、長男シャルルを引きずり下ろそうとするような王妃だった。

 生活に窮した王女は、修道院に里子に出されるほどだった。

 1420年6月、キャサリンはトロワの聖ジャン教会でヘンリー5世と結ばれる。
 その翌年には帰国し、1421年2月11日、改めてウェストミンスター寺院で王妃の戴冠式を行った。
 ヘンリー5世は敵国の娘とはいいながら、そのあまりの美しさに本気で愛するようになった。
 が、その2年後には、ヘンリーは愛する妻と6ヶ月の息子を残して亡くなった。
 キャサリンはまだ20歳の若さだった。
 こういう場合、王女は本国に帰るのが習わしだったが、何しろ新王が生後6ヶ月の赤ん坊である。
 この「国王」が最初に出した勅令というのが、
「乳母のアリスがおむつを変えて、躾のためにお尻を叩くことを許す」
だった。(もちろん本人の意思ではない)
 仕方なくキャサリンは英国に留まった。1428年、議会は無情にも、キャサリンが許可なく再婚することを禁じ、軟禁状態に置いてしまった。

 敵国に独りぼっち・・・キャサリンは心細かったのだろう。
 そんな時、思いがけないところから、王妃を熱烈に愛する男が現れた。
 名をオーウェン。元はウェールズ王家に仕えた宰相の家柄であったが、反乱に連座した咎で捕らえられ、英国で仕える身であった。ウェールズの習慣として、名字を持ち合わせていなかった。今は王妃の衣装を管理する、従僕であった。
 キャサリンは彼の優しさに惹かれ、身分の差など忘れた。
 1人の人間として尊敬し、愛をおぼえた。
 だが、軟禁状態である。キャサリンは体の具合が悪いから、別荘に行って療養したいと言い出した。
 2人は密かにロンドン北部の地味な城で結婚し、2人の間には、トーマス、エドマンド、ジャスパー、タシンダ、マーガレットの5子が生まれた。

 やがて秘密は暴露されてしまった。
 
怒った議会は2人を引き離し、キャサリンをバーマンジー修道院に幽閉した。
 オーウェンはモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター側として戦い、捕らえられた。
 彼は執行猶予を期待していたがかなわず、死刑執行人の手で上着をはぎ取られるまで、己の死を信じられなかった、という。

 最後に、
「かつては王妃の膝にあったこの頭が、今は死刑執行人の籠の中か・・。」
と呟いた、と伝えられている。1461年、2月4日の事だった。

 一方キャサリンはその20年以上も前に、幽閉されたまま、1437年1月3日、38歳の短い生涯を敵国で終えた。

 その遺体は息子のヘンリー6世王の命でウエストミンスター寺院に葬られるはずだったが、人前に270年間も放置されたままだった。

 それから200余年後の1669年、日記作家サミュエル・ピープスがウェストミンスターを尋ねたおりの事を、こう書き記している。
「聖堂の番人に1シリングを喜捨、王妃キャサリンの上体を抱き、彼女の口にキス。思うに女王にキスしたのは、これが初めて」

     
                参考資料/
          The Tudor place by Jorge H. Castelli
           英国王妃物語 森 護著 三省堂選書


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キャサリン・パー Katherine Parr(1508~1548)/ヘンリー8世の6人目の妻 [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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若いキャサリンの肖像「レディ・ボロウ」/ハンス・ホルバイン作の模写/
The Tudor Placeより

 キャサリン・パーの父は、王室所有のケンダル城の護衛兵指揮官だった。
1508年12月10日、彼女はロンドンのブラックフライアーズ邸で生まれたが、父はキャサリンが9歳の時に亡くなった。
 母親のモード・グリーンは夫亡き後、若いながらもよく家を支え、娘が3、4歳になった頃から、ギリシャ語やラテン語の教育を始めた。1526年、キャサリンは最初の夫であるエドワード・ボロウ卿と結婚した。


 この人物はリンカシャーの豪族で50代半ばであった、という以外、ほとんど分かっていない。結婚後3年目には亡くなっている。

 2年後の1531年、ラティマー卿ジョン・ネヴィルと再婚する。今度もまた相手は42歳
で2度も妻に先立たれている男性だった。キャサリンはロンドンから遠く離れたヨーク州
のスナップ邸で、静かに暮らした。
 しかし1536年、ラティマー卿がアン・ブーリンの反逆罪に連座しそうになり、危うい
ところを逃れた事から、同年、第3王妃ジェーン・シーモア懐妊を機に、宮中へ上がる
事となった。
 ラティマー卿もまた、キャサリンとの間に子供を残すことなく、1542年亡くなった。

 ヘンリー8世が新たに必要としていた妻は、子供を産む「女」ではなかった。
 病気がちなヘンリーを看護して、気を紛らわせ、癒しを与えてくれるような
世慣れた貴婦人が求められた。そして選ばれたのが、キャサリン・パーだった。
 前王妃キャサリン・ハワードが処刑されて1年半年後の1543年7月12日、ヘンリー
は6人目の妻を迎えた。

 キャサリンは王妃になるなり、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンのように、政治
的手腕を発揮した。
 同年12月、キャサリンの助言により、庶子として王位継承権を持たなかったメアリー
とエリザベスの2人が、エドワード皇太子に継ぐ王位継承者と認められた。
 翌1544年7月、ヘンリーのフランス遠征に際しては、摂政として国政を任された。

 キャサリンは有能であったが、否、有能であったがゆえに、時として政治的陰謀に巻き
こまれかねなかった。ヘンリー8世がプロテスタント嫌いだったのは、前述した通りで
ある。1546年、プロテスタント独立派を弾圧すべく、トーマス・フロセスリーが
大法官に任命された。同年5月24日、アン・アスキーという女性宗教家が異端者として
逮捕され、拷問のあげく、キャサリン王妃との関係を自白させられそうになったが、
アンは頑として口を割らなかった。7月16日、アン・アスキーは火刑に処せられた。
 キャサリンは危険を察知して、アンの著書を全て処分した。

 ヘンリー8世はしばしばガウン姿でキャサリンの膝にもたれ、足の潰瘍の手当もキャサ
リン以外うけつけなかった。しかしある時、たわいのない会話から宗教論議となり、
アン・アスキーら、プロテスタント独立派に賛同するかのような発言をしてしまった。
 大法官フロセスリーは直ちにキャサリンを陥れるべく、策動した。
 キャサリンが異端者であるかの如く、ヘンリーに密告したのである。

 それを知ったキャサリンはヘンリーを懐柔した。ヘンリーの意見全てに賛同して、
「女はこの世の始めから、男に従うように作られています。(women by their first creation were made subject to men)夫は妻を教育すべく全てに指図するものです。
(men out to instruct their wives, who would do all their learning from them)」
と囁いた。「あなたは優れた教養と知性の王子ですわ」
 翌日キャサリンを異端者として逮捕すべくフロセスリーらが現れると、ヘンリーは怒
って肩や頭を殴りつけた、という。

 その年の終わりから衰弱が激しくなったヘンリーは、翌年の1月28日、ホワイト・ホー
ル宮殿で、ついに息を引き取った。キャサリンはその最後を看取ることはなかった。
 王からの感染を恐れて、前年のクリスマスからリッチモンド宮殿に退去させられていた
からだ。年が明けた10日、一度だけヘンリーの病床を見舞ったが、以来、二度とそばに
寄ることはできなかった。

 ヘンリーから解放されたキャサリンは、その年のうちに、昔恋仲にあったトーマス・
シーモアと再婚した。今まで3回も結婚していながら、一度も子供を持たなかった
彼女だったが、今回はなぜか、半年もたたないうちに妊娠した。
 決して幸せな結婚ではなかった。新しい夫トーマスは野心的な男で、王家の姫君を
2人養女として引き取り、そのうちの1人、エリザベス王女(後の女王)と関係を
持ったらしい。
 翌年の1548年8月30日、キャサリンは、グロセスターのサデリー城で女の子メアリー
を出産・・・産後の肥立ちは悪く、高熱にうなされて、不倫の噂のあったエリザベスと
夫を激しく罵った。そして6日後の9月5日、ついに亡くなった。

 トーマスは妻を看取らなかったばかりか、葬式にも参列しなかった。
 喪主も赤ん坊の洗礼も、もう1人の養女ジェーン・グレイが務めたという。
 遺体は近くの聖メアリー教会に葬られた。

                
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               キャサリン・パーの肖像
              作者不詳/ランベス宮殿蔵/
 かつてはジェーン・グレーの肖像と言われていたが、最近の研究で否定され、つけているアクセサリーからキャサリンの肖像だと確定した。

Catherinetombclose.JPG

                 
               キャサリンの墓/サデリーの聖メアリー教会
                    Lara E. Eakins撮影

                
                   参考資料/
             The Tudor place by Jorge H. Castelli
             Tudor World Leyla . J. Raymond
             Tuder History Lara E. Eakins
             The Tudors  Petra Verhelst
             英国王妃物語 森 護 三省堂選書
    
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