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英国女王メアリー1世Part2(ヘンリー8世第1王女)Queen Mary 1  [チューダー王朝の国王たち]

スクリーンショット 2019-09-23 18.36.18.png
メアリー1世/マスタージョン作1544/
 ナショナルポートレートギャラリー蔵  
 メアリーにとって不幸だったのは、両親の離婚問題だけではない。
 フランス皇太子との縁談も、神聖ローマ皇帝カール5世との縁談も、果ては遠縁にあたるソールズベリー伯爵夫人の子レジナルド・ポールとの縁談さえもぶち壊れた。
 その他にもポルトガル王子やフランスのオルレアン公が求婚してきたが、何一つまとまらなかった。
 ヘンリー8世は、メアリーの持参金を出し渋ったのみならず、メアリーが夫となる男とともに、英国王位を奪うのではないか、と懸念していたのである。
 後にメアリーは、義母のキャサリン・パーにむかって「While my father lives I shell beonly the Lady Mary, the most unhappy lady in Christendom(父が生きている間、私はキリスト教国でもっとも不幸な女・レディ・メアリーでいなければならないのです)」と漏らしている。

  1536年5月、アン・ブーリンが処刑されたことで、父と娘は表面的には和解した。
新王妃ジェーン・シーモアの勧めによって、ヘンリーはメアリーと再会した。
「Some of you were desirous that I should put this jewel to death.(何人かは、この宝石であるお前の死を望んでやまなかった)」と語った。
 それが前王妃で反逆者のアン・ブーリンである事は言わずもがな、であった。
 メアリーは父とアンが自分を殺害しようとしていた、という事実を知り、その場で昏倒したという。
 翌年10月、ジェーンは王子エドワードを出産した。
 メアリーは新王子エドワードの名付け親として、ハンプトン宮での洗礼式にも参加した。
 ジェーンは底意地の悪いアンとは異なり、メアリーを引き立てようと心を砕いた。
 真冬、メアリーともども毛皮に身を包み、同じ橇に乗って凍結したテムズの川下りを楽しんだこともあった。
 しかしメアリーが恩返しとしてできた事は、出産後わずか10日で亡くなったジェーンのために、喪主としてウィンザー城まで棺に付き添った事だけだった。

 メアリーは行き遅れた庶子の王女という中途半端な立場として、宮中に留まっていた。
 それはヘンリーの生存中も、異母弟エドワードの治世の間も変わらなかった。
 ただ亡き母への思慕と、カトリックの信仰だけが心の支えであった。

 メアリーが突如として脚光を浴び始めたのは、エドワードの病が篤く、この先長くないことが鮮明になった時であった。1542年にヘンリー8世が改訂した王位継承順によれば、エドワードの後を次ぐのはメアリーだった。
 しかしエドワードは狂信的なプロテスタント信者であり、野心的なノーサンバーランド公は、そこに目をつけた。王の遠縁ジェーン・グレイもまた熱心すぎるほどのプロテスタントであった。

 メアリーは熱心なカトリック信者であったが、長年日陰者の立場であったためか、肉親縁者(アン・ブーリンの娘・異母妹エリザベスも含めて)陰 日向なく接したようである。

 メアリーの宝石目録の中には、エリザベスから贈られた小さな宝石(my Lady Elizabeth's grace)も含まれていたし、従姉妹のジェーンには、スコットランド皇太后公式訪問のレセプションで着るための、金襴とベルベット製のドレスを贈った。

  それに対してジェーンは派手過ぎるといって拒否し、メアリーのミサに参加しては「迷信深い偶像崇拝」といって、声高に非難した。ノーサンバーランド公はそんなジェーンこそ、異母姉メアリーより後継者に相応しいとエドワードに吹き込んだのである。

 しかしジェーン本人は、メアリーを出し抜いて即位する気などなかった。ジェーンはあくまで狂信的な「英国国教会」信者であって、平等や民主主義を信条とする独立派ピューリタンではなかった。

  いわば王室御用達宗教の信者であればこそ、正当な王位継承法を覆すなど、大それたことを考えるはずもなかった。主役はあくまで野心家ノーサンバーランド公VSメアリーであった。

 1553年7月6日にエドワードが息を引き取ると、その3日後には議会においてジェーンが女王である、と宣言され、翌日には戴冠のためにロンドン塔へ移った。
 しかしこの決定は、国民はもとよりジェーン自身当惑した。
 ノーサンバーランド公は、王の死を伏せてメアリーをおびき出すつもりであったが、事前に察知され、彼女はノーフォークへ逃走した。
 ノーフォーク公トマス・ハワードの支持を得て、ケニングホール、フラムリンガム城、ソーストン・ホールを転々とした。その間ノーサンバーランド公側も逆襲に出て、ソーストンを急襲したが、ここでもまたメアリーは間一髪で脱出した。
 燃えさかるソーストンの館を眺めながら、「燃えるに任せるがいい。私が権力を握ったら、さらに良い館を建ててやる」と言い放った。
 ノーサンバーランド公はメアリーの国外逃亡を阻止するため、港を封鎖したが、海軍はメアリー支持を表明して反乱を起こした。

 結局ジェーン・グレイの女王僭称はたったの9日間で終わった。
 ジェーンの母サフォーク公妃は家族の慈悲を請い、捕らえられたノーサンバーランド公自身もまた涙ながらに「女王万歳」を口にする有様だった。
 サフォーク家は許されたが、当然ながらノーサンバーランド公自身は反逆罪を宣告され、1553年8月23日に処刑された。ジェーンは公爵の息子の嫁という立場もあって、ロンドン塔に監禁された。

 7月20日、ノーサンバーランド公が捕らえられたとニュースが流れると、市民らは
「メアリー万歳」を叫びながら帽子を投げ、歓呼の声をあげた。
 1553年7月30日、第2王女エリザベスはコルチェスター街道で、ノーフォークから
帰還したメアリー一行を出迎えた。メアリーは昔のように、エリザベスを親戚縁者として扱い、手を取って歓迎の意を述べた。

 1553年10月1日、ついにメアリーは初の英国女王として登極した。
 その4日後、初めて開かれた議会での議題は、母キャサリンの王妃としての正当性と離婚の撤廃だった。
 これは当然の事として受け止められ、ほとんど異論なく通過した。
 長い長い、気の遠くなるほど長い道のりだった。メアリーは常に1人で静かに涙を流し、得意な刺繍をし、音楽を演奏して気を紛らわせる、哀れな年増女に過ぎなかった。メアリーはその存在じたい、否定され続けてきた。
 今は違う。今メアリーは英国最高の権力者であった。
 「復讐」・・その文字が具体的に心に浮かんだか否か、定かではない、
 しかしあの懐かしい時代、父と母が仲良く連れ添い、カトリックの素朴な信仰が人々の連帯であった昔に戻るという夢が、目の前のプロテスタント達の利害と真っ向から衝突するのなら、それこそがメアリーの用意した壮大なる「復讐」であった。

 メアリーの意図を薄々察していたカール5世は、駐英大使シモン・ルナールを通じて急激なプロテスタントへの迫害は、スペインの立場を悪くするので控えるよう、忠告してきた。

 それを受けて即位直前の8月12日には、女王は国民が良きカトリック信者に戻ることを望んではいても、強制するつもりはない、と宣言していた。
 が、しかし即位した今となっては、いちいち反カトリックのデモを繰り返す狂信者の群は目障りであった。

 政治家として、粛正する必要に迫られていた。問題なのは、メアリーの選んだ「手段」であった。

 メアリーは忠実な配下であったソールズベリー伯爵夫人の遺児で、ローマへ亡命していたレジナルド・ポールを法王特使に任命する一方、ウスター主教ヒュー・ラティマーやロチェスター主教ニコラス・リドリー、カンタベリー大主教トマス・クランマーらをロンドン塔へ投獄した。ラティマーやリドリーはエドワード治世下で出世した人物であり、クランマーに至っては、母キャサリン王妃追放に一役買った仇敵であった。

 メアリーは英国国教会を筆頭とするプロテスタントが、単なる宗教ではなく、愛国主義と密接な関係にあることを見落としていた。メアリー自身も母から受け継いだスペインの血を意識していて、結婚するなら、英国人ではなく、母の実家であるスペイン・オーストリア王家の王子を希望していた。
 そしてプランタジュネット家の血を引く王族コートニーの求婚を退け、カール5世の息子11歳も年下のフェリペを選んだ。フェリペを選んだ事は、英国国教会ではなく、カトリックを選ぶ事をも意味していた。
 ここにいたり、メアリーと英国の関係は、目に見えない民族紛争と化した。

 案の定、1554年1月末、スペインとの併合に反対する愛国者ワイアットが反乱を起こした。メアリーはギルド・ホールに赴き、市民代表に向かって自分が女王であることを力説することで、女王が「国民の象徴」と意識させることに成功し、反乱は尻つぼみに終わった。

 1554年3月、メアリーはフェリペ代理のエグモンドを通して仮結婚を行った。
 花婿本人は7月になって英国に到着し、2人はウィンチェスターで初めて対面した。
 27歳のフェリペはほっそりとした小柄な男で、小さな青い瞳と茶色い髪の持ち主だった。
 一方のメアリーは、ベネチア大使ミチェイリの記録によれば「声は大きく野太い」38歳という年齢よりも老けて見える、中年女であった。近視なので、人の顔を見るとき睨む癖があった。
 メアリーにとっては最初で最後の恋人であるのと同時に、初めて持つはずの家庭生活だった。
 夜明けから深夜まで多忙な日々の中で、メアリーはフェリペと食事を共にし、その合間に得意のリュートを奏でて見せた。
 その年の11月、メアリーは妊娠したと思いこんだ。だが翌年の5月には、それがただの思いこみに過ぎなかったことが判明した。侍女たちもまた、女王は最初から妊娠などしていなかった、と証言した。
 そして8月29日、フェリペは帰国してしまった。

(妊娠などしていなかった。私には何も残されていない・・・)
 涙を流しながらフェリペを見送ったメアリーの胸には、どうしようもない虚無感が根を下ろしたに違いない。

 夢見ていた家庭生活の現実とのギャップと孤独感が、メアリーと狂信的プロテスタントとの戦いを加速させていった。

                         

                 参考資料/
            The Tudor place  Jorge H. Castelli
            Tuder History Lara E. Eakins
            Mary Tuder by Elisabeth Lee
            Mary Tudor: The Spanish Tudor by H.F.M. Prescott
            幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
            女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
            薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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英国女王メアリー1世Part1(ヘンリー8世第1王女)Queen Mary 1 [チューダー王朝の国王たち]

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        メアリー1世/リック・クラバートン作
        ステンドグラスの下絵1557/所蔵不明

         1516年2月18日、グリニッジ宮で誕生
         1553年11月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
         1558年11月17日、セントジェームス宮にて崩御 享年42歳

 全てが因果関係にあって、偶然や確率という発想の許されない世界は息苦しい。
しかしチューダー王朝の人々が生きていたのは、まさにそういった世界であった。

 ヘンリー8世と最初の妻キャサリンは、習慣性流産に苦しめられていた。
 2回は出産したものの、新生児は半年と生きていなかった。
 当時の感覚から言えば、それは何らかの「罰」だった。
 では「罰」とは何か。それはキャサリンが以前ヘンリーの兄アーサーの妻だったからだ。
 旧約聖書のレビ記には「汝、兄弟の妻を娶るなかれ。2人は子無きままだろう」という呪いにも似た記述があった。

 1516年2月18日、キャサリンは最初で最後の健康な子供を産んだ。
 父方の叔母・サフォーク公妃メアリーにちなんで、「メアリー」と名付けられた。
 それは皮肉にも、聖書の記述が迷信であったことを裏付けるものだった。
 当初ヘンリーは、自分によく似た赤褐色の髪の、母親譲りの灰色の瞳をした娘を「The Greatest Pearl in the Kingdom(王国で最も素晴らしい真珠)」と呼んで溺愛した。

 メアリーはそのシンボル・カラーの青と、チューダー王朝のシンボル・カラーの緑の服を着た侍女達に取り囲まれ、「メアリー内親王家」の女主人として君臨していた。
 音楽の才能があり、バージナルを奏でることもできれば、自ら作曲もしたという。
 そんな幸せに陰りが見え始めたのは、1520年代終わり、メアリーが10代に入ってからだった。
 ヘンリーは愛人のアン・ブーリンと再婚したいがために、キャサリンを追い出す口実として、レビ記の記述を悪用した。ヘンリーの主張によれば、キャサリンが男子を産めなかったのは、天罰だった。
 キャサリンを追放して、アン・ブーリンが王妃となり、第2王女エリザベスが誕生すると、メアリーは内親王の称号を剥奪された。
 メアリーは父に宛てて「私は両親の結婚が正当なものであったと信じています。そうでなかったと主張することは、神の怒りを買うでしょう。それ以外は、私は父上の従順な娘です」と書き送った。

 それに対してヘンリーは「横柄にも、内親王の称号を僭称している」と、答えただけだった。

 新王妃アン・ブーリンはノーフォーク公を派遣して、「これから新王女エリザベスのもとで働かせるつもりだから、身の回りの物をまとめるのに30分の猶予をやる」と言ってよこした。
 メアリーはアンによって母に手紙を書くことも禁じられ、宝石は没収、アンの叔母のシェルトン夫人の監視下、暴力をふるわれる事すらあったらしい。
 そんな孤立無援の中でも、メアリーは母を信じて気丈であった。
 ノーフォーク公に「新王女に対して敬意を払わないのか」と叱責された時、毅然と「王女は私以外にはおりません。妹としてなら認めましょう」と答えた、という。

 後にアンは反逆を問われ、1536年5月、処刑された。
 父と娘の相克はその後も続いた。ヘンリーはキャサリンとの結婚が不法なものであったと認めるよう迫ったが、メアリーは死を覚悟の上で拒絶した。
 使者であったノーフォーク公は、「自分の娘であったなら、壁に頭を叩きつけて焼き林檎のように潰してやったのに」と、地団駄を踏んだ。
 ヘンリーはメアリーを、反逆者としてロンドン塔へ送ることも検討した。
 危機を感じた神聖ローマ皇帝カール5世が介入して、説得に当たった。
 メアリーは皇帝の立場を考えて、仕方なくキャサリンの王妃の地位を否定する書類にサインせざるをえなかった。時に1536年6月15日、メアリーは20歳になっていた。
                   (つづく)

             参考資料/
        The Tudor place  Jorge H. Castelli
        Tuder History Lara E. Eakins
        Mary Tuder by Elisabeth Lee
        幽霊のいる英国史 石原孝哉 集英社
        女王エリザベス(上下) C・ヒバート 原書房
        薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社


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エドワード6世King Edward 6/小さな独裁者 [チューダー王朝の国王たち]

 
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エドワード6世/ホルバイン作1543/NYメトロポリタン美術館蔵
        
      1537年10月12日、ハンプトン宮で誕生
      1547年2月25日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
      1553年7月6日、グリニッジ宮にて崩御 享年15歳

エドワードはヘンリー8世にとって、かけがえのない長男であった。
息子を得るためだけに、ヘンリーは3度結婚し、3人目の妻ジェーン・シーモアによって、ようやくエドワードが誕生した。しかし母のジェーンは、出産後12日目に亡くなった。

エドワードは非常に勤勉な少年であった。歴史、地理、宗教、言語を学び、とりわけ地理
と宗教を好んだ。英国、スコットランド、フランスの全ての港の位置と潮の関係、出航に
適した風の条件などに精通していた。
宗教においても聖書をよく暗記し、周囲の影響を受けて熱心なプロテスタントに成長した。

一見幼く愛らしく見えるエドワードであるが、その体内に流れる父や祖父の残忍なる気質
は変えようがなかった。レジナルド・ポールが聞いた話によれば、ある時エドワードは家
庭教師の目の前で、生きているハヤブサを惨殺した、という。
1547年、父のヘンリー8世が死に、自分が新国王となった事を知らされた時、エドワー
ドは異母姉のエリザベスと抱き合って泣いた。

ヘンリー8世の遺言により、摂政サマーセット公を始めとする協議会が、新王エドワー
ド6世が、16歳になるまで補佐することになっていた。
しかしエドワードは14歳で、すでに持ち前の独裁的性格を見せ始めた。
伯父である摂政サマーセット公と、もう1人の叔父トーマス・シーモアが対立した時、
彼はトーマス・シーモアを反逆者として逮捕させた。弟を処刑することに躊躇する摂政
に、エドワードは協議会を通して処刑するよう命じている。
彼が叔父トーマスを憎んだのは、一説によれば、愛犬を射殺されたからだ、という。
後にエドワードは叔父の摂政よりも、ノーサンバーランド公ジョン・ダッドリーを信頼
し、伯父である摂政サマーセット公をも失脚・処刑させた。

異母姉のエリザベスは、一般的には仲の良い異母姉弟、とされているが、エドワードを
弟よりも国王として敬った。エドワードの前ではかならず跪き、手紙には「陛下の慎ま
しい姉にして下僕」と署名した。
2人は一緒に暮らしていた事もあったが、即位の後は完全に離ればなれとなり、会食に
同席するおりには、エリザベスは「5度弟の前に跪き」平伏した、という。
エドワードもまた飾り気のない異母姉を「私の禁欲的なお姉様」とからかって呼んだという。
しかし16歳で、死神が近づいていた。医師は「肺に化膿する腫瘍」があると診断した。
腕や足は異様にふくれあがり、肌は黒ずみ、髪が抜け落ちていった。
激しい咳と痛みの下で、エドワードは2人の異母姉ではなく、自分と同じように熱心なプ
ロテスタントだった遠縁のジェーン・グレイに王位を譲るとして、父の決めた王位継承法
を訂正する遺言状を作らせた。
1553年7月6日、エドワードは祈りの言葉を呟きながら息を引き取った。

             
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
女王エリザベス ヒバート 原書房
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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ヘンリー8世king Henry8/別名「率直王」 [チューダー王朝の国王たち]

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ヘンリー8世/ハンス・ホルバイン/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

ヘンリー8世。その名が英国では「率直王」というあだ名で呼ばれる事に違和感を感じる人は少なくなかろう。

ヘンリーはチューダー王朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベスとの間に生まれた。1491年6月24日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいた。
5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立されており、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーとしか映らなかった。

ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽ヨーク公であった彼が皇太子に立てられた。彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて育った子供であった。音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたという。
12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・オブ・アラゴンと婚約した。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は女官長他側近達も証言する事実であった。
しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかった。
そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを正式な王妃に迎えたのであった。

ヘンリー8世は俗に「ヘンリー8世と6人の妻たち」といわれるように、6回結婚したことで知られている。最初の王妃キャサリンとは父王の反対を押し切っての恋愛結婚、2度目のアン・ブーリンとはバチカンと決別してまでの不倫掠奪婚、3度目ジェーン・シーモアは2番目の妻を処刑しての恋愛結婚、5度目のキャサリン・ハワードも恋愛結婚、6度目のキャサリンパーも恋愛結婚である。
いずれもヘンリー8世自身が見そめて、恋をし、妃に迎えた女性ばかりであった。
わずかに4度目のアン・オブ・クレーフェのみ、政略の意味もあって妻にした女性であったが、それとてホルバインの描いた肖像画の美貌に惹かれたという理由もあった。

恋愛結婚したはずの王妃たちの運命は決して幸福なものではなかった。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの故国スペインは、最初英国の同盟国であったが、1519年に
神聖ローマ帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となった。
カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであった。
危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃キャサリンの立場は弱まった。
おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリンに魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけた。

熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げる。
「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させた。

1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・シーモアを娶り、後のエドワード6世が生まれた。同年から国内の法王領である修道院の財産没収に着手した。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となった。
政情不安から、36年には「恩寵の巡礼」なる大反乱が勃発している。

37年、ジェーン王妃が産褥が亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード家のキャサリンと結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまう。
その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びた。

1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せると、ホワイトホール宮で息を引き取った。1547年1月28日のことだった。

              ヘンリー8世年表
             
1490年 英国王ヘンリー7世の次男として生まれる
1501年 兄のアーサー、キャサリン・オブ・アラゴンと形式的に結婚
1502年 アーサー死去
1503年 母エリザベス王妃死去
1509年 父ヘンリー7世死去 
     ヘンリー8世即位 
     キャサリンと結婚
1517年 長女メアリー生まれる
1532年 キャサリンと離婚
     アン・ブーリンと結婚
     二女エリザベス生まれる
1534年 英国国教会成立
1535年 トーマス・モアなど重臣の処刑
1536年 アン・ブーリン処刑
     ジェーン・シーモアと結婚
     修道院廃止
1537年 皇太子エドワード生まれる
     ジェーン・シーモア死去
1539年 アン・オブ・クレーフェと結婚
     翌日離婚
1540年 キャサリン・ハワードと結婚
1542年 キャサリン・ハワード処刑
1543年 キャサリン・パーと結婚
1547年 死去 享年56歳

              
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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 ヘンリー7世 King Henry 7/狐のごとく [チューダー王朝の国王たち]

   
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     ヘンリー7世胸像/トリジアーノ作/ビクトリア&アルバート美術館蔵
     
     1457年1月28日、ウェールズのペウンブルックシア城で誕生
      1485年8月22日、ボズワースの戦いで英国全土を掌握
      1485年10月30日、ウェストミンスター寺院にて戴冠
      1486年1月18日、王妃エリザベス・オブ・ヨークと結婚
      1509年4月21日、リッチモンド宮にて崩御 享年53歳

ヘンリー7世ことリッチモンド伯ヘンリー・チューダーの家系は、三代に渡ってヨーク家
との死闘を繰り返した系譜であった。
彼の祖父オーウェンは、元ウェールズ王家に仕える宰相の家系であったが、15世紀初頭
の「ウェールズの反乱」に連座して後、英国王室に臣従した。
後に彼は、1461年のモーティマーズ・クロスの戦いでヨーク側の捕虜となり、処刑された。
オーウェンの息子であり、ヘンリーの実父エドマンドは1456年、やはりヨークとの戦いに
敗れ、斬首されている。
1457年1月28日、ヘンリーがウェールズのペウンブルックシア城で誕生した時、すでに
父はこの世にいなかった。

母の実家・ボーフォート家は王室の血を引いているといっても、庶子の家系であって、
王位継承権は持っていなかった。しかし流血夥しい薔薇戦争の最中、本家ランカスター家
は崩壊した。

1471年時のランカスター本家の国王ヘンリー6世は、バーネットの戦いに敗れた後、ほどなくヨーク側に殺害されていた。
分家の息子/幼いヘンリー・チューダーもまた、ヨーク側の人質として、1468年頃まで捕らえられていたという。
やがて伯父によって助け出されたヘンリーは、14歳でフランス・ブルゴーニュ地方へと亡命した。

1485年25歳の時、ついに逆襲に出た。8月7日、ウェールズに上陸した彼は味方を集め、8月22日、ボズワースの戦いにおいて、ヨーク王朝最後の王リチャード3世を敗死させた。

同年10月30日、ついにヘンリーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世として即位した。
議会は、彼の王位継承を認める条件として、早くヨーク家の王女と結婚するよう促した。
翌年の1486年1月18日、ウェストミンスター寺院において、王女エリザベスを正式の王妃に冊立した。これによって、ついに対立するヨーク家とランカスター家が合流し、薔薇戦争は終結したのだった。

24年の治世の間、10回の議会が招集されたが、いずれも国王に従順な者ばかり・・。
ヘンリー7世はヨーク側として戦った貴族を反逆者としてその領地を没収し、王室の財産を増やし、地方大貴族の勢力を殺ぐのと平行して各地に治安判事を置き、中央の意向を反映させた。

            ヘンリー7世のライバル達
   ヨーク公リチャード=========================シセリー・ネヴィル
            |     |     |     |     |
 エリザベス===エドワード4世 ジョージ エリザベス マーガレット リチャード3世
     | |    (クラレンス公)  |   (ブルゴーニュ公妃)
エドワード5世 リチャード     |  ジョン・デ・ラ・ポール
(ランバート (パーキン    エドワード (リンカーン伯)
 シムネル?) ウオーベック?)(ウォーウイック伯)


しかしヘンリー7世にはまだ倒すべき敵が残っていた。
ヨーク王朝は最後の王リチャード3世が倒れたとはいえ、まだ王位継承権を持つ者が何人も存在していたからである。その1人、リチャード3世の兄クラレンス公ジョージの息子ウォーウィック伯エドワードである。彼は一説によれば知的障害者と言われており、挙兵することもなく、ヘンリー7世によってロンドン塔に幽閉されていた。

もう1人は、リチャード3世の姉エリザベスの息子リンカーン伯ジョン・デ・ラ・ポールである。
1487年、ジョンはランバート・シムネルなるオックスフォードの商人の息子を行方不明の「エドワード5世」だと称して、これを旗印にダブリンで挙兵した。
しかし反乱軍は同年6月16日、ストークの戦いで敗れ、ジョンは戦死。
「エドワード5世」として担ぎ上げられていたシムネルの方は、許されて宮廷の調理場で焼き串を回す仕事に従事した、という。

もしジョン自身が、自ら王と名乗って挙兵していたら、ヘンリー7世を打倒することも可能だったかもしれない。なぜそうしなかったのか、謎である。

1495年、今度はパーキン・ウォーベックなる男が、「ヨーク公リチャード」を名乗って挙兵した。
前回とは異なり、パーキンはブルゴーニュ公妃マーガレットから本物である、というお墨付きをもらい、スコットランド王や神聖ローマ皇帝からも支持を得ていた。
1497年、エクセターでの会戦でパーキンは敗れ、ロンドン塔へ幽閉された。
これに懲りたヘンリー7世は、2年後パーキンとウォーウィック伯エドワードの2人を処刑した。

しかしながら外交面では、ヘンリー7世の活躍はめざましかった。
長年の宿敵だったスコットランドへ長女マーガレットを嫁がせ、逆にスペインから皇太子妃として王女キャサリン・オブ・アラゴンを迎えた。

ヘンリー7世は、いかにも王朝の開祖にふさわしく、狡猾にして残忍、したたかで計算高く、徳川家康をタヌキというならば、さしずめ狐と呼ぶに相応しい。
しかしながら、この男の経済感覚があったからこそ、英国はその後商業国家として栄える
のであり、また中央集権的政治体制の強化は、統一国家としての基盤を強めたのである。
この男こそ、英国が中世から近世へと移り変わる、時代を生み出した君主であった。

          
HenryVIIIfamily1.jpg

   ヘンリー7世夫妻とヘンリー8世夫妻/ホルバイン作模写/ハンプトン・コート/オリジナルは焼失
             
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
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