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メアリー・チューダー(ヘンリー8世の妹)Mary "Rose" Tudor, [ヒロインたちの16世紀 The Heroines]

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 1498年3月18日、メアリーはリッチモンド宮殿で誕生した。
 7歳で母を失い、14歳の時には父を失ったが、性格的にも趣味の点でもよく似ていた兄のヘンリー8世のもと、のびのびと成長し、1514年オーストリアのカール王子(後のカール5世)と婚約した。しかし同年この婚約はうやむやのまま解消され、次の相手には、34歳も年上のフランス王ルイ12世が決定してしまった。

 すでにこの時、メアリーの胸中には幼なじみのサフォーク公チャールス・ブランドンがいた。しかしこの男、臣下であるというだけでなく、結婚歴2回、離婚歴2回、婚約解消歴2回という経歴の持ち主であり、王女でなくても、家族が良い顔をするはずのない相手である。メアリーはどうせ政略結婚ならば、4歳年下の少年カールがよい、と泣いて訴えたが無駄であった。

 泣いて嫌がるメアリーの意思には関わりなく、フランスと英国との間で結婚の準備は着々と進められた。

 1514年8月13日、ルイ12世代理のロングヴィル公を相手に代理結婚の儀式が行われた。

 それは現代の我々から見ると、奇妙この上ない。
 メアリーとロングヴィル公が同じベッドに入り、裸の足と足を触れ合う事で、名義上の「初夜」を行ったのである。これによってメアリーは強制的にフランス王妃となり、華麗な祝賀会が催された。
 フランスからは豪華な花嫁衣装や宝石が届けられ、フランス大使の口を通してルイ12世直々に「沢山のプレゼントとともに、あなたの赤みがかった美しい金髪にキスしたい」と伝えてきた。
 兄ヘンリー8世そっくりの我の強いメアリーにしてみれば、耐えきれない事態であった。
 彼女は大人しくフランスに嫁ぐ代償として、兄に前代未聞の条件をつきつけた。
「もしルイ12世が亡くなって私が未亡人になったら、次の結婚相手は自分の意思で選びます。」

 同年9月、ドーバー海峡は嵐が吹き荒れて、安全な航海は無理だった。
 ようやく波も静まった10月2日、王女を乗せた船はブローニュに向けて出航したが、乗船間際、メアリーは兄ヘンリーの頬にキスをしながら「【あの約束】を忘れないで下さいね」と念を押したという。
 相変わらず海は時化模様で、14隻の船団のうち、予定通り到着したのは、メアリーの船を含む4隻きりだった。生憎の雨模様の中、船酔いでふらつきながら、メアリーはお供のクリストファー卿の従者に助けられて上陸した。

 モントルーユから待ち合わせのアベヴィーユには10日9日到着。
 深紅の帽子に、ぴったりした袖の金糸飾りをつけた深紅のドレスという、燃えるようなファッションであった。待ち受けていたルイ12世は、到着したその日のうちに式を挙げ、数週間に及ぶ祝典が繰り広げられた。
 その時、お供の女官はほとんど帰国したが、あのメアリーとアンのブーリン姉妹を含む、少数の女官だけが残った。

 ルイ12世との結婚は、たったの82日間しか続かなかった。
 同年の大晦日、ルイ12世は病没してしまい、メアリーは念願通り未亡人となった。
 王の死後40日間、メアリーは外界から遮断されてクリュニー修道院に引き籠もらざるをえなかった。
 フランスの習慣として、王妃は一月余安静にして妊娠しているか否かを判断せねばならなかったからである。
 1515年1月、メアリーは喪色の黒いベールで閉ざされた空間から、英国にいる兄に向けて手紙をしたためた。
「【あの約束】を守っていただけますか?。もしあなたが私の約束を破ることがあれば、私はこのまま出家いたします」
 新しいフランス王フランソワ1世は、再婚相手として自分の親族を紹介するとともに、もう一回ハプスブルク家のカール5世との縁談を持ち出したが、メアリーはあっさり拒否し、兄ヘンリー8世と交わした「次の結婚は自分で決める」という約束と、英国貴族のサフォーク公チャールス・ブランドンを愛している、と告白した。
 意外にもフランソワ1世は協力的だった。
 王の死後8週間後、英国からの使節が到着した。その中には愛するチャールス・ブランドも含まれていた。
 メアリーはチャールスの腕を掴むように、結婚を迫った。

 その年の5月、2人は帰国した。メアリーはルイ12世から贈られた宝石類と4000ポンドの金額をフランスに返して、前の結婚を精算した。
 5月3日、メアリーとチャールスはグリニッジ宮殿でヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの列席のもとで披露宴をあげた。
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             メアリーの肖像/作者不詳/
 

 メアリーとヘンリー8世妃キャサリンとは、仲が良かった。
 11歳の年の差はあったとはいえ、実の姉マーガレットが早くにスコットランドに嫁いでいたために、メアリーは義理の姉を実の姉妹のように感じていた。
 1516年、2人は相次いで出産する。
 キャサリン王妃の方が少し早く、2月18日に王女を出産、義妹メアリーにちなんで「メアリー」と名付けた。
(後の英国女王メアリー1世)
 メアリーは遅れること1月弱、3月11日に、長男を出産し、兄ヘンリー8世の名にあやかって「ヘンリー」と命名した。

 メアリーはしばしばキャサリンの代理を務めた。1518年フランス皇太子と姪のメアリー王女の婚約式(後に婚約破棄)にも夫婦で参加したし、2年後のフランス・カレー近郊で行われたフランス王と英国王の交流会(「金襴の陣」)にも、妊娠中だったキャサリンの代わりに出席した。
 フランス側は「キリスト教社会の薔薇…フランスに留まって欲しかった」という、惜しみない賛辞をメアリーに捧げた。

 そんなメアリーは、ヘンリー8世がキャサリンと離婚して自分の侍女に過ぎないアン・ブーリンとの結婚を望んでいると知って驚き怒った。
 そしてアンの男性遍歴をあげて、アンを非難し、フランスの公式訪問の時にも一緒行くことを拒否した。
 その仕返しに、アン・ブーリンは宮中での晩餐会で、メアリーより上座に座った。
 激怒したメアリーはアンとヘンリーの結婚式への参加を蹴った。

 しかしメアリーは1518年頃から体調を壊していた。
 最初は腸チフスであったらしいが、後に癌になったとの説がある。
 1533年6月25日、メアリーはサフォーク州のウェストホープの自宅で亡くなった。
 夫のチャールスは5月半ばに一度見舞いに訪れたきり、ロンドンに行ったままだった。
 薔薇のメアリー、時に38歳の若さであった。

 夫チャールスは妻のために、ウェストミンスター寺院でレクレイムを演奏するよう要請したが、葬式には参列しなかった。メアリーの遺体はウェストホープの自宅に一ヶ月安置された後、ベリーセント・エドマンズ教会に葬られたものの、修道院解散の余波を受けて教会は破壊され、棺は近くの聖メアリー教会に移された。
 1784年、その棺が改葬のために掘り起こされた時、遺体の歯の状態はよく、赤みがかった金色の髪2フィートあまりが残っていたという。

               参考資料/
        The Tudor place by Jorge H. Castelli
        Tudor World Leyla . J. Raymond
        Tuder History Lara E. Eakins


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