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キャサリン・オブ・アラゴンChatherine of Aragon(1485~1536) ヘンリー8世一人目の妻       [ヘンリー8世と6人の王妃たち〜その栄光と悲劇_]

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キャサリン・オブ・アラゴン/1525ルーカス・ホルネボルト作
             ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
           
キャサリンは1485年12月15日、マドリードのアルカーラ・デ・ヘナレス宮殿で誕生した。父はアラゴン王フェルナンド2世、母はカスティーリア女王イザベラ1世。「カトリック両王」といわれるこの夫妻の間の、末娘であった。
キャサリンは1488年わずか3歳で、時の英国皇太子アーサーと婚約していた。

1501年10月2日、キャサリンは16歳で、初めて夫となる人の国/プリマス港の土を踏んだ。それから一月後の11月14日、アーサーとキャサリンはセントポール大聖堂において、華やかに挙式を挙げた。しかしアーサーが病弱であったために、肉体関係を結ぶことなく、半年後の1502年4月20日、滞在先のウェールズにおいて、アーサーは亡くなってしまった。

結婚が形式上だった事や、持参金が半分不払いだったこともあり、英国とスペイン間の話し合いはこじれた。持参金を手放したくないために、ヘンリー7世は2年後次男のヘンリー(8世)とキャサリンを形だけ婚約させたが、実行するつもりはなかった。

しかしキャサリンを愛していたヘンリー8世は、1509年父王が没した一月後の6月3日、立ち会い人1人のもとにグリニッジ宮殿の礼拝堂でひっそりと結婚し、8日後、ウェストミンスター大聖堂で盛大な戴冠式を挙げたのだった。
当時の年代記録では、その時の模様をこう伝えている。

「翌日日曜日は、聖ヨハネの祝祭日だった。高貴なる王子は時間通りウェストミンスター
 にむかって宮殿を出発した。シンクポート男爵が天蓋を支える中、ロイヤルカップルは
 大聖堂に入った。内部では、神聖なる伝統、古代からの習慣によって貴族達や高位聖職
 者らの見守る中、カンタベリー主教の手によって、優美に油を注ぐ儀式が行われた。
 詰めかけた人々は大声で2人を祝福した。」
(チューダー朝/宮中年代編纂者/エドワード・ホール著1509年)
 
しかしこうした華やかさと裏腹に、キャサリンは習慣性の流産に苦しめられていた。
1511年、やっと出産するも王子は一月後には逝去、その2年後に生まれた王子もまた生まれてすぐに亡くなった。妊娠、流産を繰り返した後の1516年2月18日、ようやく健康な王女メアリーを授かった。

そうした悲しみの中でも、キャサリンはよく夫を支え、ヘンリーがフランスに遠征中の1513年9月、スコットランドからの侵略を食い止めた。キャサリンの派遣した英国軍は、9月9日のフロッドンの会戦においてスコットランド軍に圧勝し、敵王ジェームス4世を討ち取るという快挙を果たした。

が、国際的状況はキャサリンにとって不利に動いていた。スペインとの同盟は破棄され、
今まで敵国であったフランスと英国の間で講和が結ばれた。
その頃ヘンリー8世は愛人アン・ブーリンとの結婚を望んだために、キャサリンが王子を産まなかったことを理由に離婚を言い出した。
キャサリンが以前、兄のアーサーと名目だけの結婚をしていた事を根拠に、聖書の禁忌に触れるとして、1527年、法王に結婚解消を願い出たのであった。
しかし時の法王クレメンス7世は、2人の結婚が法王の許可をえて行われたもの、だとして離婚の許可を出さなかった。また、法王に対して強い発言権を持つ神聖ローマ帝国皇帝カール5世もまた、キャサリンの甥として、反対した。
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         キャサリン・オブ・アラゴン/1530年作者不詳
          ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵

1533年5月23日カンタベリー主教クランマーによって、キャサリンとヘンリー8世の結婚は無効であった、と宣言され、翌年の11月、正式にキャサリンの王妃の称号が剥奪された。それ以降、公式には「アーサー皇太子未亡人」と呼ばれる事になる。

キャサリンは、アンが日の出の勢いで王妃への道を邁進している頃、宮中から追放され、アントヒルに監禁された。
その後1534年5月、キムボルトン城へと移送された。

その年、愛人アン・ブーリンは国民の反対を押し切って王妃になっていた。
アンの策謀により、一人娘メアリーを奪われ、アンの生んだ第2王女エリザベスの王位継承を認めるよう迫られたが、命をかけて拒否した。

そして1536年1月7日、最期まで側にいた侍女マリア・デ・サリナスの腕の中で、息を引き取った。死因は癌、心臓病、あるいはアンとヘンリー8世による毒殺なのか、はっきりしない。
アン・ブーリンに好感を持つ歴史家は必死でキャサリンが病死であった、と主張しているが、その一方、アン・ブーリンがキャサリンを「毒殺したい」と日頃から口にしていたのも事実であった。もしアン・ブーリンが王子を産んでいたら、キャサリンとメアリー母娘は、反逆罪の濡れ衣を着せられ、処刑されていた事は間違いないだろう。
幸か不幸か、アンが最初に生んだのは娘エリザベス(後のエリザベス1世)だった。
アンはキャサリンの死の知らせを聞いて、侮蔑を示す黄色いドレスに身を包み、ヘンリーと手を取り合って喜びのダンスを踊ったという。

キャサリンは自分が日増しに衰弱していく中、死を予見し、どんな仕打ちを受けても最期まで愛し抜いたヘンリー8世に、遺言ともいえる手紙をしたためた。
          
「My most dear lord, king and husband,
私の最も愛するロード、王よ、そして我が夫よ

「The hour of my death now drawing on, the tender love I owe you forceth me,
  my case being such, to commend myself to you, and to put you in remembrance
  with a few words of the health and safeguard of your soul which you ought to
  prefer before all worldly matters, and before the care and pampering of your body,
  for the which you have cast me into many calamities and yourself into many troubles.
For my part, I pardon you everything, and I wish to devoutly pray God that He will
  pardon you also. For the rest, I commend unto you our daughter Mary, beseeching
  you to be a good father unto her, as I have heretofore desired. I entreat you also,
 on behalf of my maids, to give them marriage portions, which is not much, they being
  but three. For all my other servants I solicit the wages due them, and a year more,
  lest they be unprovided for. Lastly, I make this vow, that mine eyes desire you
  above all things

                            Katharine the Quene」.

「私にも最期の時がやってまいりました。優しい愛が、あなたへの義務を果たします。
 このような場合ですから、あなたに対して、あらゆる雑事よりも、あなた自身の身
 よりも、あなたの魂の安全と健康とを心がけるようお願いするために、わずかな
 言葉をあなたの記憶の中に残したいと存じます。
 あなたは多くの災いとトラブルとを、私に投げかけましたけれど、私は全てを赦し、
 神もまたあなたをお赦し下さいますよう、信心深くお祈りいたします。
 我らの娘であるメアリーのために、良き父であるようお願いいたします。
 また、侍女たちを代表して、彼女たちのために、多くとは申しませんから、どうぞ結婚
 資金を用意してあげて下さい。また、一年に渡って無償で私に仕えてきた下僕達にも、
 給料をお支払い下さいますように。
 最後に、私の目があなたの姿を一目見たいと何よりも望んでいることを、お誓いします。」
                     署名 キャサリン王妃
               (キャサリン最期の手紙1536年1月7日/くに訳)

キャサリンの遺体は、キムボルトンから40キロ離れたピーターバラ聖堂に葬られた。
その葬列には、ヘンリー8世に禁じられていたにもかかわらず、一般市民500人が参列し、キャサリンへの敬意と哀悼を捧げたという。
今その墓標には、誇り高く「英国王妃キャサリン」と掲げられている。
生前キャサリンを足蹴同然にしながらも、最後は反逆者として抹殺され、まともな墓すら持てなかったアン・ブーリンとは、あまりにも対照的であった。
              「Katheren Queen of England」の墓碑
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              ピーターバラ聖堂/Lara E. Eakins撮影



               
         (キャサリン・オブ・アラゴン人間相関図)

         キャサリン←(主君/侍女)→アン・ブーリン
                ↑            
                  (夫婦)         
                    ↓            
              ヘンリー8世←(兄弟)←→アーサー皇太子
                    ↑
                  (親子)
                    ↓
                 女王メアリー1世

                  
       参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
薔薇の冠 石井美樹子著 朝日新聞社
英国王妃物語 森 護 三省堂選書
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